アリアシュア国エテス地方
「待って、そのまま包帯を巻いちゃダメ。ちゃんと清潔な水で傷口を洗い流してからじゃないと、ばい菌が入っちゃうよ。痛いだろうけど我慢してね」
私は軽く叱って、兵士の1人の傷に飲用水をかけてキレイに傷を洗い流した。
先ほどの目を疑うような化け物退治が終わった後、全員が倒れたリーダーに声をかけ体を揺さぶり出したのを見て、私は思わず飛び出した。
頭を打った人の体を揺さぶるなんてありえない。
その集団は私の出現に驚いたものの、自分達と同じ人間である事に気付き、声をかけてきた。
よく無事だったと労われ、怪我はないかと尋ねられたが、他の人の怪我の方が明らかに重く、応急手当に手を貸す事になった。
「よく知ってるな。ところで、ばい菌ってなんだ?」
無骨な兵士にそう尋ねられて絶句した。ばい菌を知らないなんて。
「破傷風とか知らない? あれは、傷口からよくない細菌が入り込むからなるんだよ」
「細菌ってなんだ?」
どこから説明すればいいのかわからない。
「ええと、毒みたいなものよ」
私だってよくわからない。なんとなくバクテリアの一種だと思っているけど、正解かどうか。
「毒? オーガに毒はねーぞ」
オーガとはさっきの化け物の種類なのだと教えてもらった。なんでも人間の女が大好物なんだそうだ。見つからなくて本当によかった。
「自然界にも毒はあるの。悪い毒が破傷風とか食中毒を引き起こして、いい毒がビフィズス菌とか納豆菌とかなの」
兵士はよくわからないという顔したが、私のいいかげんな説明に文句をつけず、大人しく包帯を巻かれていた。
「物知りだな、お前。まだ若いが、医者か?」
「いいえ。ただの高校生よ」
高校生、と自分で口にしてから、その時初めて私は交通事故に遭った事を思い出した。
私はあの時1度死んだ。たった17年の人生だった。
しかし、ここは天国にしては殺伐としすぎている。地獄だろうか。
身体を確認してみると、怪我はないようだった。血がべったりだった頭もコブ一つない。制服のブレザーのボタンもちゃんと付いていた。
もしかして、今のこの状況は夢なのではないだろうか。
実際の私は救急車で搬送中で、その間に臨死体験でもしているのでは。
「なるほどな。まぁそうじゃねぇかとは思っていた」
兵士の声に意識を戻し、何がなるほどなのか尋ねると、不可解な事を話し出した。
「お前の服、どう見ても俺の知るもんじゃねぇ。それに知識だ。言葉が通じるところをみると、お前、リターナーだな?」
は? という声が漏れた。
私の要領を得ない様子を見て、兵士は小さく笑った。
「俺じゃあ詳しい事はわからねぇ。隊長に聞きな」
手当を済ませたのを見計らって、兵士は隊長と呼ばれたリーダー格の男を視線で指した。
隊長と呼ばれた男は軽い脳震盪だったようで、すぐに意識を取り戻した。
だが脳震盪には安静が第一なので、私の指示を信じてくれて、今は座って木のような瓦礫のようなものに寄りかかったまま、他の兵士達に指示を出している。
恐る恐る隊長に近づき、私は容体を尋ねた。
「こんなものはかすり傷だ。それより、部下達の手当に礼を言う」
隊長が大きな体を曲げて頭を下げようとしたので、慌てて止めた。
「今は頭を振るような動作は自重してください」
「ただ吹き飛ばされただけだ」
「脳震盪を甘く見ないでください。さっきも言いましたけど、頭痛がしたらすぐに言ってくださいね」
隊長は厳しい顔を少し和らげた。
「さすがはリターナー、詳しいな」
リターナーとは何だろう。そう聞きたかったのだけど、兵士の1人が戻って隊長に報告の姿勢をとったので口をつぐんだ。
「隊長、残念ですがこの村は全滅です。食い散らかした残骸ばかりで、生存者は見つけられませんでした」
そうか、と隊長は憮然とした表情になった。
「もう少し来るのが早ければ、せめて女子供だけでも助けられたかもしれないが……」
「仕方ありません。あんな事のあった直後です。連絡手段も復旧途中ですから」
あんな事とは何だろう。疑問ばかりが浮かぶ。
「怪我人の治療は済んだか?」
「はい、そこのリターナーが適切な処置を」
隊長は頷いた。
「全員帰還する。馬を持ってこい」
兵士は隊長に返答すると、小走りに去ってしまった。
「お前、名は?」
隊長に尋ねられ、私は兵士を見送っていた視線を隊長に戻した。
「六花です。野中六花」
「こちらでは名前が先で苗字が後だ、ロッカ・ノナカ。俺はイオス・ロベルタ。まずは俺達の陣営まで来てもらおう」
遠くから、さっきの兵士が馬を引き連れてやって来るのが見えた。
陣営とやらにたどり着いた後、私は粗末なお茶のもてなしを受けた。
恐る恐る口にしてみると、渋いような苦いような味がした。
臨死体験中でも味覚があるのだろうか。
陣営とは、木造の粗末な小屋がいくつかと、広い部屋のあるやや大きめの家が1つある集落だった。森が少し開けたような空き地に建ち、家の近くには組み上げ式の井戸がある。
ここは村ではなく、この部隊の駐屯地のような役割を果たしているらしい。
陣営にたどり着くと、化け物と戦った兵士達と同じような格好をした男達が駆け寄ってきて「無事でよかった」と労っていた。女子供やお年寄りの姿はない。
ロベルタ隊長にここで待てと言われて殺風景な部屋で待たされていたが、しばらくすると私のいる部屋にやってきた。
「待たせてすまん。お前を護送する手はずを整えていた」
護送。私をどこかへ連れて行くつもりなのか。
「あの、頭がおかしいと思わず聞いて欲しいのですが、ここはどこですか?」
気味悪がられても仕方のない質問だったのに、ロベルタ隊長は表情を変えずに頷いた。
「さもあらん。ここはアリアシュア国のエテス地方だ」
知らない名前だ。そんな国あっただろうか。
「と言ってもお前にはわからんだろう。リターナーではな」
「その、リターナーとは何ですか?」
うむ、とロベルタ隊長は頷いた。
「俺も詳しくは知らない。会ったのも初めてだしな。ただ、軍律に従いお前を帝都へ護送する」
途端に恐怖が襲ってきた。
もしかして、私は捕らえられたのだろうか。
不安そうな私に気付いたのか、ロベルタ隊長は笑顔を見せた。
「そう心配する必要はない。お前達異邦人は、専門の機関がまとめて面倒を見る事になっている。害を加える事はない。ましてやお前はエトランゼではなくリターナーだ。言葉が通じるなら尚の事心配は無用だ」
言葉が通じるとさっきも兵士が言っていた。そこで初めて私は気付いた。
いま私が話しているのは日本語ではない。違和感がないから気付かなかった。
「エトランゼとかリターナーって……」
「うん、本当に詳しくなくて悪いのだが、一般的には向こうに生まれてこっちに迷い込むのがエトランゼ、こっちに生まれるはずだったのにあちらに迷い込み、帰還した者をリターナーと呼ぶそうだ」
あちら、とはどこの事か。それも尋ねると、空の彼方とか海の果てとか、とにかくこことは別世界の事を指すらしかった。
元の世界では考えられないが、この世界には稀にそういう異邦人が迷い込むらしい。そういえば、日本にも神隠しとかあった。もしかしてそれだろうか。
あれ? だとしても変だ。
「でも私、あちらで生まれましたよ? 母がへその緒を持ってましたし」
「それはそうだ。肉体ではなく魂が行き来するらしい。エトランゼもリターナーも外見的には相違がないそうだが、リターナーはここの言葉を学ばずとも使用できるらしい。それを以ってエトランゼかリターナーか区別するそうだ。『らしい』や『そうだ』ばかりですまんが、俺も本当に詳しい事は知らんのだ。アリアシュア国はもちろん、この世界は神の理で動いている。一介の兵士の俺には説明できん」
おかしい、本当に私は死んだのだろうか。
ここがあの世なら、こちらに生まれるはずだったという言葉に矛盾が生じる。
ファンタジー脳を駆使して無理に理屈をこねれば、天使や悪魔のような存在に生まれるはずだったのに人間に生まれた、と考えれば、魂の行き来は納得できなくもない。
しかし、それだと今の私が人間の姿である事の説明がつかない。最初からあの世に生まれる人間などいるのだろうか。
それに、ここがあの世なら 『稀に』異邦人が来るというのはおかしい。日本だけで年間100万人以上が命を落としているのだから。
だが、軽自動車が突っ込んできた時の衝撃は生々しく覚えている。やはり私は死んだのか?
もしかしたら、死んだ人間は天国や地獄以外に、第3第4の行き先があるのではないだろうか。
そういえば、仏教では六道輪廻というものがある。
だとしても、やはり『稀に』はおかしい。
とすると、やはりここは『あの世』ではない。
まだ疑問は残る。
肉体は間違いなく破損したのに、私は今その肉体を持って存在できている。
この肉体はどこから湧いて出たのか。
それをロベルタ隊長に聞こうかとも思ったけど、さっきから本人が言うように詳しい事はわからないだろう。
悄然とした私に哀れみの視線を向け、ロベルタ隊長は両腕を組んだ。
「この家には内側から鍵のかかる部屋がある。手伝いに来てくれる女衆や女性隊員専用の部屋だ。今夜はそこで休め。明日の朝1番で帝都へ向かう」
もしかしたら。
体が復活したのなら、この体ごと帰れるのはないか。
諦めるのはまだ早い。
あちらの肉体はだいぶ破損しただろうが、ここに五体満足な肉体がある。
明日向かうという専門の機関には、私と同じような者もいるはず。
残念ながら私はどうやってこちらへ来たのか覚えていないが、覚えている人に会えるかもしれない。
死んだはずの人間が現れたらみんな驚くだろうが、とにかく私は生きている。見たところ体は以前と比べて何が変わっているわけでもなし、両親とDNA鑑定でもすれば、私が私である事が証明されるだろう。
帰りたい、必ず帰る。
ここがどこかはわからないが、帰る方法を探してみせる。
それだけを希望に、明日は帝都へ向かおう。
その希望が粉々に打ち砕かれる事など知らず、私はその夜眠りについた。