蜚蠊奇譚
目の前には押し潰された同士の死骸がある。たった今、潰されたのだ。生存の見込みはない。死んだ。それは間違いなかった。
死骸は速やかに人間の手によってティッシュで包まれ、ゴミ箱に捨てられた。手厚く葬ってやることさえできない。黒いフォルム、カサカサとした歩き方、そして長い触角を持つ一匹の親蜚蠊は、人間に気づかれないように、そっとその場を後にした。
人間の言葉を使うなら、涙が出てくるということだろう。同士が死ぬということはとても悲しいことだ。蜚蠊たちは何もしていない。ただ人間の部屋に行き、残飯を食らい、後は巣に戻るだけだ。人間を傷つけようなんてことは微塵も考えていないのである。
にもかかわらずこの仕打ち。スリッパという凶暴な武器で、あっさりと押し潰されてしまった。なにもそこまでしなくても良いではないか。カサカサと足早に動き、窮地を脱した後、彼は家具の下にもぐりこんだ。ここまでくれば人間の目には映らない。助かった。しかし、同士を失った。その事実だけは消えない。早く巣に戻らなければ。子供が自分のことを待っているのだから。しかし戦利品、つまり食材がない。残飯を漁ろうと、サハラ砂漠のように広大なフローリングを横断している際に同士は潰された。同士を潰した人間は、相沢美佐子という若い女性だ。
通常、女性は蜚蠊を見ると酷く驚くものではあるが、美佐子は勇猛果敢にも蜚蠊に立ち向かってくる。それも狂ったように雄叫びを上げて。自分を鼓舞し、スリッパという最悪の武器を片手に襲い掛かってくるのだ。
その時の恐怖といったらない。あんな邪悪なものを振りかぶられ、直撃した際にはひとたまりもない。いくら蜚蠊が平べったく頑丈な体を持っているのだとしても、あそこまで強烈な一撃を食らえばひとたまりもない。親蜚蠊は家具の隙間から、美佐子の姿を窺う。懸命に触覚を震わせ、全神経を注ぐ。ここで自分が殺されれば、巣で待っている小さな我が子も死ぬことになるだろう。子蜚蠊にはまだ何も教えていない。少なくともまだ殺されるわけにはいかない。
親蜚蠊はふと食材の匂いがすることに気がついた。一体どうしてこんなところに匂いがするのだろうか? 触覚を伸ばし、食材の臭いの元を探る。そして、その場所を見つけ出す。
フローリングの床に、不自然に設置された黒く平べったいカプセルのようなものがある。こんなものは昨日はなかった。つまり、今日設置されたものだろう。親蜚蠊はカサカサとカプセルに近づき、その中を覗いた。すると、ゼリー状の食べ物が落ちているということが分かった。
なんという香しい匂いだろう。丁度食材を手に入れたいと感じていた親蜚蠊は、夢中でそのゼリー状の食材を頬張った。今日は同士が潰されたがついている。こんなにたくさんの食材にありつくことが出来たのだから。
たんまりとゼリー状の食材を食べ、満腹になった親蜚蠊は、カプセルの外を注意深く窺い、美佐子がいないことを確認すると、カサカサと巣へ戻った。
蜚蠊は一度の数十匹の赤子を産む。そして、小さい蜚蠊は歩けるようになると、すぐに巣から飛び出し、自分の巣を作るようになる。つまり、人間のような家庭は作らないのである。しかし、この親蜚蠊を待つ子蜚蠊は違った。いつまでも巣に残り、親蜚蠊が持ってきた残飯やフンを食べ暮らしていたのである。人間で言えばニートと呼ぶ存在なのかもしれない。
親蜚蠊は、そんな体たらくな子蜚蠊に対して何も言わなかった。産みの親である母蜚蠊は数日前に強烈な毒ガスにより命を落とした。巣を出た子供たちもどうなったか分からない。もう蜚蠊たちは残っていないのだ。美佐子はスプレー式の毒ガスを多数用意しており、蜚蠊を見つけるや否や、やたらとスプレーを発射するのである。
スプレーの強烈さといったらない。少しでも嗅げばたちまち命を奪われる、大変獰猛な毒ガスなのである。あの毒ガスにより、多くの仲間たちが命を落としてしまった。親蜚蠊はそんな中、今日も命が繋がったということに感謝していた。薄暗い巣の中には子蜚蠊が食事はまだか? と今か今かと待ち構えている。
親蜚蠊の半分ほどしかない体、小さな足、そして触覚。愛らしい我が子である。すぐに親蜚蠊は糞をしてそれを我が子に食べさせようとするのであるが、そこで自らの体に異変が起きたことを感じた。
猛烈に息苦しい。体が麻痺していくような感覚が襲い掛かってきたのである。これは気のせいでは済まされない、強烈な圧迫感だ。親蜚蠊は子蜚蠊が見ている前で、激しく苦しみ始めた。
小刻みに震えていると、その姿を見ていた子蜚蠊がその姿に気づきハッと体を固くした。
「お、お父さん?」
子蜚蠊は言った。体は震えており、恐怖しているようだった。
しばらくのたうっていると、痛みは治まる。
「だ、大丈夫だ。お前は心配しなくても良い」
親蜚蠊はなんとかそれだけを言うと、自身の体に襲い掛かってきた、謎の圧迫感は何なのか考え始めた。
怪しいのは巣に戻る前に立ち寄った小さなカプセルである。そこで謎のゼリー状の食材を食べた。もしかしたらあれは食材ではなく、蜚蠊を殺すための毒物だったのかもしれない。親蜚蠊はゾッと体を震わせた。その昔、美佐子が作ったホウ酸団子を口にし、多くの同士が虐殺されたことを思い出した。あの頃自分は子供だったが、多くの親蜚蠊たちがホウ酸団子の餌食になり、巣に戻らなかったのである。
自分も毒物を与えられたのだ。親蜚蠊はそう考えた。となると、自分の糞を子蜚蠊に与えることは、絶対に避けなければならない。
親蜚蠊が食したものは、コンバットという蜚蠊駆除剤で、カプセルの中にゼリー状の駆除剤が入っており、駆除剤を食べた蜚蠊の糞や死骸にも有効成分が残り、その糞や死骸を食べた他の蜚蠊達にも毒が伝染するという恐ろしい兵器である。
つまり、コンバットを食した親蜚蠊はもう余命幾許もないのだ。数時間といったところであろう。親蜚蠊はコンバットがどのような駆除剤なのか知る由はないが、何らかの毒が仕込まれていた罠であるということは見抜いた。自分は罠に掛かった。恐らくこの先すぐに死ぬだろう。自分が食べたものは糞として体外に出るのだ。毒物を食べた場合、その成分が糞の中に残っている可能性だってある。となればそんな危ないものを我が子に食べさせることは出来ない。
自分がたった今した糞に、毒が残っている可能性は高い。親蜚蠊はハッと我に返り、自分の糞を食べようとしている子蜚蠊を制した。
「ならん!」
親蜚蠊は叫んだ。叫ぶといっても触覚を震わせ、危険を教えただけである。人間のように声を発したわけではない。
たちまち子蜚蠊は体を硬直させる。糞を食べるギリギリ手前で体は止まった。危なかった。まだ食べていない。これなら大丈夫だ。
「わたしの糞を食べてはいけない」
「どうして? お腹空いたよ」
「その糞の中には毒が入っている。だから食べてはいけないよ」
子蜚蠊は唖然としながら話を聞いていた。親蜚蠊は話を続ける。
「これから狩りに向かう。お前もついてきなさい」
たった今帰ってきたばかりだというのに、また狩りに行くのだという。狩りというのは人間が居住している場所まで向かい、残飯を食らうことである。
子蜚蠊は不思議そうな顔をして、
「また狩りにいくの?」
「そうだ、腹が減っているのだろう。なら外の世界に行き、食べ物を摂取しなければならない。お前にもそのやり方を教えなければ」
「僕、この巣から出るのが怖いよ」
小さな体の子蜚蠊は、不意に体を震わせた。巣から出るのが怖い。確かに美佐子の部屋は危険で一杯である。そんな無法地帯に我が子を連れて行くのは気が引ける。しかし、毒を食べてしまった今、自分の命がどこまで続くのか分からないのだ。命尽きる前に、なるべく多くのことを子蜚蠊に伝えておく必要がある。
「大丈夫だ。お父さんがついている」
親蜚蠊はやさしく言った。それでも子蜚蠊は恐怖を隠せない。体を小刻みに震わせ、触覚を動かしている。
「ちょっと待っていなさい」
親蜚蠊はそう言うと、素早くカサカサと動き、巣から出て行った。そして、美佐子の部屋を窺う。美佐子の声が聞えてくる。かなり嬉しそうな声である。何か良いことがあったのであろうか? 親蜚蠊は勇気を振り絞り、美佐子の声を聴くために、そばまで寄った。
「ついてるわ。あたし……」
美佐子は誰もいない部屋でそう言った。誰に言うでもない。恐らく独り言であろう。それにしては声が大きい。狂っているのか? 人間というのは時より一人で会話することがある生物だが、美佐子はその典型である。部屋で一人、べちゃくちゃと喋る。何が寂しくて一人で喋るのであろうか。
親蜚蠊は聴覚を研ぎ澄ませ、美佐子の声を聞き取る。
「もし付き合えることになれば、あたしはゆくゆく社長夫人。そんなこともありえるわ。くぅ、玉の輿ってたまらないわ。おしとやかで静かな女性が好きって言ってたわね。あたしの柄じゃないけど、見事に化けてやるわ。そして必ずゲットしてやるんだから」
その言葉を聞き、親蜚蠊は美佐子が裕福な家庭の御曹司と知り合ったのではないかと推測した。その御曹司は哀れである。美佐子は外見は美人で通っているかもしれないが、性格は荒い。おまけにおしとやかで静かではない。女性とは思えないほど乱暴だし、蜚蠊だって躊躇なく殺す。星の数ほどの同士が美佐子の餌食になったのである。
美佐子はフンフンとご機嫌に鼻歌なんて歌いながら、着替えを済ませている。派手な下着を身に着け、いつもは着ないような高級ブランドの服を着る。お出かけするのであろう。それは簡単に推測することが出来た。もう少しで美佐子はいなくなる。そのときがチャンスだ。
誰もいない部屋の中ならば、安心して狩りを行うことが出来る。早く出て行け。と、念じるように親蜚蠊は美佐子のことを見つめた。美佐子は似合いもしない高級ブランドを身につけ、鼻が曲がるような臭いの香水を体に塗ったくり、洋服と同じ高級ブランドの鞄を引っ提げて、部屋から出て行った。
時刻は午後四時。時間から考えて、夕食に行くのだろう。でなければあんなにお洒落をする意味がない。恐らく、しばらくの間部屋は無人になるだろう。誰もいない部屋で悠々と狩りをすることが出来るではないか。やがて、ドアが閉まる「ガチャリ」という音が聞えた。出て行った。親蜚蠊はサッとフローリングの上に飛び出し、誰もいなくなったことを注意深く観察すると、すぐさま巣へ戻った。
巣に戻った親蜚蠊は言った。
「これから狩りへ向かうぞ。お前もついてきなさい」
すると、子蜚蠊は小さな体をガタガタと動かし、
「で、でも、外の世界は危険が一杯あるって、そうじゃないの?」
「確かに危険は一杯だ。だがね、いつもまでもこうして巣で待っているわけにはいかんのだよ。お前もやがて大きくなり、一人で狩りをして、生活をしていかなければならない時がやって来る。そうなった時に狩りの仕方が知らなければ困るだろう。今日はその練習だ。私についてきなさい」
「人間がいるんじゃないの?」
「その点は大丈夫だ。お洒落をして外に出て行ったから今部屋には誰もいない。安心しなさい」
そう言うと、子蜚蠊はフッと安堵したようであった。弛緩した空気が巣の中に流れる。親蜚蠊は巣の入り口まで進み、薄暗くなった室内を眺めた。大丈夫だ。誰もいない。あれだけお洒落に気を使った美佐子なのだから、しばらくは帰ってこないはずだ。あくまで親蜚蠊の推測ではあるのだが……。
「さぁ行くぞ。私についてきなさい」
親蜚蠊は触覚を振るわせてそう伝えると、颯爽と室内に飛び出していった。
広大に広がるフローリングの上をカサカサと這い回る。後方にはおっかなびっくりの子蜚蠊がいて、必死に後を追ってきている。
フローリングを越えると、次に見えるのはキッチンだ。美佐子は基本的にだらしがないから、レトルトのパックなどを洗わずにそのまま捨てるし、生ゴミも特に処理せず捨てる。おまけにシンクの中の排水溝もあまり掃除をしないので、残飯がたくさん残されているのだ。
まさにそれは蜚蠊にとってパラダイスであった。ゆっくりと食事をして、巣に戻ることが出来る。残飯の数も多い。米、パン、野菜、肉。ある程度のものは揃っている。
親蜚蠊はキッチンまで辿り着くと、六本の足を器用に使い、壁を登っていく。その勇敢な姿を子蜚蠊は黙って見つめている。室内は恐ろしいほど沈黙しており、蜚蠊が這い回る音だけが微かに聞えていた。
シンクの上に立った親蜚蠊は、勇気を持ってここまで登ってくるように子蜚蠊に伝えた。蜚蠊は体の性質上、壁を造作もなく登ることができる。全く練習する必要はない。人間が歩くのと同じ感覚で、壁を伝うことが出来るのである。
子蜚蠊は勇気を振り絞って、壁を登り始めた。最初はのろのろと蜚蠊らしからぬ歩き方であったが、すぐに慣れたようだ。カサカサと壁を登り、親蜚蠊のいるところまで登ってきた。
子蜚蠊がシンクの上まで登ってきたことを確認すると、親蜚蠊は排水溝まで向かう。中にはたくさんの残飯やゴミが入り混じっている。親蜚蠊は排水溝の中に入ると、子蜚蠊が食べやすいように、残飯を集め始めた。
「さぁ降りてきなさい。大丈夫だから」
親蜚蠊がそう伝えると、子蜚蠊はそそくさと排水溝の中に入り、かき集められた残飯を食べ始めた。余程お腹が空いていたのであろう。むさぼるように残飯を食べている。その姿を見て、親蜚蠊は安心した。
ある程度ものを食べ、お腹が落ち着いた子蜚蠊は、親蜚蠊のことを見つめた。これだけ残飯があるのにもかかわらず、親蜚蠊は何も食べてない。
「お父さん。食べないの?」
と、不思議そうに子蜚蠊が尋ねると、
「ああ。私はいらないんだ。私に気にすることなく、好きなだけ食べなさい」
親蜚蠊はどうして残飯を食べないのか? その理由は簡単である。毒を食らってしまい、体内に毒を宿す親蜚蠊は、毒が伝染するのを防ぎたかったのだ。万が一、自分が残飯を食らい、その食べかすに毒が伝染したとなると、子蜚蠊に毒を食わせているのと同じになる。それだけはしたくはなかった。
そんなことを露ほども知らぬ子蜚蠊はむしゃむしゃと残飯にかじりつき、一心不乱に食べている。やがて、親蜚蠊は排水溝から出て行き、シンクの上に登った。それを見た子蜚蠊も親蜚蠊の後を追う。
「お父さん、どこへ行くの?」
シンクの上に登った子蜚蠊はそう尋ねた。すると、親蜚蠊は触覚を器用に動かしながら、
「下を見てみなさい」
と、言った。
子蜚蠊は親蜚蠊に言われるがままに下を見つめた。そこにはフックに引っ掛けられたビニル袋が見える。
美佐子はシンクの下にある小棚の上方部にフックを設置し、ビニル袋を引っ掛け、それをゴミ箱として使っているのである。ビニル袋の中には残飯のかけらが多数放り込まれている。
排水溝の残飯と決定的に違うのは、味がしっかりと残っているということだろう。排水溝の中の残飯は水でその味が流されてしまいほとんど無味である。しかし、ビニル袋の中の残飯はしっかりと味が残っているので、とても美味しいのだ。親蜚蠊はシンク下のビニル袋に向かって跳躍した。
ビニル袋の中はゴミで溢れており、それがクッションになる。親蜚蠊は子蜚蠊に向かって降りてくるように催促する。それを聞いた子蜚蠊は恐怖で体を動かしながらも、結局はシンクから飛び降り、ビニル袋の中に着地した。
「ここにもたくさん食べ物がある。覚えておきなさい」
「うん」
子蜚蠊はそう言うと、ビニルの包装紙に包まれたパンのかけらを見つけ、それを食べ始めた。甘くて美味しい。排水溝の中の残飯とは比べ物にならない。
「しかし……」唐突に親蜚蠊が言った。「気をつけなければならないこともある」
「気をつけないといけないこと?」
鸚鵡返しに子蜚蠊が尋ねると、親蜚蠊はゆっくりと体を動かし、
「ビニル袋の中を歩くと、ガサガサと音が出てしまうのだ。美佐子はその音に過敏に反応する。私はビニル袋の中で圧殺された同士をたくさん見てきたし、ビニル袋を縛られ、外に出られなくなった者たちも大勢知っている。だから、このビニル袋を漁るときは細心の注意を払わなければならない。美佐子がいるときにビニル袋の中に入ってはいけないよ。良いね?」
その言葉を聞き、子蜚蠊は恐怖で体をブルブルとさせた。殺されたくない。そんな気持ちが体中に広がったのである。
「ぼ、僕は殺されたくない」
子蜚蠊は静かに言った。漆黒の小さな体が小刻みに震えている。愛しい我が子。親蜚蠊はそっと子蜚蠊に近寄り、触覚を動かし短い足で体に触れた。
自分の半分ほどしかない小さな体。子蜚蠊は親蜚蠊に触れられて安心したようである。震えが収まり、やがて我を取り戻す。
「大丈夫かい?」
親蜚蠊はやさしく尋ねる。
すると、子蜚蠊はゆっくりと体を動かし、
「う、うん。落ち着いたよ。とにかく美佐子には気をつけなければならないってことだね」
「その通りだ。美佐子は強暴だ。女の癖に蜚蠊を見てもそれほど驚かないし、逆に勇敢に立ち向かってくる。おまけに様々な兵器を持っているから手がつけられない」
「も、もし仮に美佐子に見つかったらどうすれば良いの?」
「うむ……」親蜚蠊は言った。「まずは慌てないことだ。我々蜚蠊は体の性質上、前に動くことしか出来ない。後ろには動けないからね。だから人間に相対したときであっても前進するしかないのだ。それゆえに恐怖は大きい。あの邪悪で巨大な美佐子に立ち向かわなければならないのだからな」
「前に進む。……僕にそんなことが出来るかな? 僕なら恐怖でその場から動けなくなってしまいそうだよ」
「それがいかん。良いかね、人間の前で立ち止まるということは、『さぁ殺してください』と言っているようなものだ。故に絶対にしてはいけないことだよ。人間は様々な兵器を持っているのだから」
親蜚蠊がそう言うと、たちまち子蜚蠊に震えが走る。大地震でも起きたかのように、子蜚蠊は小さな体を小刻みに動かした。
「ぼ、僕、動けるかな? それに兵器って何?」
「まずはスプレーだ。我々蜚蠊が嗅ぐとたちまち死んでしまう魔のスプレーなんだ。これにより、多くの仲間が犠牲になった。お父さんも危うく死に掛けたことがあるのだよ」
ゴキジェットなどの殺虫剤は強力である。たとえ直撃しなくても、その臭いを嗅いだだけで致命的なダメージを与えられるのだ。気をつけなければならない。
「それ以外にも……」親蜚蠊は続けて言う。「紙で作られた小屋のようなものが建っているときがある。とても良い匂いがするのだが、これに近づいてはいけないよ」
「良い匂いがするのに近づいちゃ駄目なの?」
子蜚蠊は不思議そうな口調で尋ねる。それに対し、親蜚蠊は冷静に答える。
「そう。あれは我々蜚蠊を誘う罠だ。あの小屋は床に強力な接着剤が敷かれており、匂いに誘われて小屋の中に入ると、たちまち動けなくなるという、とても恐ろしい小屋なんだ。この罠にもたくさんの同士たちが引っかかり命を落とした」
「小屋には近づいちゃ駄目なんだね」
「それ以外にも強烈なガスがある。美佐子は定期的に毒ガスを撒くことがあるから注意が必要だ」
「毒ガス?」
「そうだ。部屋の中心に毒ガス兵器を置き、スイッチを押す。そうするとたちまち部屋が白い煙で覆われるのだ。部屋の隅々までガスは行き渡り、我々を苦しめる」
「そうなったときには、どうすれば良いの? 巣に戻っていれば良いのかな?」
「毒ガスは強烈だ。巣に戻ってもそのガスは巣全体を襲う。だから、巣の中にいたら殺されてしまうんだよ。私が作った巣は、美佐子の部屋と繋がっている道と、外に繋がっている道と両方ある。毒ガスが撒かれたときには、部屋の中に逃げるのではなく、当然、外に逃げなければならない。一日程度巣から離れていればガスの効果は薄まる。その時は外で暮らすんだ。但しあまり巣のそばから離れてはいけないよ」
「分かった。僕、気をつけることにするよ」
美佐子の家は危険がたくさんある。本当ならば自分が子蜚蠊を守りたい。しかし、毒を食らった親蜚蠊には余命がそれほどない。こうして話をしている間にも、大切な命は徐々に削られていく。少しでも多くのことを子蜚蠊に伝えておかなければならない。それが自分に残された最後の使命なのだから。
「他にもまだあるぞ」親蜚蠊は言った。「黒いカプセルのような建物があった時にも注意が必要だよ」
まさにそれは自分が罠に掛かってしまった、あの邪悪なカプセルである。あの黒いカプセルの中にはゼリー状の蜚蠊誘発剤が仕込まれており、それを食すと毒を媒介する恐ろしい時限爆弾になってしまうのだ。その事実を親蜚蠊は経験上察していた。
「黒いカプセルって何?」
カプセルといっても、子蜚蠊には何なのか分からないようである。親蜚蠊は実物を見せることで、危険を知らせようとした。ビニル袋からガサガサと抜け出し、シンクの上によじ登る。子蜚蠊もその姿を見て、懸命に後を追ってくる。
シンクの上に立った親蜚蠊と、子蜚蠊は静かに美佐子の部屋を見下ろした。広大なフローリング。乱雑に詰まれた書籍、汚い机の上には開きっぱなしのノートパソコン。そして、フローリングの床には洗濯物がたんまりと置いてある。基本的に整理整頓をしない美佐子の部屋は汚い。汚い場所を蜚蠊は好む。美佐子の部屋は蜚蠊が棲むにはうってつけなのである。
「下を見てごらん。黒い物体が見えるかい?」
親蜚蠊は触覚を下に向け、キッチン下にある黒いカプセルを見下ろした。その姿を見て、子蜚蠊もようやくカプセルの存在に気づいたようである。
「何か黒いものがあるよ」
そう言い、子蜚蠊は興味深そうにカプセルを眺める。ここまで匂いが立ち上ってきそうである。
「ついてきなさい」
親蜚蠊はそう言うと、シンクの上から床に向かって飛び降りた。羽を羽ばたかせ床に着地する。蜚蠊の飛翔能力はそれほど高くないが、少しくらいなら飛べるのである。ずっと巣にいた子蜚蠊はそのことを知らない。空も飛べるということを知らせておく必要がある。
床に着地した親蜚蠊は子蜚蠊に向かって飛ぶように催促する。しかし、子蜚蠊はなかなかシンク上から跳ぼうとしない。恐怖が体中を包み込み、飛ぶという勇気が出ないのである。
「どうした早く飛ぶんだ。大丈夫だから」
励ます親蜚蠊であったが、子蜚蠊は恐怖で慄いている。
「お、お父さん。僕怖いよ。どうすれば良いの?」
「羽を出して、それを羽ばたかせるんだ。大丈夫。お前なら出来るから。安心して飛びなさい」
数十秒の間があった後、ようやく子蜚蠊は覚悟を決めたようである。おそるおそるシンクの端に立ち、いよいよ飛び立った。
小さな黒い体が宙を舞う。子蜚蠊はひたすらに羽を震わせ、地面に着地した。
「出来るじゃないか? 我々蜚蠊はこうして空を舞うことだってできるのだよ」
子蜚蠊は、今まさに自分がしたことが信じられないとでも言うように、放心状態である。親蜚蠊が近づくと、ようやく我に返ったようで、
「ぼ、僕も飛べたよ。飛べたんだ」
「そうだよ。その飛び方を忘れてはいけないよ。飛翔はとても心強い武器になるのだからね。完全にマスターしておくのが良い」
「武器になるってどういうこと?」
「良いかい。人間は蜚蠊が飛ぶと酷く驚くんだ。場合によってはパニックになって逃げ出すこともある。美佐子も例外ではない。狂ったように暴れるが、正気を失い、ただ乱暴にスリッパという武器を振り回すだけになる。その隙に逃げることが出来れば、命をつなげることが出来る。だから、飛ぶということを忘れないようにしなくちゃいけないよ」
親蜚蠊はそう言い、くるっと身を反転させた。その先には黒い小さなカプセルがある。近寄れば近寄るほど、香しい匂いが漂ってきて誘われてしまう。しかし、あれは罠なのだ。決して近づくことが出来ない。やがて、子蜚蠊もその匂いに気がついたようである。
「何か良い匂いがするね」
そう言い、触覚をくねくねと動かす。あまりの匂いで、子蜚蠊はカプセルに近づこうとするが、それを親蜚蠊が制した。
「行ってはならんッ」
その言葉に、子蜚蠊はビクッと体を揺らした。
「ど、どうして?」
子蜚蠊は静かに言う。親蜚蠊は自分が食べたゼリー状の毒物を思い出しながら、言葉を継いだ。
「あの匂いこそ。魔の匂いなのだ。あの中には強烈な毒物がある。自分だけでなく、仲間にも被害を与える強烈な毒物なのだよ」
その言葉に、子蜚蠊は言葉を失ったかのように固まる。今まで聞いた中でも最上級の兵器だ。毒が伝染する。これほど恐ろしいことはない。
二匹の蜚蠊は黒いカプセル、コンバットの前に立ち尽くす。親蜚蠊の体内には毒が流れていて、いずれは死ぬことになる。残された時間はあまり長くない。親蜚蠊は子蜚蠊を見つめた。美佐子の家にはもともとたくさんの蜚蠊が棲みついていたが、現在は全く残っていない。
ゴキジェット、バルサン、蜚蠊ホイホイ。このような兵器を使ったため、棲みついていた蜚蠊たちが根こそぎ殺されたのである。
そんな中に、小さな蜚蠊を一匹残して死んでいかなければならない。自分の境遇を呪った。今はまだ死ぬときではないのに……。親蜚蠊はスッと体を翻し、とぼとぼとフローリングの上を歩いた。
フローリングの床にはうっすらと埃がたまっており、その他にも髪の毛やゴミなどが落ちている。乱雑に投げられた洗濯物の山を越え、親蜚蠊は白い壁の方へ向かっていく。不思議に思った子蜚蠊は、親蜚蠊の後を追いながら、
「お父さん、どこへ行くの?」
と、声をかけた。
親蜚蠊は立ち止まることはせず、カサカサと歩いたまま、
「ついてきなさい。昔使っていた巣が確かこの辺にあるのだ」
美佐子の住むマンションは決して良いマンションではない。築年数もかなり経っているし、造りも粗い。冬になれば隙間風が入るし、エアコンの熱は部屋をそれほど暖めない。反対に夏場は暑く、とろけそうである。
しばらく歩くと床と壁の間に隙間があり、中が空洞になっている部分が見えてくる。その中に、親蜚蠊は巣を造っていたのだ。今使っている巣は自分の毒が蔓延したかもしれない。あのまま棲み続けるのは危険であると判断したのだ。
「お前は今日からこの巣で暮らしなさい」
親蜚蠊の唐突な提案に、子蜚蠊は面を食らったかのように小さな体をカサカサと動かした。
「ど、どうして?」
「毒が広がっているといけないからだ。この巣ならその心配はない。なかなか棲み心地の良い巣だぞ。お父さんが若い頃使っていたんだ。もちろん外に出られるようになっている」
「お父さん。この家には他の蜚蠊はいないの?」
「今はいない。しかし、いずれ現れるだろう。私たち蜚蠊の長所はしぶといというところだ。いくら人間に叩き潰されたとしても、全滅することはない。今はお前一人かもしれないが、きっと仲間が来るときがくるだろう。だから、その時まで耐えなければいけないよ」
「お、お父さんはどうするの? 僕のそばにはいてはくれないの?」
親蜚蠊はグッと言葉を詰まらせた。子蜚蠊が真剣に耳を傾けている。真実を話すべきだろうか? しかし、話せば子蜚蠊に余計な心配を与えることになる。子蜚蠊はこの美佐子の部屋で、しばらくの間一人で暮らさなければならないのだから。
第一、今更外の世界に引っ越すというのも難しい話である。外の世界は今以上に危険だ。クモやねずみ、猫などの生物は皆、蜚蠊の天敵なのだから。野生の蜚蠊が生活していくためには、それ相応の覚悟と、知識や経験が必要になってくる。とてもではないが、生まれたばかりの子蜚蠊は暮らしていける環境ではない。
「お父さんはね……」親蜚蠊は苦しそうに言った。体が焼けるように熱い。「もうすぐ死ぬんだよ。だからお前のそばにいてやることが出来ない」
「そ、そんなぁ。嘘でしょ? お父さんが死んだら僕は一人になっちゃうよ。そんなの嫌だよ」
「すまん。私は美佐子が仕掛けた毒の罠に引っかかり、それほど長く生活できないのだ。徐々にではあるが、毒が体中を覆い始めている。体は熱く、だるさもある。だからこそ、お前に少しでも多くのことを教えなければならない」
子蜚蠊はその話を聞き、親蜚蠊の周りをぐるぐると回った。親蜚蠊は何も出来ずに、ただその姿を見守る。愛しい我が子を一人にして、死んでいくことは本当に辛いことだ。血清があるのなら、それを飲み復活したい。だが、そんなことは不可能なのだ。
「とにかく、ここがお前の新しい巣だよ。お父さんが死んだら、ここで暮らすようにしなさい。この家は蜚蠊が暮らすのには適しているからね。よし、次は玄関の方に向かおう。ついてきなさい」
と、親蜚蠊は一気に説明した後、玄関に向かって歩き始めた。玄関の近くにも出入り口があるのだ。そこを教えておかなければならない。
洗濯機、冷蔵庫を越えると、浴室がある。それを越えると玄関だ。
「そうだ……」親蜚蠊は言った。「浴室も教えておく必要があるな」
「浴室?」
後ろからついてきた子蜚蠊は鸚鵡返しに尋ねる。
「そうだ。浴室だ。人間が体を洗う場所といえば分かりやすいかもしれない。我々、蜚蠊は水分が必要だ。水が飲みたくなったとき、まずはキッチンに向かうのだが、キッチンは音が出やすいし、美佐子の目にもはいりやすい。しかし、浴室は一度使ってしまえば、美佐子は見向きもしない。夜。それも深夜が良いだろう。そのときなら、安全に水分補給をすることが出来る」
親蜚蠊は浴室のトビラの隙間から、中に入っていく。平べったい体は少しの隙間さえあれば通り抜けることが出来るのである。
浴室も部屋と同じで汚い。普段シャワーしか使わない美佐子は浴室の掃除をほとんどしない。浴槽の中には経年の汚れが溜まり、シャンプーやボディーソープなどのカスがこびりついている。親蜚蠊は浴室内に溜まった水をごくりと飲んだ。子蜚蠊も後に続き水を飲む。
蜚蠊も人間同様、水は大切なのである。巣には水がないからどうしても危険を冒さなければならない。
「但し、気をつけなければならないこともある」
水を飲んだ子蜚蠊は体を動かし、親蜚蠊のほうを見つめた。
「危険があるの?」
「うむ。浴室の壁は、部屋の壁同様白いのだ。それに対し、我々蜚蠊の体は黒い。白に黒。正反対の色だ。つまり、目立ってしまうということなのだ。壁や浴室を這うときはその姿が目立っているということを忘れてはいけないよ。さて、玄関へ向かおうか」
再び、親蜚蠊は平らな体を器用に動かし浴室から出て行くと、すぐそばにある玄関に向かった。玄関には乱雑に詰まれた、ブーツやミュール、パンプスなどが置いてある。僅かながら異臭もする。異臭は蜚蠊の好物であるが、美佐子の足の臭いは蜚蠊が嫌悪するほど強烈だ。
親蜚蠊は玄関の隅にある小さな穴の方へ向かっていく。ここにも秘密の抜け穴があるのだ。万が一、美佐子の部屋が毒ガスで包まれたとき、ここから外に出て避難しなければならない。
「ここから外の世界に出られる。外は外で危険だ。万が一の場合以外は出ない方が賢明だよ。ただ、逃げ場所を覚えておくことは良いことだ。ここからも抜け出すことが出来る。覚えておきなさい」
親蜚蠊の先はうっすらと白く光っている。外の世界の光が差し込んでいるのである。子蜚蠊は初めて見る外の世界の光に驚きを覚えているようであった。親蜚蠊はほとんどのことを伝えた。後は、子蜚蠊が生活していく中で、色々と覚えていくだろう。
ゆっくりと足を進め、親蜚蠊は玄関の方へ戻っていく。これでもういつ死んでも構わない。そう思ったときである。コツコツとヒールの音が聞え始めた。その音に、親蜚蠊も子蜚蠊も反応する。
「な、何の音?」
と、子蜚蠊が言ったのも束の間、玄関のトビラがいきなり開かれた。白く神々しく光に照らされている先には、鬼の形相で立っている美佐子の姿があった。
「糞マザコンッ、いきなりドタキャンするんじゃねぇよ。これだから御曹司は困るッ!」
独り言を言う美佐子。少し見るだけで、機嫌が悪いことは見て取れる。まさに最悪の邂逅だ。美佐子は履いていたロングブーツを脱ぎ捨てると、床に視線を注いだ。その先には親蜚蠊と、子蜚蠊の二匹が立っている。
美佐子の目が釣りあがり、そばにあったスリッパを片手に襲い掛かってきた。
「また出やがったな。糞蜚蠊!」
美佐子の悲鳴に近い絶叫が室内に轟いた。なんという乱暴な言葉遣いだろう。とても年頃の女性が使うものとは思えない。二匹の蜚蠊たちの間にサッと緊張が走った。親蜚蠊は子蜚蠊の前に立ち、必死に我が子を守ろうとする。
しかし、体が熱くなかなか言うことを聞かない。この土壇場で毒が体に回ってきたのである。なんということだろう。必死に体を動かすが、体は熱くふらふらとしている。親蜚蠊は蜚蠊とは思えない鈍足で美佐子の攻撃に備えた。
対する美佐子とはいうと、玄関の脇に常備してあるスリッパを振りかざす。子蜚蠊は鬼の形相になった美佐子に度肝を抜かれ、茫然自失と立ち尽くしている。不味い。人間に相対したとき、石像のように固まることは避けなければならない。恐怖で体が固まってしまっても、なんとか体を動かし、その場から逃げなければならないのだ。親蜚蠊は毒が回る体を懸命に鼓舞し、子蜚蠊に逃げるように催促する。
「に、逃げるんだ。立ち止まっては駄目だッ」
必死に言うが、子蜚蠊はすっかり体がすくみあがり動こうとしない。こうしている間にも美佐子は蜚蠊に照準を合わせ、スリッパという強靭な武器を振り下ろそうとしている。
親蜚蠊は長い触角で子蜚蠊に触れた。子蜚蠊はそれでようやく我に返ったようである。意を決し身を反転させ、一目散に駆け出した。それを見た親蜚蠊も必死に逃げる。
逃げる最中、親蜚蠊は人間に相対した時の対処法をすべて教えていないということに気がついた。一番伝えなければならないことを忘れていたのである。毒が回り、どうかしていたのだろうか。餌の場所や水場、そして抜け道や新しい巣などよりも先に教えなければならないことは、人間に会った時の対処法だったのに、それをすべて伝えていない。
蜚蠊はその平べったい体を存分に生かし、狭い隙間を悠々と入り込むことが出来る。つまり、人間に会った時も狭い隙間にすぐさま逃げ込めば良いのである。そうすれば、少なくともあのスリッパという武器は届かない。狭い隙間に入ることで、一旦は身を隠し、見つからないように逃げることだってできるのだ。
人間に相対したとき、「立ち止まるな」ということは伝えたが、隙間に入り身を隠すということは伝えていない。すぐに子蜚蠊の前に行き、狭い隙間に隠れなければならない。そう考えた親蜚蠊であったが、なかなか体が言うことをきかない。どっしりと鉛をつけられたかのように重たいのである。これではやられる。絶体絶命だ。
前方を走る子蜚蠊は、親蜚蠊の考えとは裏腹に、広々としたフローリングを横断する。周りに隙間や身を守るために壁などはない。これではスリッパの攻撃だけではなく、スプレー攻撃の餌食にもなってしまう。
決して振り返ることは出来ないが、美佐子は二匹の蜚蠊めがけて、スリッパを振り下ろしてくる。
「パン、パン、パン」
物凄い音が界隈に鳴り響く。地獄が忍び寄ってきているような音であった。子蜚蠊と親蜚蠊は必死に逃げる。巣はあと少し、そこまで逃げ切れればなんとかなる。親蜚蠊がそう思ったときだった。
美佐子の狙いを澄ませた一撃が子蜚蠊を襲った。
「グシャ」
嫌な音が聞える。親蜚蠊は一瞬何が起きたのか全く分からなかった。床にスリッパが打ち付けられ、目の前を走っていたはずの子蜚蠊の姿がない。
「一匹仕留めた!」
美佐子の怒声が聞える。燃えるように熱い体をなんとか動かし、親蜚蠊は現実を見つめた。やがて、スリッパが地面から離れる。スリッパの裏面には、たっぷりと体液や血液などの液体がついており濡れている。そして、床には無残にも圧殺された我が子の躯があった。
自分の半分ほどしかない小さな体が、押し潰されている。親蜚蠊は子蜚蠊が殺されたということをはっきりと自覚した。
なんて惨いことを……。我々が一体何をしたというのだ。我々蜚蠊は決して人間を襲ったりしない。共存しようと思っているだけなのだ。目当ての残飯だって、それほど多くはいらないし、深夜そっと巣を抜け出して、人間の目に入らないようにしている。親蜚蠊は目の前の残酷な現実を見せ付けられ言葉を失った。走ることを止め、子蜚蠊の死骸に目を向ける。
自分もこのまま死ぬのだろうか? 毒が回り死ぬのか、それとも美佐子に押し潰されて死ぬのか。
……。否、死ぬことは出来ない。少なくとも、この恨みを晴らすまでは死ねない。親蜚蠊の中で、積年の恨みが怒涛のように押し寄せてくる。美佐子を許すことは出来ない。とはいうものの、蜚蠊一匹の力ではどう足掻いても人間を攻撃することは無理である。羽ばたいたとしても、少し驚かすだけで、満足のいく攻撃が出来るわけではない。それに、親蜚蠊には余命が僅かしかないのだ。
美佐子の攻撃が飛んでくる。親蜚蠊は雨あられのように振り下ろされるスリッパの攻撃を交わしながら巣に戻る。なんとか逃げ切った。美佐子は殺虫剤を部屋中に撒いたが、巣には届かなかった。親蜚蠊は自分の情けなさに泣いた。自分の子を守れないなんという不甲斐ない親。我が子を殺された苦しみは、それを経験した者にしか分からない。
絶対に復讐してやる。いつの間にか、熱くなった体は沈静化し、動くようになっていた。コンバットの効果は既に現れても良いはずである。にもかかわらず、親蜚蠊はまだこうして生存している。恨みを晴らすまで死ねないという強大な情念が親蜚蠊を生きる屍に変えていたのだ。
そうこうしていると、室内に電話の音が鳴り響いた。美佐子の携帯電話である。親蜚蠊は巣からサッと顔を出し、美佐子の電話を聞いた。相手はどうやら今日会うはずだった御曹司からのようだ。
「そんなことないですよぉ。全然気にしてませんからぁ。え、明日の夜ですか、もちろんOKです。はい、あたしイタリアン大好きです。ワインのこととか色々教えてもらいですぅ」
先ほどまでの形相が嘘のように美佐子は話している。この猫かぶりの糞女め。こうやって甘い声をだし、男を誘惑するのである。許すことは出来ない。なんとしてもこの縁談を破談にさせてやる。親蜚蠊は尋常ではない精神でそう誓った。
美佐子は明日の夜と言っていた。明日の夜までは生き延びてやる。親蜚蠊はサッと巣に戻り、翌日に備えた。
翌日の夕方――。
生きる屍と化した親蜚蠊はまだ生きていた。まるで美佐子に殺された蜚蠊たちの怨念が親蜚蠊に力を与えているかのようだった。それに応え、親蜚蠊は虎視眈々と復讐のチャンスを窺っていた。
夕方。美佐子は例によって派手な下着に、ブランド物の衣類を身に纏い、御曹司の許に向かおうとしていた。化粧もばっちりだ。最後にブランド物の鞄を持ち、玄関の方へ向かった。親蜚蠊はその後を追う。そして、靴を履くために鞄を床に置いたのを見計らい、鞄の中にこっそり入った。毒は既に全身に回っていたが、なんとか動ける。一矢報いるまでは死ぬわけにはいかないのだ。
途中、美佐子は何度か鞄に手を突っ込んだが、親蜚蠊は鞄の奥のほうに隠れ、その窮地を脱した。やがて、御曹司と会った美佐子は悠々とイタリアンレストランに入っていく。ドレスコードのある本格的なレストランだ。
親蜚蠊は熱くなる体を鼓舞し、積年の恨みを晴らそうと必死になっている。食事が始まり、御曹司と美佐子は優雅に会話をしている。楽しそうな会話が二人の間を包み込む。親蜚蠊はカサカサと鞄から抜け出し、気づかれないように床に着地して美佐子の座る席に登っていく。体が溶けそうに熱い。強靭な精神が肉体を支えていたが、どうやら限界は近いようである。
御曹司の視線が美佐子から外れ、食事の方に移った。千載一遇のチャンス。これを逃したらもう恨みを晴らすことはできない。最後の力を振り絞り、親蜚蠊はバッと宙を舞い、美佐子の顔面に飛び乗ったのである。そしてそこで思い切り糞をしてやった。
一瞬、わけが分からないといった表情を浮かべた美佐子であったが、すぐに自分の顔面にくっついた生物が蜚蠊であることに気がついた。美佐子の顔がサッと青ざめる。それと同時に、
「ウギャー! 蜚蠊ー! 殺してやる!」
という怒声が静かなレストラン内に響き渡る。当然、客たちはその怒声に気づき、美佐子たちのほうへ視線を向ける。もちろん、御曹司も唖然とした表情を浮かべ、美佐子を見つめた。しかし、その時、美佐子の顔面にいた親蜚蠊は姿を晦ましていた。彼は美佐子に一子報い大声を出させた後、素早く跳躍し美佐子の鞄の中に戻り、その短い生を終えたのである。その死に顔は微笑ましく、満足さに満ちていた。
美佐子の縁談が破談になったのは言うまでもない――。
〈了〉