第2話 午前4時37分
浅桜と目が合った。
僕は自分の顔から血の気が引いてゆくのを感じた。
「それ、私のだよね……?」
と浅桜が言った。僕は言葉を発することができなかった。
「……ひどい、気に入ってたのに」
浅桜はそう言って僕に歩み寄り、僕の手から壊れたストラップを取って教室を出ていった。僕は茫然と立ち尽くし、しばらくそこから動けなかった。
重いリュックサックと重いショックに押し潰されそうになりながら一人で歩く帰り道。家がいつもより10倍遠く感じられた。
ちょうど曲がり道に差し掛かったときだった。
「すみません」
突然後ろから話しかけられた。
「はい?」
振り返ると、知らない女の人が立っていた。黒絹のような長い髪が腰まで伸びていた。青い目は、その瞳が宇宙の彼方に繋がっていると言われてもおかしくないくらい深く、見ている自分が呑み込まれそうだった。同じような雰囲気をたたえた瞳を以前どこかで見たような気がしたけれども、思い出せなかった。
その人は僕を見つめながら言った。
「あの…飛龍炎=アドルフ=ハルトマン様ですか?」
「ななななぜその名前を!?!?」
飛龍炎=アドルフ=ハルトマンとは僕がかつて自分の中でこっそり使っていた名前だった。他の誰にも教えたことは無かったし、その名前が書かれたノートはとっくの昔に燃えるゴミに出して抹消したはずなのに、どうしてこの人はその名前を知っているのだろう。
「ヘル・ハルトマンはあなたではないのですか?」
その人は首を傾げて僕に尋ねる。
「いえ、そうなんですが、あの…できればその名前をあまり出さないでいただけると…」
僕は恥ずかしさで顔が真っ赤だった。
「では、なんとお呼びすれば」
「…金子でいいです」
「分かりました。金子様、私はシアラ。あなたに恩返しをしに来ました」
「恩返し?」
心当たりが無い。そもそもこの人と以前に会った記憶すら無い。僕は戸惑っていたが、その人は話を続けた。
「金子様のおかげで私たちの世界の技術は大きく発展し、ついに実体としてこの世界に現れることができるようにまでなりました。そこで私が、私たちの世界を代表して、金子様に感謝の気持ちを伝えに来たのです」
「は、はあ……」
一体何を言っているのか分からない。しかしこの人は僕がかつて自分に付けた名前を知っていた。この人の言っていることがただの妄想だとは思えない。
「恩返しの内容は、金子様の願いを、何か1つ叶えるというものです。」
「何か…1つ。」
さては、下手なことを言うとプリンが鼻にくっつくんだな。あるいは2分間自分探しをすることになるんだ。僕は気になってきた。
「私たちの世界の技術を使えば、この世界の技術では不可能なことが可能になります。空を飛んだり、獣の言葉を理解したり、人を惚れさせたり」
「ふむふむ」
「あとは…12時間だけですが、時間を巻き戻したり。」
「時間を巻き戻す!?」
時計を見る。午後4時37分だ。
「午前4時37分まで戻せるのか!?」
「ええ、ですが戻せる時間はちょうど12時間だけです。午前4時37分より後にも前にも戻すことはできません」
そうだ。今日の朝に戻って1日をやり直せば、ストラップを壊すことを回避できるんじゃないか。
「…やってくれ」
僕は、気づけば衝動的にそう言っていた。どうしてそんなことができるのか、この世界とは何なのか、そんなことは考える余裕も無かった。
「時間を!12時間前に巻き戻してくれ!」
「分かりました。金子様のお役に立てて光栄です。それでは、良い時間の旅を。」
シアラがそう言った途端、周りの景色が歪んだ。キーンという音がして頭が痛くなってきた。身体が強く引き伸ばされるような感覚がして、息ができなくなった。意識が遠ざかってゆき、もう限界だと思った瞬間、僕は自分の家のベッドの上に横たわっていた。
時計の針は、午前4時37分を差していた。