ザ・ホーリック
よろしくお願いします。
気がついたら寝室のベッドに寝かされていた。額に絆創膏と「冷えピタ」も貼られている。首も捻ったみたいでムチ打ちのように痛い。
薄目を開けた視界に飛び込んで来たのは先輩と勝利の姿である。最悪だァ!時計に目を移したら、もう午前零時だった。
あれ?お姫さまは何処へ行っちゃったの?おいしそうなお弁当もまだ食べていないのに。
先輩が俺の顔を覗き込んで言った。
「おお、やっと気がついたか。打ったのが額で良かったよ。固いところだからな。しかし由香利ちゃんが慌てて呼びに来たときは焦ったぞ。智美に主治医の先生を呼んでもらい、診て頂いたら打撲とのことだったのでホッとしたよ。でも、亜矢ちゃんに顔向け出来ないよな」
勝利も心配そうに続けて来る。
「ホント俺もビックリしたよ。由香利が泣きながら電話して来たので、取るものも取らずに駆け付けたんだけどね。絹江から亜矢子さんに連絡してもらったから。一応大丈夫だとも伝えてもらったよ。過剰に心配しないようにね」
俺は喉が渇いていたので、ミネラルウォーターを持って来てもらいゆっくり飲んだ。
「フーウ、みんなに迷惑掛けちゃったみたいですみません。ここんとこ何かフラフラしちゃってて。まあ、この土日はおとなしくしてますよ。ところで、由香利ちゃんが持って来てくれたお弁当はどうなったの?」
「ああ、俺がありがたく頂いたよ。宮川が食べるわけにも行かないだろうと思ってさ」
ゲエエッ!何てことしてくれたんだよ、バカ先輩がァ!お姫さまが初めて他人のために作ったお弁当が、こんなデリカシーの欠片も無い人に食われるなんて。トラウマになっちゃったらどうするんだよォ!
少し三人で話しているとバタンと玄関のドアが閉まる音がした。直ぐにバタバタと足音がして寝室のドアが開けられる。何と亜矢子だァ!
「透ゥ!大丈夫ゥ!?私、新幹線の最終で帰って来たわよ。とても朝まで待ってられないもん!」
若奥さまは俺の頭を包み込むように抱えて涙を溢れさせた。先輩は簡単にドクターの診断を伝え、勝利を連れて帰ろうとする。その場で見送る亜矢子は、二人に繰り返し頭を下げお礼を言っていた。
寝室で亜矢子と二人切りになれた。すごく会いたかったので嬉しかった。
「ねえ、少しは落ち着いた?月曜の朝までずっと着いててあげるからね。さっき上川さんに聞いたけど、先生が一度精密検査を受けた方がいいっておっしゃってたそうよ。そんなに心配したこともないだろうともおっしゃってたみたいだけど。ウイークデイしか精密検査はやってないらしいから、私のオフの日に一緒に行って受診しようね」
「何か大ごとになっちゃってるなあ。ちょっとフラついて頭をぶつけただけなのに。そんな時間が有るなら一緒に遊びに行こうよ」
「ダメッ!ちゃんと先生のおっしゃってることは聞かなくちゃ。透を守ることが私の生きがいだから我がまま言わないで。お願い……」
また若奥さまが泣き始める。こんなにも彼女を悲しませるなんて、俺ってダメな奴だなあと情けなくなった。でも、その夜は亜矢子が添い寝してくれたので、いつになくグッスリ眠れた。
土曜日は一日中家に居た。天気がいいのに若奥さまが外へ出してくれないのだ。寝室とリビングとキッチンを往復してるだけの単調な日だった。でも、亜矢子はすごくやさしくしてくれた。特上寿司も頼んでくれたし、大好きなお手製カレーも作ってくれた。残ったルーはいつでもチン出来るように冷凍保存した。
日曜日、ランチを兼ねて705号室の上川家でゴマフファミリー七人が揃って会議をやった。主役はもちろん由香利お姫さまである。智美社長と亜矢子とは久し振りのご対面のはずだ。
最初に若奥さまが立ち上がって、俺の件でみんなにお礼を述べてくれた。
「この度は透のことでみなさんに大変ご心配をお掛けしました。近日中に精密検査を受けさせますので、また結果はご報告させてもらいます。助けて頂いてありがとうございました。由香利ちゃん、本当に感謝してます。透の命の恩人だわ。ありがとう」
亜矢子は深々と一礼し、お姫さまは照れてイヤイヤと手を振って見せる。俺も若奥さまに同調して座ったまま頭を下げた。フラつくと危ないから座っているよう彼女に言われていたからだ。
ランチを兼ねてなので用意された多彩なオードブルを摘まみながらの会議だ。いや、そんなかしこまったものじゃないけどね。
ファミリーのゴッドマザーであられるゴマフ社長がお姫さまを見てやさしく言った。
「由香利ちゃんさえ良ければ「オフィス・カムレイド」に入社して色々勉強してみたらどうかしら?私としては、まず芸能の世界を直に見て考えてもらえればいいと思ってるの。もちろん仕事はして頂くつもりよ。お給料もキッチリ払わせてもらうから。
私が考えてるのはどんな仕事かと言うと、亜矢子の付き人さん。一緒に行動して精一杯吸収して欲しいわ。それからメイクアップアーティストになるのか、もっと言えばなれるのかを判断しても遅くないんじゃない?」
亜矢子が智美さんを見てうなずきながら続ける。
「そうですね。マネージャーが打ち合わせをしてる時など身の回りのことは全部自分でやってますから、私としてもありがたい話です」
さすがに由香利は戸惑っているみたいだ。これ、完全に大人の話だもん。
「無職の私には本当にありがたいお話だと思います。家族の了解さえ得られれば頑張りたいです」
若奥さまが少しきつい目を見せた。珍しいなと思った。
「社長を前にして僭越ですけど言わせて下さい。由香利ちゃん、頑張るなんて当たり前よ。未来の全てを賭けて取り組まなきゃ成功なんて得られない世界なの。それでも報われない方だって数多くみえるのよ。それほどの覚悟が出来る?まだ若いんだし、もっと安定した道筋だってあると思うわ」
亜矢子の厳しい言葉にお姫さまはすっかり委縮してしまった。オイオイ、そんなにイジメてやるなよ。同じファミリーなんだからさ。
こういう時はやっぱり智美さんだ。ゴマフの牙を隠して由香利にニッコリ微笑む。
「とにかく冷静に考えてね。お兄さんたちともよく相談して決めればいいわ。でも、亜矢子が真剣に言うくらいだから素質が有るんでしょうね。やさしいことを言うのは簡単だから」
なるほど。俺は甘やかすだけの発想か。プロ女優ってやっぱりスゲエんだ。
「社長、フォローをして頂いてありがとうございます。私にとって由香利ちゃんは特別な存在なんです。だったら本当の妹のように精一杯吸収して欲しいんです。付き人になるなら厳しくやりますよ。こう見えても私は由香利ちゃんを気に入ってますからね。何たって透の元カノだし」
最後のフレーズだけ笑って言ったけど、確かに若奥さまは本気でお姫さまの将来を考えてくれてるに違いない。
ここで勝利が兄の顔を見せやがる。お調子者の面目躍如だ。
「智美さん、亜矢子さん、妹のことを真剣に考えて下さりありがとうございます。結論はわかりませんけど、俺としても妹にはやりたい道に進んで欲しいと思ってますんで、お世話になるようでしたらよろしくお願いします」
立ち上がって四十五度で一礼し、絹ちゃんも同調して頭を下げた。
この時だけは勝利を褒めてやりたかった。お前はいい兄貴だよ。役立たずだけどな。
主要な議題は一つだけだったので話題は上川先輩に移った。このバカ先輩が何故か支店の広報部に移動することになったのだ。同じビルのフロア違いなので離れてしまうわけではないが、何でこの野球バカがマスコミ対応も絡む広報部へ移るのか理解出来なかった。支店長とか役員が頻繁に出入りする部署だぞォ!先輩自身も不思議がってたから結論など出るはずがないけど。
勝利が絹ちゃんと由香利を連れて帰ったあと、俺と亜矢子はもう少しここに居ることにした。
若奥さまが興味深そうな顔で智美さんに聞いた。
「社長、本当は由香利ちゃんを狙ってるんじゃないですか?確かに彼女は「特別」ですからね」
「あら、さすがにプロの女優さんはちゃんと見てるわね。そうなの。由香利ちゃんの目がとっても「特別」なの。それだけで充分に才能よ。顔立ちはもちろんだけど、あの説得力を持った瞳はちょっと見つけられないわね」
わからん。確かにお姫さまは美女だけど、キレイな人なんて芸能界にはいっぱいいるだろうに。まあ、俺のようなトウシロには才能なんてわかるはずがないけどさ。
でも、せっかくだからプロの二人に「特別」の意味を聞こうとした。
「と、とううえおおいお」(特別ってどういう意味なの?)
亜矢子が真っ青になって俺を抱きしめた。
「ちょっ!透ゥ!大丈夫?もう話さなくていいから!しっかりしなくていいからねェ!」
俺の頭はバカなりにちゃんと回ってるぞォ!でも、手足が痺れたような感覚で動けなかった。
結局俺は上川先輩におぶられて自宅の寝室へ連れて行ってもらった。先輩は「困ったら遠慮なく連絡してくれよ」と言い残して705号室へ戻って行った。すみません。そしてありがとう、先輩。
二人切りになった寝室で若奥さまは泣きじゃくり自戒の言葉を並べた。
「透、本当にゴメンなさい。全部私が悪いんだわ。あなたに甘えて自分の道だけを見つめ続け、こんなになるまで気付かなかったなんて……」
そんなことないよと言いたかったけど、唇が震えて言葉が出せなかった。頬を寄せられた時伝って来た涙の感触が、やるせない気持ちを一層増幅させた。
翌日、上川先輩に連れられて大学病院へ精密検査を受けに行った。もちろん智美さんの主治医の紹介状を持ってだ。先輩は俺のために有給休暇を取ってくれたみたいで本当に申し訳ないと思った。
俺は一週間の休暇を若奥さまから申し出てもらった。彼女は今日の仕事をキャンセルすると言い出し、智美さんとケンカになったと先輩が言っていた。亜矢子が社長に逆らうなんて初めての事だろう。水・木曜日をオフにすることで渋々東京に向かったそうだ。ずっと寝室に居た俺には、聞かされるまで知らなかったことだけど。
精密検査は血液と全身の神経反応など多岐に渡り、特に頭部はMRIやCTなどを入念に撮った。病院内では先輩が押してくれる車椅子で移動した。転倒する危険が有るからだ。
朝一で行ったのに昼休みを挟んで、検査が終わったのは午後3時過ぎだった。もうヘトヘトだよ。
帰宅したら勝利と絹ちゃんがやって来たのにはビックリした。今日、明日と泊まってくれるとのことだ。絹ちゃんが「高級マンションの暮らしを味わってみたくてね」と気遣ってくれた。込められた皮肉に罰が悪そうな勝利がおかしかった。勝はフロアかソファでいいけど、絹ちゃんはお客さま用の布団を出して和室で眠ってね。
亜矢子は水曜日の午前2時に帰って来た。また東京発最終の「ひかり537号」で名駅まで戻り、タクシーを飛ばしてのご帰還だ。深夜にもかかわらず杉村夫妻は彼女に挨拶して帰って行った。ムチャを続ける若奥さまの身体の方が心配になってしまった。うまく話せない俺は筆談で意思を伝えることにした。もう声も掠れてしまったし、うまく伝わらないのに無理して話すことに疲れてしまってたから。
言葉は全部ひらがなで書いた。日本語って素晴らしい。
大学ノートにサインペンで「ありがとう。むりしないで」と書いて見せると、亜矢子は大きくうなずいて口づけしてくれた。
翌朝は10時頃まで一緒に寝ていた。午後からは大学病院だ。神経科の先生より説明が有るらしい。タクシーを呼んで二人で行った。
受付を済ませ外来患者の捌けた診察室に呼ばれた。午後になると主に入院患者さんの診療や検査が行われているようだ。ドクターは田中先生と言う四十代前半とおぼしき関西弁で話す方だった。先日撮ったMRIなどの画像を見せながら丁寧に説明してくれる。頭部に生物学的異常は見られないとのことだ。じゃあ何で不自由してるんだと思ったら、検査の時書き込んだ問診票を出され「軽度の鬱病ですね」と診断された。
えっ?俺って病気なの?信じられない気持ちだった。
「まだ初期みたいですから、取りあえず抗鬱剤を服用してもらって様子を見ましょう。あまり重く受け止めなくていいですよ。数ヶ月で治る場合もありますから。ただ、この病気は再発率が六割にもなりますから、完全に治るまで治療を続けることが大切です。治療中は決して無理させることの無いよう注意して下さい」
若奥さまは神妙な顔でドクターの説明に聞き入り、時折りメモも取っていた。診断書も書いてもらった。処方された抗鬱剤と睡眠導入剤を院外の薬局で受け取り自宅へ戻った。
俺は亜矢子に「ごめんね。ふたんをかけちゃって」と書いたノートを見せた。若奥さまは「バカね……。透の身体が第一よ。私、何よりもあなたが大切なの」と耳元で囁き、ギュッと抱きしめてくれた。
夜になって先輩と智美さんを招き、リビングで亜矢子が俺の病状を説明した。上川先輩は少し驚いたみたいだが、智美さんは冷静だった。
「亜矢子、あなたが仕事の時は由香利ちゃんにハウスキーパーを頼むってのはどうかしら?一応気心知れてるんだし、初めての方より宮川君のストレスは溜まらないと思うんだけど。あなたが嫉妬心を掻き立てられるというならダメだけどね」
「うーん、そうですねえ……」
若奥さまは暫く思案してから続けた。
「取りあえず一ヶ月は休職させますんで、その間をどうするかですよねえ。大学病院の診断書は書いて頂きましたから会社の方は問題無いと思うんですけど」
「ゴメンね。本当は亜矢子も着いていたいんでしょうけど、CMとか映画も契約しちゃってるから急にとは行かないのよ。せっかく上昇気流に乗り掛かってるんだし」
「それは理解してます。周りに支えられてここまで来れたんだし、もう私だけの身体じゃありませんからね。先日は感情的になり、我がまま言ってすみませんでした。智美社長じゃなかったらクビになってますよね」
「いいのよ。あなたは私の盟友なんだから。もちろん宮川君は特別な存在だしね」
上川夫妻が帰ったあと、亜矢子はロイヤルミルクティーを片手に思案し、俺は自分のことにかかわらずキョトンと若奥さまを見続けていた。
「透、私としてはやっぱり由香利ちゃんにお願いしたいんだけど、あなたとしてはどうなの?」
俺はノートに「うーん」とだけ書いて見せたら、パシッと頭をはたかれた。でも亜矢子は微笑んでいた。
「ホントは嬉しいくせに。一応一緒に過ごすのは認めてあげるけど、何かあったら殺すわよ!」
「あうう……」と書いたら大笑いされてしまった。そのあと若奥さまが口づけして来たので強く抱きしめた。それから彼女は由香利にケイタイしてあらましだけを説明し、翌日来てもらう約束をしていた。
読んで下さりありがとうございます。