不可解で瓦解
思考が、闇で満たされる深海から水揚げされた。
「着きましたよ、お客さん」
運転手が、もしもし、と言って、大山の肩を揺さぶっている。
まだ闇色の水で湿る思考だったが、彼女は運賃を払い、急いで下車した。そして振り向きもせず、ずんずんと歩いていった。
背後で遠ざかっていくエンジン音に耳を澄ませながら、確かにここは田舎だ、と実感した。
死んだ近代文明。
民家はちらほらとしか見えず、都会と呼ぶには程遠い状態である。
時は夕刻。彼女の思考が明るくなるのとは対照的に、周囲は曇り始めていた。
幸い、懐中電灯を持っていた。支障はないだろう。彼女はよし、と胸の内で、自分を奮い立たせ、手始めに遠くの方でちろちろと揺らめく灯のところまで行くことにした。昼だったら、こうも容易く民家を見つけることはできなかったかもしれない。
なんといっても、彼女は目が悪い。おまけに、その上眼鏡は嫌いだし、コンタクトをつけることも嫌なのだから。そういうわけで、裸眼で視力O・3弱の彼女にとって目印となる灯は大変ありがたい存在なのだ。
「でも駄目よね、このハイヒール」
実用性を完全無視したハイヒール。平均的なハイヒールに比べ、彼女のそれは更に不便性を極めていた。あまりにヒールが高いのである。
今となっては低身長ではない彼女なのだが、それでももっと身長を高く見せたかった。
が、やはり手術にも限界はある。医者の説明によると、踵の部分の骨をどうにかして、身長を伸ばすらしいのだが、あまりやりすぎると歩けなくなるとのこと。
彼女は、その一歩手前まで身長を引き伸ばしたのだ。それがゆえに、走ることはできない。走ると、足が痛む。
「でも、ま、走ることなんてしないけど」
ふふふ、と彼女は笑った。走れば汗をかく。汗は基本的に臭い。こればかりは、手術や個人的努力でどうにもならない。
ゆっくりと歩き続けること三時間。ようやく民家にたどりついた。一戸建てのそれは、やや濁ったような乳白色の壁、煉瓦色の屋根を有している。
扉を叩き、出てきた老女に、ドラキュラ宅の場所を尋ねると、
「ああ、あんたもかね?」
と眠そうに目を擦る。慌てて時計を見ると、夜中の十一時である。こんな夜更けに尋ねるのは非常識極まりないことだが、もう手遅れである。
すいません、また明日にします、と言ったが、いいよいいよ、と老女は人の良さそうな笑みを浮かべた。
「それにね、ドラキュラ城なら知っているよ」
老女曰く、北東に見える山を越えれば、城があるそうだ。かなり大きな城なので、行けばすぐに解る、とのことであった。
実にあっけなかった。何軒も訪問しなければドラキュラ城は見つからない、と思っていただけに拍子抜けである。嬉しさの実感がいまいち湧いてこなかったけれども、やがてふつふつと喜びが湧き上がってきた。
礼を述べ、彼女は家を去ろうとした。
「それより、お前さん、まさかとは思うが野宿でもするつもりかい?」
そのまさか、だった。この近辺にホテルはない。かといって、初対面の人間の家に上がり込んで、寝床を頂戴するという図太い神経は持ち合わせていない。
「大丈夫です」
そそくさと退散しようとしたが、駄目でしょうに、ほらほら、と老女に中へ入れられてしまった。
「外は冷え込むよ。特に夜はね」
困った人を、放っておけないのだろう。たじたじしている彼女を椅子に座らせ、早速料理に取りかかっている。
そういえば。
ルーマニア人は中欧の中で唯一ラテン民族の血筋を引いており、そのためか人々は陽気で、困っている旅行者を見たら助力を惜しまないらしい。ここへ来る前に読んだ何かの文献に、そう書かかれていた。
開放的で親切な国民性を、ルーマニアへ来てそうそうに体験した彼女だった。
「今日の夕食で食材をきらしてしまってね。温かいスープしか作れないけど、我慢しておくれ」
老女が料理をしている最中、彼女は何度もお礼を言った。
「構いやしないよ。お前さんみたいな美女を外に放っぽり出していたら、野獣どもが放ってはおかないだろうからね」
確かに大山は美女であったが、この美しさは、己の身体を無闇やたらと変更し続けてきた結果の産物である。そう、まるで英語の時制のように。
過去完了形、過去完了進行形、過去形、過去進行形。
現在完了形、現在完了進行形、現在形、現在進行形。
未来完了形、未来完了進行形、未来形、未来進行形。
原形などは、一片たりとも残っていない。
「本当、『皆』無茶ばっかりする人なんだから」
彼女は『皆』という言葉に、どきりとした。この老女も、あのタクシー運転手同様、何人もの美の探求者に宿を提供してきたのだろうか。いや、そうに違いない。
――ああ、あんたもかね?
今気づいたが、この発言も、何よりの証拠ではないか。しかしだとしたらどうしてこの老女は、何も聞かないのだろう。大山は内心で首を傾げたが、それを彼女に聞くのは憚られた。わざわざ自分から聞くこともない。ましてや、それによって老女が質問してきたら、と思うとぞっとする。
「ほら、できたよ」
老女が湯気を立てる碗を、机に置いた。中を覗くと、どうやらかぼちゃスープであることが解った。
「いただきます」
スープを口に運んだ。生姜とニンニクが、ほどよく効いている。この料理も今までの美の探求者達も食したのだろうか。そう思うと、妙にしんみりとしてくる。
自分が本当に永遠の美を、ドラキュラから授けられるのか。
ドラキュラによって、今まで築き上げてきた完璧な美を否定されたら、どうしようか。
「あまりおいしくないのかい?」
そこで、大山は、ふと自分との会話から抜け出し、微笑んで見せた。
「とんでもない。とてもおいしいですよ。よければこのスープの作り方を教えて欲しいくらいです」
「おやおや、そんな爪じゃあ料理もままならないでしょうに」
ほっほっほっほっ、と老女が笑う。
言われてみれば。彼女は自身の手をまじまじと見つめた。
きらきらと光るつけ爪、ペンダコはおろかマメもアカギレもないこの手。
呆れるくらいに美を深追いしている乙女。
これでは家事とは無縁ということが筒抜けである。少々気恥ずかしいが、これも彼女にとっては致し方のないことであった。何しろ、手は美のままで残しておきたいのだから。
「料理はできるようになっておいて損はないよ」
それは間違いない。彼女はいとしの人、霊崎努のことを思い出した。いつもと違うつけ爪をしていった時に、これどうかな、と聞いたことがあるのだ。
――その爪、綺麗だね。手も綺麗だよ。でも、仕事やりにくくないかな。
遠慮がちにそう言っていた彼の姿が、今はっきりと頭に浮かび上がってきた。彼は、家事を卒なくこなす女性が好き、ということなのだろうか。だとしたら、手を美しくしてきたのは大きな誤算だったのかもしれない。
彼女は、小さな溜息を漏らした。