ドラキュラ参上の感想
一晩の宿を借り、彼女はまた歩き続けた。店屋物ばかり食べていた彼女にとって、あのスープも、そして出立前に頂いた朝食も、実に新鮮であり、美味であった。
ドラキュラ城までは、後もう少し。彼女は自分を今一度奮い立たせ、しかしゆっくりと歩いた。いくら奮起しても、残念ながら走ることはできないのだ。走れないという美の代償は、思ったより高いのかもしれない。
少し彼女は後悔した。いいや、少しだけではない。かなり、だ。普段から、彼女は身体の節々の痛み、違和感を覚えていたのである。そして不慣れな運動を、昨日から今日にかけて行っているため、ますますひどくなってきているような気がしてならない。
脹脛や腹部が、内部から引っ張られたような痛みがあったし、足は走ってもいないのに、痛み出す始末である。もともと、あまり長距離を歩くこともよくない、と医者が言っていたっけ、と彼女は他人事のように独白した。
鬱蒼とした森の中、それでも彼女は懸命に歩いた。足場は思いもよらない隆起があったり、石が転がっていたり、とおよそ人が歩くに不適な場所であった。
しかし、これも霊崎努のためなら、と思うと、その苦労も和らいだ。
そもそも、いつから彼女は極端な美の探求者になってしまったのか。久しぶりに、その切っかけがちらついた。
昔、それは彼女がまだ自分による自分の改造に着手していなかった頃のことである。醜悪を極める容姿――と大山は思っている――時代であっても、彼女はそれなりに男性との交際を重ねていた。しかし、いつも決まって最後は別れ話を切り出されるのである。
別れ話。
泣かせたらいい、わけなどない。女性を泣かせるのは良くないことだし、とんでもないことだ。男性は絶対そう思っているはずなのだが、無慈悲にも、彼らは大山に残酷な真実を打ち明けてくる。
そういうことが度重なり、彼女は確信した。自分の美が、すぐに飽きられてしまう程度のものである、ということを。それが美の追求開始の発端であった。
しかし整形美人となる前の彼女から、一度だけ、男性を振ったことがある。彼の名は大橋豊昭。作り変えられた自分ではなく、あるがままの自分を受け入れてくれた男性。
彼の何が不満だったのか。よく解らない。ただ、自分がひどく醜く思え、それに加え、母との死別、元彼によるストーカーなどが重なり、行き場のない不満を、彼にぶつけてしまったのだった。
自分でも、どうすればよかったか解らない。付き合ってきた男性の中でも、群を抜いて優しくて――悪く言えばお節介――マメな大橋豊昭を、どうして振ったのか解らない。
寂しい、とメールすれば、嫌な顔一つせず遠路遥々駆けつけてくれたし、深夜に電話をかけると、寝ぼけながらも精一杯明るさを滲ませた声で対応してくれた。
「大丈夫?」
大橋豊昭にも、よくこの言葉をかけてもらっていた。どうすればいいか解らず、塞ぎ込んでいると、温もりあるメールをよこしてくれた。そんな時、送られてくるメールには、顔文字が使われていて、少し嬉しかった。普段の大橋豊昭は、顔文字や絵文字を一切使わないのだ。無理して、自分を励ましてくれている。その事実だけで、彼女は満たされる、べきだった。
別れ際に、顔も見たくない、など残酷な言葉で、大橋を串刺しにしてしまった。大変後悔していたが、自分から言い出した手前、謝罪を口にするのはどうにも憚られ、今に至る。とはいえ、今、彼女の胸をときめかせているのは霊崎努だけなのだから、もはやどうでもいいといえばどうでもいい。
しかし、霊崎は一向に振り向いてくれない。
ああ、自分はなんて醜いのか。
そう嘆いていると、そんなことないって、と友人達は異口同音に答える。
恋愛とやらはもっと複雑で、論理的には説明しえぬところがある、とは察していた。しかし、自分の美が不足しているがため男性は自分を突き放すのだ、と一度思うと、不安でしようがなくなったのだ。簡潔に言えば、彼女は自信を完全に喪失してしまったのである。
自分が美しくなれば、自ずと自信も湧いてくる。たとえそれが、偽薬効果程度にすぎなかったとしても、である。いくら他人から大丈夫、大丈夫、と言われても、その時はやや安堵するものの、後々になってゆっくり考えてみると、疑心暗鬼が頭をもたげ始めるのだった。
足元に落ちている小枝を踏み折った。濁音のつく乾いた音が、森の中に少しだけ反響する。
不気味すぎるくらいに大きな静寂が腰を下ろすこの空間。早く抜け出たい。ここを降りれば、一山越えたことになり、ドラキュラ城が、眼前に姿を現すはずだった
「う……」
あまりに痛みが広がってきたので、彼女はポケットから痛み止めを取り出し、口に放り込んだ。
一息にそれを飲み干してから、ハイヒールでここに来るのではなかった、と後悔した。心なしか鼻に居座り続ける痛みも、増してきたような気がする。鼻を高くするべく入れたシリコンの位置が、ずれたのかもしれない。
もう自分は、そう長くないにちがいない。矮小な絶望の伸長が、幾度となくあった。この美しくもあり、継ぎ接ぎだらけの身体。パッチワークの存在。事実、今は大丈夫でも――今も大丈夫ではないのだが――後々、身体が崩壊してゆくこともあるという。
整形手術を受ける時、医者からリスクを説明されたこともあった。でも彼女は危険を顧みず、美をつかむ手を放さなかったのだ。
※
陽光を徹底的に阻む森から抜け出ると、ドラキュラ城は目と鼻の先であった。しかしながら、いざ歩いてみると、なかなか辿り着かない。城が相当大きいがゆえに、近くに見えるのだろう。
太陽は、大変活気づいている。色素を抜いて、はっと息を飲むほどに白い肌も、この時ばかりは残念な役目しか果たさなかった。すぐに焼けてしまうのである。それを回避する方法はただ一つ、日焼け止めを塗り、上着を着ること。それしかない。しかし、熱い。夜とは正反対に、昼は大変熱かった。長時間歩いているのも起因しているのだろう。
忌々しくも額に光る汗をハンカチで拭い、彼女は口の中で唸った。
少し焼けるような感触が、肌にある。美女というものになるためには、機能的な面を全て捨てなければならない。
彼女は手鏡を取り出し、笑顔を作ってみた。少し暗い感じの笑顔だった。うまく微笑むことができない。彼女は嘆息した。
ようやく辿り着いた。ドラキュラ城は実に荘厳な造りであり、見る者を圧倒する。岩壁を連想させる重厚な壁は、曇った白色を鎧っている。凄いの一言だったが、壁は所々剥落していた。長い歳月を生きてきた証であり代償でもある。最上階に鐘を備え、更にその上では、風見鶏が耳障りな音を奏でていた。錆びついているのだろうか、その動きはどこかぎこちない。
彼女は、ごくりと唾を飲み込んだ。果たして、自分がドラキュラの審美眼に適うのだろうか。
ドラキュラの判定を知るまで、彼女は己の美に絶対的な自信があった。社内外問わず、彼女が出歩けば、老若男女問わず、その目は無意識の内に、この身に注がれるのだから。霊崎努を除いては、の話だが。
ぐだぐだと思い悩んでいても仕方ない。彼女は意を決し、扉を叩こうとした。
そう、あくまでも『叩こうとした』に、その動作は終わったのである。なんと、扉が自動で開いたのだ。思わず、一歩後退ってしまった。
「さすがドラキュラ城ね」
彼女は感心したと同時に、少し恐怖も感じた。もしかしたら、自分はここで殺されるのかも、という考えが、ちらと脳裏を過ぎったからだ。
しばし独りでに開いた扉を見ていると、扉は閉じられた。
「え?」
どういうことだ。もしや、ドラキュラお出まし云々以前の問題で、自分は美醜判定の段階にすら昇ることができなかったということなのか。
それでは、あまりにひどい。彼女は憤慨し、一歩前に出た。応じて、扉が開かれる。
「ま、まさか……」
彼女はちらつく疑問を抱えつつ、扉をくぐった。
そして、ある程度扉から離れてみる。扉が閉じられる。
近づく。扉が開く。
これは、自動ドアのようだ。物々しくもあり、神秘的な紋章が彫り込まれている扉の割に、やけに近代的である。これは、一体全体どうしたことだろうか。
『玄関ロビーにて、お客様がお待ちです。至急係の者は向かって下さい』
頭上で、女性による流麗なアナウンスが流れる。
何が起きているのか。もしかしたら、自分はドラキュラ城と別の城とを間違えたのかもしれない。いや、そうに違いない。彼女は確信した。よもや、ドラキュラ城で、女性によるアナウンスが流れるはずがあろうか。
彼女が、よし、と頷き、自動ドアへ向かおうとした時だった。奥でベルが鳴る。次いで「一階、玄関ロビー前です。受付、当プールをご利用の方はここでお降りになってください」と、アナウンスが流れてきた。
慌てて振り返って、奥へ視線を向かわせると、そこにはエレベーターから降りてくる紳士が一人いた。先程のベルと音声は、どうやらエレベーターによるものらしい。
「やあやあ、待たせたね。マドモアゼル」
気さくに話しかける男性に、すかさず大山は、
「ごめんなさい。館を間違えました」
と言って、そそくさと退散しようとした。
「ここはドラキュラ城だ」
その男性が、にこやかに答えてくる。
ここがドラキュラ城とは大ボラ吹きもいいところだ。
真新しい詐欺め。
腹立たしいし、馬鹿馬鹿しい。
彼女は内心で憤慨した。というのも、この男性、シルクハットは愚か、内面が赤、外面が黒のケープすら着ていないのである。
その代わりに、彼は就職活動真っ只中の学生に近い服装を着ていた。