3日目 幸せの一歩
「お邪魔してるわ」
自室に戻ると、ルッカ様がいた。
二日ぶりの光景だ。
「……失礼します。今日は?」
今日も反対側は空席。カップをくるりと返して、向き合った。
「あなた、本当に慣れが早いのね……今日は、シンプルなストレートよ。気分的にも複雑な物は、今は飲みたくないでしょう?」
「……助かります」
赤く、紅く透き通った半透明の液体に、僕が映りこんだ。
自分の顔ながら、何とも面白い顔だ。まるで、魂でも抜かれたように、呆けている。
「こういうのを夢心地、と呼ぶのでしょうね」
「……少し違う気がしますが」
ルッカ様はやけに上機嫌だ。
いつもは思考の読めない、口角のみ上げる不敵な笑みを浮かべるが、今日の彼女は視線が柔らかい。
なにより、言葉を発する度、嗽し、清めるように飲んでいた紅茶を純粋に味わい嗜み、楽しんでいる。
「どうしたの?本来はケーキを渡したいほどのもてなしをしたいのだから、笑顔の一つでも見せて貰いたいものなのだけれど」
「残念ですが、僕には少し甘すぎますね」
「へぇ……意外と贅沢者ね、長く苦悩した過程がようやく実ったのに」
いったいどこで知ったのだろうか。彼女は常に、僕の行動全てを評価する。
まるで、演劇の評論家のようだ。だが嫌いではない。
語り手は、姫の手を取るように、優しく僕の胸に手を当て、僕に伝えた。
「あなたの心が妹に通じたのよ。笑顔を見せなさい?」
僕は、まっすぐと見つめる少女の琥珀を、正しく見ることが出来なかった。
あの時。
フィリア様が眼を逸らした瞬間、何かが、壊れるような音が聞こえた。
その瞬間、視界は感情に塗りたくられた。
みずいろから青へ、そして、朝露が落ちるように付いた赤の点が紫へと染めていったのだ。
僕はそれを、ふき取った。その時、僕は彼女を押し倒していることに気が付いた。
彼女はぬいぐるみを抱えている。
意識の空白は一瞬だ。
少しだけ内心で安堵のため息をついた。
「──」
何かをお嬢様は呟いた。
理性と意識に混濁した僕の頭の中では内容を認識することはできなかったが、僕に向けられた視線は変わっていない。
そう、彼女は無抵抗のまま。ただ、僕を『見た』。驚きもなく、虚ろに。
それが、答えだと僕は認識した。
あぁ……僕は本当に、駄目だな。
感情に任せても、本当に思っている一言を言い出すことさえできない。関心も、興味も持たれない、つまらないやつ。
万策尽きた僕は、目を閉じ、自身の行いを呪い続けていた。
「無理です」
「どうして?」
「腑に落ちないんです。あの後、どれだけ考えても」
再び眼を開けた時。
フィリア様の表情は変わっていた。
彼女は眼を開き、僕を『視た』。そして、伝えた。
「しょっぱいね」
水の痕跡を残したフィリア様は、初めて笑顔を見せた。
その笑顔は、慈愛や幸福というよりは、嘲笑だ。だが、五十を過ぎる時間を以て、それは唐突に現れたのだ。
綱で引っ張ろうと、細くならないと考えていた唇。
名も知らぬ人形劇を見るかのような視線。
……そして、不快感すら覚えた紅く黒い孔。
「なんで、泣いているの」
「え……」
それらは僕のたった数滴の涙によって、目の前の道化を、滑稽に、哀れに思いながらも、熱演を楽しむ支配者のような表情へと変えたのだ。
そうか。
これ、悲しい時に出るものだったんだな。




