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ザ若奥さまストーリー  作者: 天ぷら3号
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ザ・発症

よろしくお願いします。

 マンションに戻って705号室の上川家にお邪魔した。リビングで智美さんの入れてくれたおいしいブルマンを一口飲んだ時、やっと六名の諭吉君が羽ばたく光景に占められていた俺の頭に隙間が出来た。


「あの、今日は相談が有るんですけど。先日、絹ちゃんと由香利ちゃんに頼まれたもんで」


 若奥さまに一瞬キッと睨まれたが、直ぐに柔和な表情に切り替わったのでホッとした。


「由香利ちゃん、どうかしたの?」


 智美社長が興味深そうに続きを促す。


「ええ、実は彼女は現在無職で、美容学校は卒業したんですけど、やりたいのは女優さんなどのメイクだそうです。地方在住じゃそんなの無理だし、智美さんか亜矢子なら力になれるかも?と思って引き受けました」


 亜矢子は智美さんの顔を見てから一呼吸置いて言った。


「それはむずかしいわ。スタイリストとかメーキャッパーはテレビ局の専属か芸能事務所の契約した方に限られてるもの。「オフィス・カムレイド」は彼女に未来を約束出来る大手じゃないからね」


「そうね。今んとこ「カムレイド」でコンスタントに仕事を取れるのは亜矢子だけだもんね。まあ、私は少し違う考え方をしてるんだけど」


「えっ?どういうことですか?」


 またこの天才社長は何かヒラメいたのだろうか?いつもゴマフは凡人と発想が違うからなあ。


「それは本人が居るところで話すわ。主役不在じゃ話を詰めて行けないもの。直也、来週の日曜辺りでセッティングしてくれない?」


 先輩は面倒くさそうに「わかったよ」と短く返した。上川先輩が蚊帳の外の話に興味を示さないのはいつものことだ。この俺さま先輩はジッとしてるのが苦手なんだと思う。そして俺は、役立たずのお節介野郎だ。



 話が落ちたと思ったら、亜矢子が先輩に向き直った。


「上川さん、私からもお願いが有るんですけどよろしいですか?」


「いいよ。亜矢ちゃんの頼みはどうせ宮川のことだろ?」


「そうです。察しが良くて助かります。実は透の様子がおかしいので、仕事中以外は目を掛けてやって欲しいんです」


 へ?俺がおかしいってどういうこと?頭は回りが悪いだけでおかしいんじゃないぞォ!


「上手く言えないんですけど、反応がスローだったり怠そうにしてるのが目につくもんで心配なんです」


「亜矢子、何言ってんだよ。俺は元気だぜ。松阪牛を頂いて絶好調だよ。でも、あんなお財布に痛い物は今回限りにしとこうぜ」


「透が元気になってくれるなら松阪牛なんて安い物だわ。毎月でも食べに行くわよ」


 毎月なんてジョークは流しておくとして、若奥さまが心配してくれるのはありがたいことだ。智美さんが怪訝そうにスケジュールを訪ねて来る。


「亜矢子はまた明日から東京なの?」


「ええ、金曜日までドラマロケとCM打ち合わせ、スポンサーへの挨拶回りなどが入ってます。それでも企業系は土日がオフになりますからありがたいですけどね。イベント時は別ですけど。また土曜の午前中に帰ってくる予定です」


「そう、頑張ってね。宮川君が心配でしょうけど、直也にしっかり見ててもらうから」


「ありがとうございます。ホントお二人にはお世話になりっぱなしで申し訳ありません。私たちを今一度助けて下さい」


 正直、俺は大げさだなあと思った。本人が大丈夫って言ってるんだし、お目付け役が先輩じゃどうにもなんないよ。




 706号室に戻ってずっと二人でリビングに居た。亜矢子は俺に触ったりつついたり、時にはキスもして意図的にスキンシップを計っているようだった。




 月曜日、若奥さまと先輩を乗せて会社に向かった。途中、駅で亜矢子を降ろす時、「上川さん、透をよろしくお願いします」と頭を下げているのが印象的だった。



 でも、また今日から独りぼっちの夜だなあと気持ちが沈んだ。


 勤務中、西営業所からの転勤で今じゃ同じ料金課机上グループの高橋恭子(たかはしきょうこ)さんがデスクに寄って来た。この同期女史が絹ちゃんに告げ口したせいで、俺と勝利は地獄を見たんだぞォ!


 そもそもこのお方は俺が入社して最初に付き合って頂いたお姉系の美女なのだ。アッサリ振られたけど、今では普通に話をする。モテる女のはずだがまだ独身である。プライド高そうだから、アッと驚く大物を狙ってるのかも知れないな。どうでもいいけどね。


 彼女の右手がスッと伸びて来て、稟議書を作っていた俺のノーパソのキーを軽く押しやがった。


「何すんだよォ!邪魔するんじゃねえ。これ今日中の提出だから急いでるのに」


 恭ちゃんはフフッと薄笑いを浮かべてやがる。実に意地悪な女なのだ。


 そのままワード文書の続きを打ったら英字モードに切り替わっていた。クソッタレェ!あれ?どうやって「かなモード」に戻すんだっけ?やり方が思い出せない。


 立ち上がって三つ離れたデスクまで文句を言いに行った。


「恭ちゃん、悪戯するのは止めてよ。稟議書作れなくなったじゃんかァ!」


「はあ?「英字モード」に切り替えただけだよ。ツールバーをクリックして戻すだけじゃない。あッ、もしかして新手の誘い方なの?平日はお独りさまだって聞いてるわよ」


「何バカなこと言ってんだよ。戻し方忘れちゃったから早くやってよォ」


 恭ちゃんが面倒くさそうに俺のデスクに行って、キー操作でモード変換してくれた。


「透君、仕返しのつもりなの?本当にわからなかったのならおかしいわよ」


 人の仕事の邪魔をしておいて何とも失礼な女である。でも、これ以上相手にする時間は無い。返事をせずに稟議書の続きを作った。




 稟議書は副長に提出を済ませたので定時で上がった。また独りぼっちの長い夜が始まる。まあ、コーヒーを飲みながら小説でも読んでれば時間を忘れられるはずだ。


 夕食はレトルトカレーにしよう。冷凍してあるご飯と共にチンするだけだ。亜矢子のお手製カレーとは比べ物にならないけど、空腹さえ満たせれば構わない。上川先輩は智美さんが不在の時は外食か店屋物の出前だと言ってたけど、俺にそんな贅沢は不可能だ。ああ、住宅ローンが恨めしいよォ!




 水曜日の夜だった。帰宅して夕食の用意を始めた。と言っても、今夜のメニューはインスタントラーメンである。二日続けてレトルトカレーだったから、さすがに三連チャンは止めようと思った。だいいち、冷凍ご飯がもうないのだ。これから三日間はラーメンで我慢しよう。土曜日になれば亜矢子が戻って来て手料理を作ってくれるだろうから。



 インスタントラーメンの袋をテーブルに置いて、俺は深刻な事態に陥った。いや、落ち着けば大したことでは無い。作り方を忘れてしまっただけである。袋を手に取り一生懸命裏面を読んだ。わかった。簡単だ。鍋にお湯を沸かして乾麺をブチ込み、ほぐしたら火を止め粉末スープを溶かすだけだ。焼き豚やシナチク、蒲鉾なんて贅沢な物は入れない。でも、玉子だけ割って入れよう。


 あれ?コンロの点け方がわからないじゃん。まあいいや。ラーメン鉢に乾麺を入れてポットのお湯を注ぎ、粉末スープをまぶした。これで鍋を洗わなくて済む。さすが俺は効率的だ。


 麺が固めだけど気にしない。いただきます。四角いままの乾麺をかじった。クッソまずい!思わず口に含んだ麵を吐き出した。情けなくなって涙が滲んで来る。でも、気落ちしててもしょうがない。人間は食べなくちゃ生きて行けないんだから。


 気を取り直してメニューを切り替えることにする。今日の晩餐はポテトチップスと缶ビールにしよう。これなら調理しなくて済むじゃないか。大丈夫、考えれば生きて行けるよ。



 その時インターホンが鳴った。応答したら上川先輩だった。快く招き入れ、取りあえず散らかしたままのキッチンに戻った。先輩もキッチンに入って来て目を丸くさせている。


「宮川、何やってんだ?このインスタントラーメンみたいなのは何だ?麵がほぐれてないじゃんかァ!」


 相変わらず失礼な人だなあ。ラーメンみたいじゃなくて、どう見てもラーメンだろッ!


「丁度良かったです。先輩、ガスコンロの点け方がわからなくって。どうやってやるんでしたっけ?」


「はあ?亜矢ちゃんから頼まれた手前見に来たんだけど、ホントにお前おかしいぞ」



 先輩も今夜は独りらしく、そのまま「アンフィス」へ連れて行ってくれた。ラッキー!一食助かったぜェ!


 これでインスタントラーメンの晩餐は二連チャンで済む。でも、火の点け方はわからないままだ。おかしいなあ。今までちゃんと作れてたのに……。




 木曜日、勝利が内線を掛けて来て夕食に招待してくれた。終業後、バス通勤の勝をスカGに乗せ、アパートに住む杉村家に行った。


 絹ちゃんは本日有給休暇とのことで、すでに晩餐のクリームシチューは出来上がっていた。お前らなあ、お客さまをもてなすんだから肉くらい用意しとけっつーの!確かにかしわは入ってるけど、俺はモーモーさまが食いたいんだぞォ!先日食した松阪牛とまでは言わないから、飛騨牛くらい用意しとけよ!何たって安月給のリーマン風情が自腹で食える代物じゃなかったんだからな!


 まあ、せっかくお招き頂いて絹ちゃんに文句を言いたいわけじゃない。勝利をなじって八つ当たりしたいだけだ。だって、クリームシチューでも二人で話しながら食べるんだもん。独りで食べてる俺よりずっとおいしいよ。正直、羨ましいな。女優の奥さまを持つってことは、想像以上に寂しいものなんだと思い知らされた。


 絹ちゃんが俺の顔をマジマジと見つめながら切り出して来た。


「透君、今日お招きしたのは、先日恭子から電話をもらったからなの。いつもやってるパソコンのキー操作がわからなかったみたいだって」


「えっ?由香利ちゃんの件の進捗状況を聞きたいからじゃないの?しかし、恭ちゃんもおしゃべりだよなあ。ちょっとド忘れしただけのことをいちいち報告しなくてもいいのに」


 勝利まで俺をジッと見やがる。男に見つめられたくねえっての!


「いや、俺も上川先輩に言われたしね。透の様子がおかしいって。インスタントラーメン作るのに失敗してたって聞かされたんだよ。コンロの火を点けられなかったって」


「透君、大丈夫?メンタル患ってるんじゃないの?こう見えてもみんな心配してるんだよ」


「ありがとう。でも、全然大丈夫だから。俺は何処も悪くないよ」


 それでも二人は怪訝そうな顔を崩してくれない。


「本当に患ってる人は自分でおかしいって言わないわよ。とにかく、暫く自炊は止めてみたら?先輩と外食するなりウチに食べに来るなりして、独りで食べないようにしなよ。私、透君の分くらい用意させてもらうから。亜矢ちゃんとも友達なんだし、心配を共有するくらい構わないでしょ?」


 彼女からのお申し出は大変ありがたいと思う。そうだな。確かに最近物忘れ激しいし、仕事上でも全廃分の振込用紙の送付先を間違えるというポカをやって副長に怒られたばかりだ。



 絹ちゃんお手製のクリームシチューを頂いた。多分これはおいしいんだろう。多分と言うのは味がわからないからである。あれ?俺っていつから味覚障がいになってたの?まあいいや。とにかく空腹感だけは打ち消すことが出来るから良しとしよう。


 勝利の愛妻が賢い俺に心変わりするといけないので、親友に気を遣って晩餐後のお茶だけ頂いて杉村家をあとにした。バカな友でも見捨てない。いつも俺は友情に分厚い奴である。




 金曜日、帰宅してソファにへたり込んだ。やっと休日だ。明日は亜矢子も帰って来るし、独りで食べるのは今夜だけだ。先輩との外食や勝の夕食のお邪魔虫も浮かんだが、心配掛けるのも悪いので止めておいた。


 今夜のメニューはインスタントラーメンと決めてるんだけど、やっぱり火の点け方がわからない。考えることが億劫に思えて一食抜くことにした。身体もだるいし、無性に面倒くさいのだ。


 インターホンが鳴ったのでリビングの壁に掛かっている受話器を見た。ルームでなくエントランスのランプが点滅していた。誰かな?と思って応答すると、モニターに映し出されたのは由香利だった。ビックリしてエントランスの自動ドアを遠隔操作で開けてやる。「上がって来たらもう一度玄関横のインターホンを押してね」と伝え、お姫さまが訪れるのを待った。二分ほどで足音が聞こえたので、インターホンを待つことなくドアを開けて出迎えた。


 彼女は布巾で覆った包みの入ったトートバッグをぶら下げている。早速リビングに通すと包みを取り出し広げて見せた。和洋折衷で彩の良いお手製弁当に俺は感激した。


「スゴイね。これ、由香利ちゃんが作ったの?知らぬ間にお料理も出来るようになってたんだ」


「うん、親にパラサイトしてる身だから、家事くらい手伝わなきゃね。バカ兄貴が金曜まで透は独りだって言ってたので、ご飯でも食べさせてあげようと思って」


 何て嬉しいことを言ってくれるんだ。お姫さまを抱きしめたくなってしまうよ。


「ありがとう。これはホントにサプライズだ。付き合ってる時も一度も作ってくれなかったもんね」


「イヤーね。こんな時に恨み言はないでしょ?他人に食べてもらうのは透が初めてなんだよ」


 俺の口元は絶対に緩んでいる。鏡など見なくてもわかるのだ。最近表情筋が動いてなかったので、頬が少し突っ張る感じがする。


「お茶を入れるからちょっと待ってて」


 ニッコリ笑って立ち上がり、急いでキッチンに向かったらフラついてドア越しの敷居でつまずいた。そのまま勢い余って廊下の柱にダイブである。


「キャアア!透ゥ!しっかりしてェ!」


読んで下さりありがとうございます。

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