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モラハラ婚約者から逃れるために婚約破棄した結果、両親から勘当された悲惨な令嬢、路地裏の酒場で紅茶を淹れる

 私が婚約させられたのは、去年の秋だった。


 父の決定。母の賛成。そして、私の意思は、全く考慮されなかった。


「シャロット。お前は、マルドルフ公爵と婚約することに決まった」


「公爵ですか。どのような方なのか……」


「そんなことは、どうでもいい。相手は、王国でも有数の家柄だ。それで十分だろう」


 母が、さらに追い打ちをかけた。


「シャロット。あなたは本当に幸運よ。公爵家からの婚約話が来るなんて。家のためにも、喜んで受け入れるべきだわ」


「ですが、お母様。私の気持ちは……」


「シャロットの気持ち? 公爵家に嫁げるのに何が不満なの?」 


 父が、眼鏡を外して私の目を見る。


「貴族の娘に、個人の気持ちなんて、存在しない。お前は、家の駒だ。駒は、自分の意思を持ってはいけない。家が決めたことに従うだけ。それが、貴族の義務だ」


「ですが……」


「決定は下った。婚約式は、三週間後だ。それまでに、完璧な準備をしておけ」


 そう言って、父は部屋を去った。


 私の人生は、その日から変わった。


 婚約式の日、私は初めてマルドルフに会った。


 容姿は整っていた。衣装も豪華で、王族らしい威厳があった。社交界での評判も良かった。「理想的な婚約者だ」と、周囲は言った。


 だが、式が終わった直後、彼が初めて、私に話しかけた時、私は違和感を感じた。


「では、これから、いくつか決めておこう。結婚までの間に、お前が守るべきルールについてだ」


 その言い方は、話し合う姿勢ではなく命令的なものだった。


「えっと……」


「聞こえなかったのか。俺が言ったことを、お前は従え。それが、妻の役目だ」


「私は婚約者ですから、まだ妻ではなく……」


「細かいことを気にするんだな。どうせ、すぐに妻になる。今から慣れておけ」


 その態度は、社交界での彼の評判と、全く異なっていた。


 婚約式の後、マルドルフと何度か会う機会があった。


 宮殿での晩餐会。社交界の集まり。そして、彼の館での食事。


 社交界では、彼は完璧な紳士だった。


 だが、二人きりになると、本性をむき出しにした。


「お前の話し方は、つまらない」


 彼の館での食事の時。私たちが二人きりになった時、彼は言った。


「もっと知的に話せないのか。王国の公爵夫人になる者が、その程度の会話か」


「申し訳ございません。今後、気をつけます」


「気をつけるだけでは足りない。実際に、もっと魅力的な話し方を身に着けろ。お前は、俺の妻となる女だ。それに相応しい品を持たなければ」


 その言葉に、私は何も言い返せなかった。別の時には、こう言われた。


「お前の実家は、格が低い」


 彼は、ワインを飲みながら、そう呟いた。


「俺の家は、代々王妃の側近を務めた家だ。王族にも信頼される。だが、お前の家は、どうだ。単なる地方の伯爵家ではないか」


「ですが、私の家も、王国での地位は……」


「いや。格が違う。お前は、その現実を受け入れろ。そして、感謝しろ。俺が、こんな格下の女を妻に迎えてやるんだ。その恩を忘れるな」


 その言葉を聞いた時、私の中に、小さな違和感が、大きな不安に変わった。


「この人は、本当に、何をしている人なのか」


 社交界では、紳士的に振る舞い、完璧な笑顔を浮かべるマルドルフ。


 だが、二人きりの場では、支配的で、貶めるような言葉を何度も繰り返す男。


 その二つが、どうしても一致しなかった。


 ある日、私は勇気を出して、父に相談した。


「お父様。マルドルフ様は、婚約者の私に対して、時々、失礼なことを言うのです。例えば、『格が低い』とか『つまらない』とか……」


 父は、新聞を読んだまま、返答した。


「そうか。で、どうした」


「ですから、本当に、このままで大丈夫なのか、心配で……」


「そんな心配は必要ない」


 父は、新聞を降ろして、私を見た。


「原因はお前にあるんじゃないのか? お前が、もっと完璧に振る舞えば、そんなことは言われないはずだ」


「ですが……」


「しつこいな。家が決めた婚約だと言っただろう。お前は、黙ってリーフヴェル家の娘として従え。そして、彼を満足させるような妻になるための準備をしておけばいいんだ」


 母も、同じだった。


「シャロット。あなたは贅沢よ。こんな素晴らしい婚約に文句を言うなんて」


「ですが、お母様。彼は……」


「貴族の結婚において個人の気持ちなんて、関係ないのよ。大事なのは、家の利益。この婚約は、この家にとって、非常に有益なの。わかるでしょう?」


 その言葉を聞いた時、私は初めて理解した。


 両親は、私の気持ちを聞く気がない。両親が気にしているのは、家の利益だけだ。


 そして、マルドルフは、そのことを知っている。だから、彼は、こんなにも平気で、私に支配的な態度を取るのだ。


 私の両親が、私をサポートしないから。私に逃げ道がないから。


 その確信が、私の心を、さらに暗くした。


 そして、婚約から三か月が経ち現在。


 結婚式まで、あと一ヶ月。


 私は、その一ヶ月の間に、ある決断をした。


「この婚約を、破棄しよう」


 その決断に至った瞬間は、ある晩だった。


 マルドルフとの食事の最中のこと。


 彼は、いつものように、支配的な言葉を並べていた。


「結婚したら、お前は、俺の完全な支配下に入る。お前の人生は、全て俺が決める。友人との付き合いも。衣装も。お前が何を言おうと、俺の決定が全てだ。お前は、ただ従っていればいい」


 カツン。


 まるで、何か硬い氷が割れるような、そんな音が、心の中で鳴った。


「そんなの無理です」


「あ?」


「あなたと、結婚することはできない。絶対に」


 その確信は、強かった。揺るがないものだった。


「なんて言った?」


「あなたとは結婚できません。婚約を解いていただけませんか」


 その瞬間、彼の顔が変わった。


 彼は、読んでいた紙を置き、私を見つめた。


 その目は、怒りではなく、嗤いに満ちていた。


「冗談か。お前が、俺との婚約を解くだと」


「いいえ。冗談ではございません」


「馬鹿か。破棄できるわけがないだろ。お前の家族が許さないだろう。家族からは勘当され、社交界からは避けられるだろう。お前は、完全に独りになる。その覚悟があるのか」


 その言葉は、脅迫だった。


 だが、その同時に、その言葉は、私を決意させた。


「そうなっても構いません。あなたと一緒になるくらいなら」


 私は立ち上がりテーブルを強く叩いた。


「あなたとの婚約を破棄します」


 その言葉が、私の人生を、完全に変えてしまった。




 ★




 翌日、私は父の部屋に呼ばれた。


「シャロット。お前、何をしたのかわかっているのか」


 父の顔は、怒りというより、むしろ羞恥に歪んでいた。


「マルドルフ様に婚約を解きたいとお伝えしました」


 母が語気を強めながら横槍を入れてくる。


「シャロット。あなた、本気なの。公爵との婚約を破棄するなんて!」


「はい。本気です」


「どうして?」


「彼は、支配的で、私を貶めるようなことばかり言います。あのような方と結婚して生涯を添い遂げるなんて私にはできません」


「お前の気持ちなどどうでもいい。なんてことをしてくれたんだ」


「私の人生なのですから私に決める権利があると思います」


「あなたの人生?」


 母が、声を上げた。


「あなたは、リーフヴェル家の娘よ。個人の人生ではなく、家族の一部。その一部が、勝手に家の決定に逆らう。これは、家族全体への裏切り行為なのよ」


「それは理解しています。ですが、私にも無理なものは無理です」


「できる、できないの問題ではない」


 父が、立ち上がった。


「お前は、家名を背負って生きているのだ。その自覚がないのか」


「申し訳ございません。ですが……」


「申し訳ないでは済まされない。お前は、この家に、取り返しのつかない恥をかかせた」


 母が、私に近づいた。


「あなたは、本当に馬鹿ね。公爵家との婚約がどれだけ有益なものか。この家がどれだけ、その婚約に頼っているのか。それを破棄するなんて」


「家の利益のために、私の人生を捨てるわけにはいきません」


「捨てる?」


 父が、笑った。冷たい、底冷えするような笑い方だった。


「もういい。お前には心底失望した。お前が、これから何をしようと、この家は知らない。お前は、もう、リーフヴェル家の娘ではない。勘当だ。二度と、この家に足を踏み入れるな。二度と、この家の名を使うな。出ていけ」


「お父様……」


「今すぐ出ていけ。今すぐに!」


 母も、何も言わなかった。ただ、冷たい目で、私を見つめるだけ。


 私は、逃げるように何も持たずに、家を出た。


 ただ、身一つで王都の街に放り出された。


 目的地もなく歩いた。やがて、夜がやってきた。


 どこにも行く場所がない。


 頼る人もいない。


 親友たちも、社交界の人間関係が全てだから、もう、私には関わらないだろう。


「私は、これからどうすればいいのか」


 その問いが、頭の中をずっと回転していた。


 街をさまよい続ける中で、疲れと空腹と絶望が、私を包み込んでいた。


 やがて、夜は深くなった。


 王都の夜景は、美しかった。だが、その美しさは、私の絶望を、より一層、深くしていた。


「本当に、どうしたらいいのか、分からない」


 その嘆きが、私の口から漏れた時、私の目に、一つの灯りが映った。


 小さな酒場。王都の片隅にある、目立たない店。


 看板には「夜明けの羽根」と書かれていた。


 温かい灯りが、窓から外に漏れていた。


 何かに導かれるように、私は、その扉を押した。


 中は温かかった。


 暖炉の火が、心地よい温度を保っている。


 客は、数人。皆、静かに、ワインや酒を飲んでいた。


 カウンターの奥から、男が出てきた。


 二〇代後半くらいだろうか。温厚そうな顔をしていた。


「いらっしゃいませ。何をお飲みになりますか」


「あ……紅茶、いただけますか」


「かしこまりました」


 男は、暖かい紅茶を用意した。


 私は、それを飲みながら、ただ、ここにいた。


 温かい空間。優しい空気。


 男は、私の方に特に気をかけることなく、他の客の相手をしていた。


 やがて、夜が深くなり、客たちが帰り始めた。


 最後の客が出ていった後、男は、カウンターを拭きながら、私に聞いた。


「もう営業も終わるんですが……」


 その言葉に、私は、ようやく、状況に気づいた。


「あ。申し訳ございません。すぐに出ます」


「いや、そうじゃなくて。今夜、泊まるところ、ありますか」


 その質問に、私の心は、ぎゅっとつかまれた。


 素っ気ない言い方だったが、その言葉の中には、明らかに優しさが含まれていた。


「……ありません。何も持たずに……」


「そうですか」


 男は、新しい紅茶を用意した。


「では、ここで一晩、泊まっていきませんか。明日のことは、明日考えましょう」


 その提案に、私は戸惑った。


 今日出会ったばかりの男の酒場に泊まる。そんなことが、許されるのか。


 でも今の私に選択肢はなかった。


「……お言葉に甘えていいですか」


「はい。僕はトムと言います」


「私はシャロットと申します」


 その夜、私は、酒場の二階の小さな部屋で眠った。


 柔らかいベッド。温かい毛布。暖かい空気。不思議とぐっすり眠れた。


 翌朝、トムは朝食を用意してくれた。


 パンとスープ。簡単だが、心地よい食事。


「今日は、どうされますか」


「……どう、したらいいんでしょう。行く場所がないんです」


「そうですか」


 トムは、何も深く聞かなかった。


 その日の夜も、彼は部屋を用意してくれた。


 二日目、三日目。


 同じように、朝食を用意し、温かい部屋を提供してくれた。


 三日目の夜、私は、ついに、その恩に耐えられなくなった。


「トムさん。申し訳ございません。ずっと、お世話になって」


「大丈夫です。大変な時は、誰にでもありますから」


「ですが、いつまでも、こうはいられません……」


 トムは、少し考えた。


「ならば、ここで働いてみませんか。給金はあまり出せませんが」


 その提案は、突然ではなく、必然のように感じられた。


「……はい。働かして、いいえ……働かせてください」


「分かりました。では、お願いしますね」


 その日から、私は、酒場で働き始めた。


 給仕をして、掃除をして、時々調理を手伝う。


 貴族としての優雅さは、ここにはない。


 だが、それが心地よかった。


 最初は、ぎこちなかった。


 食器を割ったり、客の注文を間違えたり。


 だが、トムは、何も責めなかった。


「大丈夫。誰もが最初はそうです。ゆっくり、やりましょう」


 数週間が経った。


 私は、少しずつ、酒場での仕事に慣れていった。


 客たちも、私に優しく接してくれた。


 気の良い職人。年上の商人。様々な人たちが、ここに来ていた。


 その中で、私は、初めて気づいた。


 貴族の社交界では、人間関係は全て計算に基づいていた。家柄。財産。政治的な影響力。そうした表面的なものばかりが重視される。


 だが、この酒場では違っていた。


 ここに来る人たちは、私がどこの家の娘であるか、なんて知らない。知ろうともしない。彼らが見ているのは、シャロットという一人の女性。そして、ここでの私の行動と言葉だけだ。


 ある晩のこと。いつもの常連客の一人、革靴職人のアルクスが、私に話しかけた。


「シャロット、最近、顔が明るくなったね」


「そうですか?」


「ああ。最初、お前が来た時は、何か暗い影を背負ってるみたいだったけど。今は違う。ここにいるのが、自然に見えるよ」


 その言葉を聞いて、私は気づいた。


 確かに、私の心に、少し光が戻ってきたのだ。


 ここにいて、毎日を過ごす中で、違う景色が見えてきた。


 私は、ここでは必要な存在だ。客たちは、私が持ってきた温かい紅茶を飲み、笑顔で接してくれる。トムは、私の仕事ぶりを信頼してくれている。


 それは、家族の一部として見られるのではなく、一人の人間として見られるということだった。


 二ヶ月が経った頃、私は、ようやく、自分の過去について、トムに話す勇気が出た。


 営業を終えた夜。二人きりになった時。


「トムさん。実は、私……」


 私は、自分の素性と、これまでのことを、全て話した。


 公爵との婚約。両親の強制。マルドルフの支配的な態度。そして、婚約破棄。勘当。


 トムは、静かに、最後まで聞いていた。


 話し終わった後、彼は、ゆっくりと、こう言った。


「大変だったんですね」


 その言葉は、同情でもなく、非難でもなく。ただ、事実を受け入れるような、優しい言葉だった。


「ですが、シャロットさん。あなたは、勇敢だと思います」


「勇敢、ですか」


「はい。自分の気持ちを大切にして、従わなかった。多くの人は、そんなことはできませんよ。あなたは、自分の人生を、自分で選び取った。それは、本当に勇敢なことです」


 その言葉に、私は、涙が出そうになった。


「ですが、代償は大きかった。すべて失ってしまいました」


「そうですね。失ったものもあるでしょう。ですが、シャロットさん。あなたは、ここで、何かを得ています」


「何を、ですか」


「自由です。自分の意思で、毎日を選べる自由。そして……」


 トムは、静かに、周りを見た。


 暖炉の火が、温かく揺らいでいる。酒場の、静かで心地よい空間。


「……ここは、あなたを受け入れてくれる場所です」


 その言葉は、私の心に深く響いた。


 翌日から、私の心持ちが変わった。


 失ったものを嘆くのではなく、ここで与えてくれているものを大切にしようと思った。


 季節が移ろった。秋から冬へ。王都に初雪が降った。


 酒場の常連たちは、冬の寒さに、より一層、ここの温かさを求めるようになった。


 ある雪の晩。王都の外からやってきた旅人が、酒場に入ってきた。


 疲れた顔をしていた。旅の疲れだけでなく、何か心に傷を負っているような。


 私は、その人に、温かい紅茶を勧めた。


「ありがとう。助かります」


 旅人は、そう言いながら、私を見た。


「あなた、貴族の娘じゃありませんか?」


 その言葉に、私は、一瞬、身構えた。


「……昔は、そうでした。今は違います」


「そうですか。でも、何か、貴族の気品が残ってますね。どうして、こんなところで働いているんですか」


「選んだのです。自分で」


 その答えを聞いた時、旅人の顔に、何か共感のような光が灯った。


「そうですか。自分で選ぶ。いいことですね。僕も、ようやく、そうできるようになったんです」


 その夜、旅人は、他の客たちと語り合った。人生のこと。選択のこと。自由のこと。


 そして、翌朝、旅人は去っていった。


 別れ際、彼は私に言った。


「ここは、本当にいい場所だ。あなたのような人がいるから」


 その言葉を聞いて、私は、初めて確信した。


 私は、ここで生きていくのだ。


 貴族の娘としてではなく。誰かの妻としてではなく。


 ただ、シャロットという一人の女性として。


 ここで、トムと共に。この酒場「夜明けの羽根」で。


 一年が経った。


 王都では、公爵マルドルフが、別の家の娘と婚約したという噂が流れた。


 私のことは、誰も覚えていなかった。社交界から消えた女など、歴史の一部にもならない。


 それは、かつての私なら、絶望に感じただろう。


 だが、今の私にとって、それは、むしろ、解放だった。


 過去が忘れられるということは、新しい人生を自由に築けるということ。


 ある冬の夜。雪が降る中、常連たちが酒場に集まっていた。


 いつものように、温かい炎の周りに。


 そして、アルクスが、トムと私に向かって、声を上げた。


「二人とも。見てくれ。この季節になると、毎年、この酒場の温かさと、二人の笑顔がなくちゃあ、冬が越せんないよ」


 他の客たちも、笑いながら、合意した。


 トムは、私に目を向けた。そこには、優しさと、何か別の感情が込められていた。


「シャロットさん。ここに来て、一年になりますね」


「はい。本当に、長いようで、短かったような」


「僕も、そう思います。実は……」


 トムは、ポケットから、何かを取り出した。


 それは、銀の指輪だった。


「実は、ずっと考えていました。シャロットさんに、ここに来てくれてから、毎日が変わったんです。この酒場も、僕も。もし、よければ……」


 トムは、膝をついた。


「シャロットさん。僕の妻になってくれませんか」


 その言葉を聞いた時、私の心は、穏やかに満たされた。


 かつての婚約の時のような、強制も、恐怖も、支配も、何もなかった。


 ただ、相手を思う気持ちと、自分を信頼してくれる気持ちが、そこにはあった。


「はい」


 その一言は、自発的に、心の底から出てきた言葉だった。


 常連たちは、歓声を上げ、祝ってくれた。


 三ヶ月後。


 王都の小さな教会で、私たちの式は行われた。


 来ていたのは、酒場の常連たちと、トムの友人たち。


 そして、一人、老婦人がいた。かつての母親の友人で、唯一、私の消息を探ってくれていた人だ。


 その婦人は、私を抱きしめて、こう言った。


「シャロット。あなたは、本当に勇敢だった。そして、本当の幸せを見つけたんだね」


 式の後、私とトムは、酒場へ戻った。


 いつもの場所に。温かい暖炉の前に。


 窓の外は、冬の王都。


 だが、酒場の中は、温かかった。


 暖炉の火が揺らぎ、客たちの笑い声が響く。


 そして、その中で、私は、ようやく、本当の意味で、自分の人生を取り戻したのだ。


 かつての支配と強制の人生ではなく。


 自分の意思で、毎日を選べる人生。


 それが、私にとっての、本当の「夜明け」だった。


 酒場の看板「夜明けの羽根」の灯りは、これからも、彷徨える誰かを導き続けるだろう。


 私のように。


 新しい人生へと導くために。

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わたくし達一人一人が夜明けを迎えられたら、と思いますわ。 一歩を踏み出す勇気を持つものへの優しい対価でしたわね。
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