0日目 猫人(ねこびと)
「ありがとう。無駄な仕事が……増えなくて済みました」
そう言うと声の主は僕を迎え入れた。
だぼっとした上着のパーカーで大部分が隠れているが、どうやらこの屋敷のメイドらしくフリルのついた膝下ほどのスカート部分だけは見えていた。
ただ……それよりも注目すべき箇所があった。
灰色の髪の少女の頭には猫の耳が付いていた。
「……何ですか?『猫人』が従者なのは……違和感がありますか?」
少女はその可憐な整った顔で、無表情こそ変えないが、尻尾を軽く膨らませ、見覚えのある目つきで僕を睨んだ。
なるほど。彼女が猫の姿で案内していたならば、僕の話が通じたのには納得がいく。
「いや別に。むしろここまで道案内までしてくれたことを考えると真面目なんだなって思うくらいですけど」
「別に……お嬢様の命令なので」
少女は面倒そうに伸びをすると
「……お嬢様は貴方を客人として……おもてなしするそうなので、お部屋の方にご案内します」
それだけ言って無言で歩いて行った。
これでよくクビにならないな……
それにしても……「獣人」の中でも気まぐれで奔放な気質の多い「猫人」を働かせるなんて、この屋敷の主人はとんでもない手腕を持っているものだ。
「……さっきから失礼だなぁ。自由を重んじると言ってくれない?」
口にいつの間に出していただろうか、少女は振り向いて尻尾を揺らす。
日はすでに落ちていたが彼女からは日向の草原のような、暖かい香りがした。
……態度が少し気になったが、彼女の案内は丁寧で、屋敷の内装を堪能しながらゆっくりと客室に向かうことができた。
「それでは……こちらのお部屋で……お待ちください。こちらの準備が出来次第、お嬢様が貴方とお話したいそうなので、それまでは就寝なさらないようにお願いします」
と、言うとパーカーのポケットから持ち手が猫の耳の形状をした鈴を取り出し、
「なにか用事があったらこれを鳴らして……ください」
ぺこり。として部屋を出た。
客観的に部屋を見るならば、家具はベッド、タンス、テーブルにソファだけの簡素なものではある。ただ、こんな森の奥であるにも関わらず掃除を怠っていないというのが分かる清潔感のある部屋だった。
「いい部屋だなぁ……」
僕は溢れる高揚感を抑えられるわけがなかった。
そりゃあ当然だ。普段野宿で最悪岩を枕にするレベルまで物が無かった時に比べればここなど至高の楽園に等しい。
寝ないようにしないといけない状況じゃなければこんなのベッドダイブで即就寝だ。
ただ、その行為すら、一種の芸術の領域と化したベッドメイク技術によって躊躇ってしまう。
ここまで清潔を保つ寝具を突発的な欲求で汚すことは流石に申し訳ないので、とりあえず腰の剣を外してソファに座るが、これも適度な柔らかさで緊張を自然と緩めるものだった。
ここまでの仕事ができるならばまぁ……あの勤務態度でも許されるわけだ。
喉が少し乾く。
おっと。水筒を洗わないといけないことを忘れていた。
ポーチも外し、取り出すが、ここには手洗い場があるわけではないのか。
どうやら早速鈴の使いどころになりそうだ。
「失礼します。お客様との接見の準備が出来ましたのでご案内します」
使いどころはお預けになった。
「それと……テーブルの水筒は後で洗っておきますね」
使いどころはお亡くなりになった。
「鈴は回収させていただきますね」
触るのすら許されないようだ。
中腰の姿勢で一言。
「後半らへんは反応を楽しむためにやっていませんか?」
「いえ、そんなことは……ありませんよ」
そう言って表情はそのままに耳をピンと立てていた。
ちょっと殴りたくなってきた。遊び道具にされてるよね?僕。
「そんな怖い顔しないでください。ちょっとした遊びのつもりだったので」
「……やっぱり遊びじゃないですか」
窓が迫っては横切り、迫っては横切りを繰り返すが、少し前を歩く少女は足音を立てることなく優雅に、だが少し早足に一定の大きさを保って視界に映る。
「歩くペース、そちらに合わせても大丈夫ですよ」
流石に申し訳ないのですが言ってみるが、
「いえ、問題ありません」
と言って振り返らず自身の業務に戻る。
残ったのは一人分の足音のみで、視界の風景は繰り返していた。
「そういえば……どうしてメイドさんは僕を案内しているんですか?」
すると彼女は振り返り、表情を変えた.
「はい?どういう意味ですか?」
「いや、他に案内するメイドというか。この屋敷ってかなり広いのにあなた以外の人の気配が無かったので変だなって」
足音も消えて沈黙が続く。しまった。言わない方がいいことだったのだろうか。
「詳しいことはお嬢様が答えてくれると思いますので……ご案内を続けてもいいでしょうか」
彼女はそう言うと考え事をしているのかそれ以降は全く反応を示すことはなかった。
だが、彼女が話さなくても廊下を進んで行くと質問の回答が少しずつ視界に映し出される。
「あ、そっちじゃないですよ」
彼女は綺麗に掃除された廊下と反対の分かれ道を進んで行った。
玄関周りや客室は掃除されていたのだが、歩けば歩くほど魔力切れで動かないランプや埃の被った窓枠や絨毯が目立ち始めていた。
ただ、屋敷の突き当たりの廊下を曲がると手入れが行き届いているので、単純に手が回っていないだけのようだ。
……それなら回り道して掃除している場所から誘導すればいいじゃないか。
「回り道したらしたで……文句言いそうな気がしますが」
「わっ、急に話しかけるんですね。考え事は終わったんですか?」
「まぁ……一応。あなたが変な人だ……ってことで結論を出すことにしました」
何で出会って間もない人に変人扱いされるのか……僕は割と普通の人間だとおもうのだが。
だが普通にむっと来たので言い返すことはしておこう。
「ちょっとひどくないですか?僕は普通の旅人ですよ」
「普通の人間は……自分を『普通』なんて言わないと思う」
「なるほど。それもそうですね」
「あと……入るなって言われているところに入るのは馬鹿のやること……ですよ」
「……なんでそれを知っているんですか?」
「……」
彼女は少し黙った後、立ち止まり口を開く。
「こちらの扉の先にお嬢様がお待ちしておりますので……失礼します」
そのまま逃げるように扉の先へ向かった。というか逃げた。
なるほど。詳しい話は直接聞け。そう言いたいのか。
深呼吸して扉を見る。普通の客室とは違う、明らかに高級さを感じさせる両開きの扉だ。
この扉を開けて屋敷の主人と出会い一言言う。
ただそれだけなのだが、相変わらず自分は一つしかない選択肢の前で迷っていた。
扉に手をかける。震える手が視界に映る。
だが心の中では少しずつ別の心理が侵食していき、扉を開けるときには一色に染まっていた。