11.
白をポンして、テンパイ。待ちはイーピンとスーピンで、一枚ずつ河に流れている以外は、どこにも見えていない。アガれば、ドラを含めて確定満貫、トップの紗季ちゃんに直撃しなくても、三位の清水が出してくれればそれで逆転トップになれる。そんな状況で、ツモったのがサンピン。何となく俺の勘が嫌がるこの牌をそれでも強打するのか、それとも悪手になってでも安全牌であるリャンピンを切って安全にいくのか。ここが、この対局における最も大事なタイミングだという事は、明らかだった。
「武司、武司」
そんな重要な局面を見計らったかのように、清花姉がノックすらせずに扉を押し開いて入ってきて、執拗に俺の名前を呼んだ。
「何だよ。今、だいぶ大事な所なんだ」
「お風呂の水、出っ放しだったけど」
焦るというより少し冷めたような清花姉の言葉に、俺はつい三十分ほど前に自分が始めた事を思い出して、青くなり、右手の親指と人差し指で掴んでいたサンピンを落とした。俺の命運を握りたるサンピンは、俺の前に残った山を器用に飛び越えて、次の捨て牌を置く場所へ綺麗に滑り込んだ。
「まぁ、止めておいたんだけどさ。気を付けとかないと、水道代で破産しちゃうからね」
「あ、それロンです~」
清花姉の言葉にホッとする気持ちと紗季ちゃんの声にしまったと思う心が混ざり合って、喜んで良いのか悔しがって良いのか分からなくなった俺は、とりあえずその場にうつ伏せになって沈黙した。
「跳ね満貫です。そして、上がりやめします~」
ひーふーみー……これで、清水を抜いて堂々のラスだ。
「あ、紗季ちゃん。ぐりぐり踏んであげたら、武司喜ぶと思うよ」
「……武司さんは、その、そういう方なんですか?」
「違うわっ! 誰が喜ぶか!」
慌てて顔を上げて否定する。新しい住人にまで変態と認識されては堪らない。
「はいはい。……さて、と。お風呂沸かし始めたから、次は私も混ぜて四人でなんてどう?」
「清花姉さんは強敵です……。紗季さん、良いですか」
「はい、私は大丈夫です~」
もちろん俺にも異論はない。俺は今の敗戦を取り返そうと、三人で打つ為に抜いていたいくつかの牌を加えた後、これでもかと言う程に牌と牌とを掻き混ぜた。
その後、熱戦に熱戦を重ねた俺達が、風呂を沸かしている最中だという事をすっかり忘れきっていたのは言うまでもない。
紗季ちゃんの指摘によって風呂の事を思い出した俺達は、とりあえずお客様である紗季ちゃんから先に入って貰う事にした。清水は執拗に一緒に入りたいと申し出たが、我が家のお風呂は二人で入るには小さすぎるとの清花姉の的を射た意見により却下され、今はまさに紗季ちゃんが一人で風呂に入っている所である。恐らく今頃、風呂釜を撫でながら、俺達のうっかりグセによって多大なる迷惑をこうむっている風呂場全体を労っているのではないだろうかと思う。
「んー、まだまだ私には敵わないみたいねぇ」
麻雀は目下、清花姉の一人浮きだ。圧倒的な読みの深さとタイミングの良いリーチで、俺や清水から大量に点棒を奪いとった。ただし紗季ちゃんだけはそんな清花姉の影響をさほど受けず、二回のリーチが流されただけで、元の二万五千点から二千点減らした二万三千点で留まっている。清花姉は接待麻雀を打たないから、紗季ちゃんの実力が俺や清水より上だという事がこれで明らかになってしまった。
ところで、さっきは事故で二位の座を渡してしまったが、清水の麻雀の腕はさほどでもない。それは、もう一つ清水が知っている所のポーカーでも同じで、何故この二種のボードゲームだけルールを知っているのかは疑問だ。俺達が一から教えてやった大富豪では、無類の強さを見せるのだが。髪までふるふると震わせてここからの逆転を狙う清水の様子は、さながらライオンを遠目から威嚇するうさぎそのもので、俺は小さく笑った。
「可愛いし、しっかりしてる子だよね。紗季ちゃん」
「そうだな。清水、お前もしっかりしねぇと、清花姉に見捨てられるぞ?」
「その時は、嫌々武司を糧にして生きていきます」
たくましい奴だ。いちいち引っかかるのも確かだが。俺は、少し体を乗り出して、清水に中々のデコピンをしてやった。
「さっき金輪際デコピンはしないって神に誓っていましたのに……」
「誓ってねぇよ! それにあれは、あの場限りの話だ」
「むむ。それは卑怯です」
もう一発、今度は軽めの弱デコピンをする。
「……ねぇ、武司? 私が居る事、もしかして忘れてない?」
「げ……」
その二発目が、龍の逆鱗に触れたらしい。清花姉は、指を漫画のようにパキパキと鳴らしながら、立ち上がった。
「つ、つい出来心で……」
「問答無用っ!」
無抵抗な俺の頭を、清花姉の蹴りが襲う。俺が蹴りを貰って、何とか受け身だけ取って倒れ込んだ所へ、
「ただいまです~。良いお湯でした」
と紗季ちゃんが扉を押し開けて帰ってきて、すぐに顔を青くしてまた扉を閉じた。
「さ、清花姉! 修羅場だって勘違いされてるからっ!」
「これは修羅場よ。さあ、早く起き上がりなさい。次いくから」
「怖ぇよ!」
その後、起き上がらない俺に三,四度ほど重たいキックを放つまで、清花姉の矛は収まらなかった。