1日目 『彼女』
カーテンの向こうを見た途端。僕は釘を打ち込まれるように、徐々に動けなくなった。
視線が、そこにいた『ひと』から離せなくなったから。
強烈な衝撃を受けた時。起こる反応はどのようなものだろうか。
驚き?怯え?喜び?
すべて。違う。
そこにあったのは『恐怖』だ。
理由のない。恐怖心だった。
僕は、その事実を理解した。してしまった。
足の先。手の先。頭の先。
微細な震えと、絞まるような冷気。
これらが、一瞬で一点へと集約され、体全体へとまた広がった瞬間。
僕は理解した。
これは、恐怖ではない。
その感情は、不安定で、脆弱で、あまりにぼやけたものだということに。
その先にいたのは少女だ。
ベッドの上で、座り込むようにそこにいた。
少女は裸足だ。
それは捻れば折れそうに見えるほど細く、たおやかな足であり、体重で皺の付いたシーツの上に。そこに少女はいた。
少女の肌は白だ。
雪の様な、真珠の様な白。では無かった。
少女の肌は白樺のようだった。
少女の腕は細い。
あまり手の大きくない僕でも、簡単に掴め、砕いてしまいそうな、硝子細工のように滑らかで、扇情的な手を少女は持っていた。
少女の髪は、青く美しい。
ミディアムと呼ぶのだったか。軽く膨らんでから、内側に包むように肩先に軽くかかる毛先を、信じられないほどに手入れされた、はらはらと崩れるのにまとまった糸のような髪を持っている。
だが……それらを繋ぐ少女の眼は……僕を見ていなかった。
いや、違う。正確には、少女は、姉の隣に立つひととして、僕を見ていた。
「フィリア。隣の彼が今日からあなたの執事になる人よ」
ルッカがそう言って初めて、フィリア様はようやく僕を観た。目を、瞳を合わせた。
あぁ……なんて綺麗で、悍ましい瞳なんだ。
「はじめまして。これからフィリアお嬢様に執務させていただく『月詠夢』と申します。これから、よろしくお願いいたします」
驚くべきことに、僕はフィリア様に見惚れていたにも関わらず、自然と挨拶をしていた。
どうも夢見心地だ。声や行動は正常なのに、頭の中はどうしても、目の前の少女、フィリア様に対してしか向かない。
そんなことに興味がないのか、それとも知らないだけなのかは分からないが、フィリア様はそのまま僕のことを観ていた。
彼女の瞳に僕は映らない。
姉であるルッカの瞳を鏡と表現するならば、妹様の瞳は孔だろう。
赤い、紅い瞳。
深紅と言えるほどに艶やかな瞳で、フィリア様は観ていた。
その瞳は深く、暗く、鈍く輝く、吸い込まれる様な深淵。
引き摺り込むような、無限に落ちていく孔。
……ただ、どうしてだろうか。
僕は今までフィリア様の髪も、手も肌も足も全てが愛おしく、美しく、可愛らしく愛することができるのに。
瞳が。
その紅く、鈍く、曇る。その瞳だけが。
不快で。
不快で、不快で、不快で不快で不快で不快で。
仕方がなかった。
「あなた達……いつまで見つめてるの?日が暮れてもいいなら、私は待ち続けるけど」
その言葉で僕はふっ、と目が覚めた。
すみません。ボーっとしてて。
不意にこう口に出そうとしたが、寸前で止めることができた。
流石に業務初日に「ボーっとしてました」は態度が悪い以前の問題だ。
さすがに別の言い訳をしておこう。
考え事をしてました。みたいに濁しておけば
「すみません……えーっと……フィリア様に見惚れてしまいました」
ばっかじゃねえの?僕。
「そう、それなら仕方ないわね」
なんでこれが通るんだよ。
この人がこういう人なことは知ってるけどさぁ。本人の前だよ?
恐る恐る当の本人を見てみるが、そもそも聞いているような節でもなさそうなので大丈夫そうだった。
反応を示さないのは助かる反面、それはそれで傷つくものではあるのだが。
一気に現実に引き戻された感覚を覚え、必要ない溜息を吐き出した時、
「……ねぇ」
その音に紛れて、紙でも擦るかのような本当に微かな声が聞こえた。
喋ったのは当然ルッカでも僕でもない。
久しぶりに声を出したのであろう。フィリアお嬢様は口を閉じたまま、絞まり切った喉を開けるために咳払いをした。
成熟していない少女特有のぎこちなく、不慣れで細く高く響く咳払いだ。
「どうしたの?フィリア」
その音でようやく気が付いたようで、彼女の方へと向き直した。
フィリア様はうつむいていた顔をゆっくりとルッカの元へ向け声を発した。
「用事は……それだけ?」
まだ声を出し慣れないのか、かすれた声でそう言った。
「……それだけって?」
「そのためだけに私を起こしたの?お姉様」
もう声ははっきり出せるようになったようで、柔らかな声でそう言った。
「……そうね。それだけよ。機嫌を悪くさせたのなら……ごめんなさい」
ルッカの声は普段よりも暗い。彼女はいつも優雅というか、余裕をもつ大人びた声をしているため、このような声を聞くのは初めてのことだ。
ただ、僕にとっては新鮮な態度ではあったが、フィリア様はまた、特に反応を見せることはなく、
「……そう。だったら私はもう寝る。疲れたから今日はもう一人にさせて」
そう言って、布団の中へと身体を沈め、くるりと視線を返した。
「……」
「……」
ルッカの方を向いてみる。
彼女はただ、フィリア様を見続けるのみだった。
今にも大粒の涙をこぼしてしまいそうな悲しい顔を残したままで。
僕たちはしばらくフィリア様と同じ壁を見続けていたが、
「それじゃあ、私は部屋に帰るわね。」
という一言を残して部屋から去ろうとしていた。
当然僕を残してだ。
何も言わずに帰ろうとするルッカに、思わず右手を反射的に伸ばしかけた時、彼女は妹様と同じ長さの紫髪を揺らしながら、振り向き一言。
「あとはあなたに全て任せるわ。せいぜい失敗しないように足搔きなさい。妹を……お願いね」
それだけ言って、無責任な主は僕達を二人きりにした。
ルッカがフィリア様の部屋を出てしばらく経った頃だろうか。
「ねぇ……まだいるの?」
どうすればいいか分からずに立ち尽くしていた僕の後ろから声が聞こえた。
フィリア様の声だ。
既に眠っていると思ったが、まだ起きていたようだ。
後ろを振り返るが、別に彼女は体制を変えて話しかけたわけではないようで、白い繭のようにくるまれた布の固まりがベッドに乗っているようになっていた。
「すみません……すぐに部屋に戻りますね」
そうだ。彼女は今寝起きで機嫌が悪いのだ。すぐに自室に戻ることに……
「まだ……言ってない」
「はい?」
「私の名前。自分で言ってない」
「ああ。そういう事ですか。問題ありませんよ。お嬢様の方から妹様のお名前は……」
「だめ。お姉様。どうせフルネームを教えてないし」
そう言うと、彼女は布団から出て、ベッドから足を出して、初めて僕を見た。
まっすぐに僕をみた。
「……何?その顔」
「いえ……それでは貴女のお名前をお教えください。妹様」
つまらない目で、少女は自分の名前を言う。
僕の眼を見て、浅く息を吸い込んだ後。
少女は、狂わせるように甘く、ほろほろと耳元で溶ける声で、名前を口にした。
「……フィリア。フィリア・テレロ・アーウィング」




