ヌヴェル40 プルーストの記憶 由香の場合
この部屋は、かつて見たような覚えがある。
六畳の居間。××記念と書かれた柱時計。神棚。違い棚の上のこけしと木彫りの仏像。
由香は記憶を辿る。
居間と続きになっている台所で女は冷蔵庫から取り出した麦茶をコップに注いでいる。
「悪かったわね。家まで荷物を持たせちゃって。でも、ほんと助かったわ」
コップを盆にのせて、女が居間に入ってくる。足をひきずりながら。
下校途中、由香は公園の脇道から出てきた女と出会い頭にぶつかった。その拍子に女は転げた。杖も転がり、買い物袋の中身が散乱した。
由香は申し訳ないと女の家まで買い物袋を提げてきた。玄関で帰ろうとしたが、お茶でも飲んでいってと引き留められた。
級友の丈史と一緒に書店に行こうと約束していた時間が気になる。
そろそろと思ったとき、台所の半開きの窓から金木犀の香りが漂ってきた。
その香りを嗅いで、由香の記憶が甦った。
あれは、十年前だ。
五歳だった由香は誘拐されたことがある。
そのとき、連れてこられた部屋が、この居間だった。
××記念と書かれた柱時計。神棚。違い棚の上のこけしと木彫りの仏像。
監禁されたのは、玄関を入って反対側にある四畳半の和室。
建て付けの悪い窓は締められないのか隙間をダンボール紙で覆われていた。
あのとき、外に連れ出されたときに、犯人は確保された。
犯人は男だったように覚えているが、女もいたような気がする。それがこの女か?
危険を感じた由香は、「そろそろ帰りますね」と言って居間を出た。
玄関の上がり框まで行ったとき、後ろから女がどんよりした声で言った。「鍵がかかっているよ」
由香は振り向くと、そのまま横手の和室に飛び込んだ。
建て付けの悪い窓に貼られたダンボール紙。それを剥ぎ取り、力づくで開けた窓から飛び出すと一目散に逃げた。
後から女が追いかけてくる。
あの足は嘘だったのか。
距離が縮まる。
そのとき、間延びした声がした。「ゆか~、どこに行ってるんだよ~」丈史だ。
五歳のときの誘拐事件。犯人を確保し、由香を抱き上げてくれた若い刑事の姿と重複した。
丈史の背中に回り込んだ由香が叫んだ。「いやー、こないでぇー」
丈史の前に女の姿はなかった。
後日、警察は女の家を特定した。
家宅捜索の結果、五歳の頃の由香の写真や誘拐を仄めかす証拠品、そして十五歳の由香の写真が押収された。
女は事件後行方知れずとなっている。
防犯カメラの映像や由香の記憶から作成された顔で指名手配がなされた。
二度の誘拐未遂に遭った由香は、どこか違う町へ行きたいと思った。
丁度、父親の転勤の話があり、家族で移ることにした。
引っ越しにあたり、由香は一つだけ願いを聞いてもらった。
「金木犀の香りのしないところがいい・・・」
プルースト効果
ある特定の香りや匂いから、それにまつわる記憶、感情が呼び戻される現象をいう。




