第1話 ウサギ
「明日から夏休みだ!」
夏休み前最後の授業が終わった。
ここ数日間ずっと、クラス中が浮足立っていた。中学2年生の夏休み。この自由な1ヶ月の間に、海に行く人、山に行く人、旅行に行く人、それぞれがそれぞれの計画を立てていた。かくいう僕・金子智之も、夏休み中に愛用の自転車で北海道を一周するという壮大な計画があり、他の誰よりも心を踊らせていた。普段趣味でやっているサイクリングとはわけが違う。この夏休みのために時間をかけて小遣いを貯め、下調べもして、入念に準備してきたのだ。明日朝早くに家を出発する。今日は帰って早く休まなければ。
そうやって一方では綿密な計画を立てておきながら、もう一方で僕は、絵の具や裁縫道具やリコーダーが入ったロッカーを前にして、自分の計画性の無さに呆れていた。ロッカーの中身は全て家に持ち帰らなければいけないのに、僕は今日になるまで何一つ持ち帰っていなかったのだ。
僕がため息をつきながら自分のロッカーを眺めていると、クラスメイトの藤田淳平に話しかけられた。
「金子くん、夏休みは何か予定があるの?」
「ああ」
「そうなんだ……ごめん」
藤田はとろくて鈍くさくて、見ててイライラするやつだった。僕は藤田に対していつも無愛想な受け答えしかしていないはずなのに、藤田はなぜかいつも僕に絡んでくるのだった。
「金子くん、ロッカーの中身持って帰ってなかったの……?手伝おうか……?」
「いや、いい」
「そっか……」
僕がロッカーを見つめたまま何も言わずにいると、今度は後ろから別の声が割り込んできた。
「何、金子これ全部放置してたの?ばっかねー」
「浅桜……」
浅桜美咲は僕の隣の席の女子で、僕が密かに想いを寄せている相手だった。鞄に付けているウサギのストラップがお気に入りらしく、僕はそのかわいいウサギが浅桜に少し似ているなと思っていつも眺めていた。
「頑張って全部持ち帰りなさいよ?」
「う、うん」
「金子くん、じゃあ……またね……」
藤田と浅桜は教室を出ていった。気付くともう教室の中には僕以外誰もいなかった。
僕は自分のリュックサックを机の上に置いて、その中にロッカーの中身を1つずつ詰め込んでいった。ファスナーは閉まりきらないものの、ひとまず全部入りきったので、リュックサックを勢い良く背負って歩き出そうとしたら、机の端に足を引っ掛けて思い切り転んでしまった。やっぱり詰めすぎだった。
「ってて……」
ファスナーが開いていたところから、リュックサックの中身が散らばり出てしまった。それを拾い集めている途中で、床に何かが落ちているのに気がついた。
首の折れた、浅桜のウサギのストラップだった。
「あっ……」
そのストラップは、午前中に見たときは確実に浅桜の鞄に付いていた。おそらく何かの弾みで浅桜の鞄から取れてしまったのだろう。そして、僕が転んだときに壊してしまったのだ。
僕はとっさに辺りを見渡した。誰も見ていなかった。
僕は自分の心臓が脈打つのを感じながら、自分に与えられた選択肢について一瞬で思考を巡らせた。
今から壊れたストラップを持って浅桜の家を訪ね、謝る。これが一番正しい判断だろう。しかし僕は自分にそんな度胸など無いことを知っていた。浅桜に嫌われるかもしれないのに、打ち明けるなんて無理だ。僕はすぐに他の選択肢が無いか考えた。夏休み中に密かに全く同じものを購入し、休み明けに朝イチですり替えるというのは?バレなければ一番問題なく収まりそうだ。しかし店で同じものが見つかるかは分からない。もし見つからなかったら?他の選択肢はあるか。夏休み中にこっそり直し、休み明けの朝机の上かどこかに置いておくこともできる。しかし完全に元通りに修復することができるだろうか?跡が残ったりしたら……
……いや、何を言っているんだ?今この光景を見ている人がいないということは、次の選択肢があるということじゃないか。
持って帰って密かに処分し、浅桜が探しているのを見ても知らないふりをする。
壊したのが誰かなんて分からない。だから僕が浅桜に嫌われることはない。僕は最低だった。とりあえず持って帰って店で同じものを探し、見つからなかったら修復を試み、それでももしできそうになかったら……最後の選択肢を取ろう。僕はそう決めて、おそるおそるポケットにストラップをしまおうとした。そのとき。
「あっ、金子」
浅桜が教室に入ってきた。