ザ・疑惑
よろしくお願いします。
翌日、トーストとコーヒーの朝食を済ませ、上川先輩を乗せてボロスカGで勤務先の中央営業所へ向かった。燃費の悪い愛車だが俺は気に入っている。嘘だ。エコカーに買い替える金が無いだけである。
額の角に張られたバンドエイドを見た先輩に笑われた。
「ブワッハッハ、宮川ァ!また亜矢ちゃんとバトルったのか。もちろんお前が玉砕されたんだろうけどな」
「そうなんですよォ!飛ぶヤカンにやられましたァ!あいつはホント手が早いですからね。お陰で生傷絶えませんよ」
「そうか。まあ、許してやれよ。ところでお前、今夜ヒマだろ?亜矢ちゃん京都行きらしいもんな。智美も今夜は東京だから飲みに行こうぜ。俺が奢ってやるからさ」
ラッキーだあッ!独り寂しくインスタントラーメンで済ませようと思ってたから。俺はいつだって周りに支えられてるよ。
「あざあッス!じゃあ、定時上がり出来るように頑張ります。一旦帰宅してから出かけましょう」
「いいよ。俺は宮川とグダグダ飲むの好きだからな。お前のグチって最高のツマミなんだよ。マジ笑えるもん」
「ひでえなあ。でも、俺も先輩と飲むのは好きですよ。何でも本音で言えますからね。亜矢子より言えるかもです」
午前中に同期のアニオタ、杉村勝利から内線が掛かって来た。ちなみにこの親友は俺より一年前に同期女子の絹江さんと結婚して地獄行きの特急に飛び乗ったバカである。結婚と同時に家を出て古い2DKのアパートで暮らしてる共稼ぎ夫婦の片割れだ。
退屈なので遊んでやることにした。
「勝、どうしたの?また絹ちゃんにイジメられたの?」
「そうなんだよォ!透ゥ、俺のグチを聞いてくれェ!今夜飲みに付き合ってェ!」
「いいよ。亜矢子も不在だし、上川先輩とも約束済みなんだ。勝も合流すれば?俺たちはマンションの西側に最近オープンした「アンフィス」って洋風居酒屋に行ってるから」
「わかった。じゃあ帰りに乗っけてってよ。俺はバス通勤なんだし」
「OK!キッチリ定時に上がれるよう仕事頑張れよ。終業後に四階の談話室で待ってるからさ」
こうして終業後、俺は先輩と勝利を乗せてマンションへ帰った。
俺と先輩はカジュアルに着替え、勝利はヨタったスーツのままで「アンフィス」に入った。軽く生ビールのジョッキを掲げ乾杯し、歪んだ笑みを浮かべてからかうように言ってやった。
「上川先輩、勝が何か相談有るらしいんですよォ。どうせくだらない話に決まってますけど一緒に乗ってやりましょう」
勝利は愁いた表情のまま俺と先輩に目配せしやがる。
「透はいいけど、先輩にまですみません。実はここんとこ絹江に浮気を疑われちゃってて。説明しても全然納得してくれないんですよォ!」
この野郎、俺はいいけどたあどういう了見だ?予想通りくっだらねえ内容だしスルーしてやろうか?
「ケッ!どうせ勝お得意の八方美人振りで墓穴を掘ったんだろ?だいたいお前は昔から脇が甘いんだよ。絹ちゃんは営業所が違えども社内の人間なんだから、噂なんて直ぐに伝わっちまうぜ。周りの女子社員は全て敵だと思えよな」
先輩は持ち前の面倒見の良さで物わかりのいい顔を見せる。ホントいい人なんだけどなあ。お味噌さえ不足していなかったら。
「杉村ァ!とにかく説明してみなよォ。確かにイケメンのお前は宮川より嫉妬心を掻き立てるだろうからなァ。絹ちゃんの心配もわからなくはないぞォ」
悪かったなァ!どうせ俺は勝に負けてるよ。ただし、こいつはそれだけじゃないんだ。アニ話とかになると相手が女とか関係無く夢中になってのめり込むからな。どうせそこら辺で誤解されてるんだろうけど、俺に言わせりゃ自業自得なんだよ。少しは周囲の目に気を配れってえの!
「実は新入社員の伊集院静華さんから色々聞かれることが有って。一応教育係を仰せつかってますから。彼女はバイリンガルで意外と日本の若者の日常を知らないらしく、年も近くて同じチームの俺に何かと尋ねて来るんですよォ。そりゃ業務中にライトバンで一緒に外回りもしますから親しくはなりますよ。だからって、俺も一生懸命仕事してるんだし……」
上川先輩はなるほどとうなずき、俺は勝をバカタレだと思った。
伊集院さんは一橋大出の超秀才バイリンガルだ。いいとこのお嬢さんによく見られるちょっと天然系らしいが、スレンダーで垢抜けた美人だということは料金部署の俺でも知っている。
そもそも総合職さんとは頭が釣り合わねえだろッ!会話が弾むことさえ奇跡的なのだから。きっと彼女は勝のノータリン振りが珍しいのだと思われる。
呑気な俺と違って先輩の見方はもっとシビアだった。
「杉村は次回の定期異動で確実に飛ばされるな。単身赴任になるド僻地へ。ウチの会社は噂に敏感だから、懲罰の意味で十年くらい戻って来れないよ。もちろんその間に出世のレールから外されてるし」
勝利の顔が見る見る引きつって唇を震わせていやがる。ホント世間の狭い奴だぜ。
「ゲエェェ!何で親切に後輩の面倒見てたら飛ばされるんですかァ!?百歩譲っても俺だけのせいじゃないのにィ!」
「バカだなァ。総合職さんとは扱いが違うんだよ。どうせ伊集院さんは二年もすれば支店か本店に異動になって、俺たち営業所を管理する立場になるんだから。もちろん彼女が異動しても杉村の禊ぎは終わらないってわけさ」
先輩のありがたきお言葉に乗じて、俺は親愛なるこのバカ友をもっとイジメてやることにした。
「勝って既婚者にもかかわらず女子社員に人気らしいぞ。そりゃこのご時世、割り切って付き合うのも有りらしいからな。やがて思いが抑えられなくなり修羅場を招く事態に陥るんだよ。そしてお前は全てを失い途方に暮れるって筋書きさ」
「ひどいよォ。親友に対してボロクソだもん。そこまで言うんなら今度会う時に付き合ってよ。透は奥さんが超美人な女優さんだし、なびいてるとは誤解されにくいだろうからね」
「はあ?何で俺が巻き込まれるんだよ?だいたい俺、伊集院さんと話したこと無いぞ。彼女だってイヤだろうに」
しかし、上川先輩は勝の申し出を肯定しやがった。どうせ面白くなるかもと思ったんだろうけどね。この先輩はグチャグチャが大好物だからなあ。
「宮川、つれないこと言わずに付き合ってやれよ。お前は杉村の親友だろ?お互いその若さで妻帯者なんだし、最も親身になってやれる立場じゃないか。報告だけはして来いよ。俺が指針を示してやるから」
クッソー!高みの見物決め込みやがって!バカ先輩の指針なんていらねえよ!今まであんたの判断ミスでどれほど苦労させられたかわかってんの?
「先輩、ありがとうございます。じゃあ透、今度伊集院さんとお茶する時に連絡入れるから付き合ってよね。ちゃんと彼女の同意は得ておくからさ」
「じゃあ透」じゃねえだろ!お気軽に言いやがって。
「マジかよ?何で俺がお前ごときのために」
拒否しようとしたら先輩にガシッと肩口を掴まれた。痛いのと同時にスゴイ目で圧力を掛けて来やがる。しょうがないよな。若奥さまが智美さんのお世話になってるんだし。せっかく手にしたオモチャをこのクソガキのような先輩から取り上げるなんて不可能だもん。
「わかりました。付き合います。勝、先輩に感謝しとけよ。まあ、俺がうまく諭してやるから任せとけ!それで丸く収まるさ」
「サンキュ!先輩と透がバックアップしてくれるなんて心強いよ。ああ、気持ちが軽くなったなあ。ここんとこ絹江から冷たくされてたんで、ホント参ってたんだ」
うなだれて薄笑いを見せる親友が切なかった。勝が悪いばかりでもなかろうに。
気持ちをうまく伝えることは本当に難しいものだ。夫婦間の揉め事なんてほとんど些細から始まってるんだろうし。
二日後の水曜日、勝利から内線が掛かって来た。それもすごく明るい声でだ。何?この違和感。
「透、明日の終業後に「カレラ」へ来てくれよ。伊集院さんと待ち合わせたからさ。もちろん透の同席も承諾済みだし。お前と話せるのが楽しみだって言ってたよ」
嬉しそうに言いやがった。ホントにこいつはいつまで経ってもお気楽バカだぜ。少しは俺の迷惑も考えろってえの!
「カレラ」は会社近くの喫茶店だ。もう少し遠くにしとけよと思ったが今更しょうがない。まあ、社内の人に出会っても亜矢子にまでは届かないからいいけどね。
そう思うと勝って無防備だよな。たとえ絹ちゃんが退職してもウチの会社はOG会で繋がりがずっと続くってえのに。こいつは社内結婚のリスクを全く理解してないのが良くわかる。さすが能天気の代表格だ。
そして木曜日の終業後である。俺は逆方向に有る月極め駐車場にスカGを置いたまま徒歩で「カレラ」に着いた。三十人ほどが座れる店内の奥のボックス席から能天気が大きく手招きしやがる。すでに伊集院さんも着席していたが、勝利の隣だったからビックリした。ホントに誤解なの?と思った。
しょうがないので向かいに座ってブレンドコーヒーを注文した。俺にヘルプを求めておきながら、いきなり体たらくの行動に打って出る親友の頭の悪さを呪った。
伊集院さんが微笑みながらゆっくりと挨拶を始める。
「こんにちは。今日は時間を割いて頂きありがとうございます。営業課の伊集院静華と申します。宮川さんは中央営業所の有名人の一人ですから、私の方は良く存じ上げております。どうぞよろしくお願い致します」
わざわざ立ち上がって挨拶する彼女は、ピンとしたネイビーのスーツ姿が清楚にキマっている。隣で鼻の下を伸ばしているバカタレとは大違いでお育ちが良さそうだ。
「有名なのは奥さんの方で、俺は地味で大した奴じゃないですよ。料金課の宮川透です。こちらこそよろしくお願いします。って言うか、何で並んで座ってんの?」
勝が照れくさそうに髪に手をやって言いやがる。
「いやあ、実は今日一緒に飲みに行こうと思ってさあ。透が教えてくれた「アンフィス」ってオシャレで感じ良かったからね。お前も来ない?この前、亜矢子さんは土曜日まで帰って来ないって言ってたじゃん。上川先輩も誘ってさァ。新入社員と親睦を深めようよォ」
「わあ、スゴーイ!中央営業所のスーパートリオが揃い踏みだなんて信じられないィ!私なんかが輪に入っていいのかしら?」
本当に勝利は救いようのないバカだと思った。お前なあ、絹ちゃんに殺されても文句言えないよ。
「スーパートリオって意味わかんないんだけど。だいたい上川先輩の都合まで聞いてないし」
その場で先輩にケイタイしたら即答で「いいぞォ!」と元気良く返された。さすが俺たちのご意見番であられる。まあ、先輩も巻き込んだ方が好都合に違いないけどね。そしてお嬢さまのイリュージョンを粉々にブッ壊すわけだ。だって、スーパートリオじゃなくて唯の三バカだもん。一橋出の超秀才に愛想尽かされるに決まってるよ。
この時気付いた。そうか。勝は俺と先輩を巻き込んで二人切りで会ってたことをウヤムヤにする魂胆なんだな。俺の親友だけあって思い付くことが姑息だ。確かに絹ちゃんも上川先輩にまではクレーム付けられないだろうから。都合のいい守護神ってわけである。
勝が「早く行こうよォ」と言うので、二人をスカGに乗せて取りあえず帰宅した。706号室の間取りがわかってる勝利は、得意そうに応接リビングへ静華さんを案内する。お前、誰の家のつもりだ?と住宅ローンの一部を負担させてやりたくなった。
俺だけカジュアルに着替えてたら、上川先輩が当然のようにズカズカ上がり込んで来やがった。ウンザリした気分のまま四人で「アンフィス」に向かった。
店に入ってボックス席に陣取り、取りあえず生ビールで乾杯だ。向かいの席で浮かれる勝利にムカついたが、隣で先輩までニヤケてるのには参った。
先輩、智美さんに放り出されたら二度と今のリッチな生活が出来なくなるんですよ。もっと自覚して未来を見据えて下さい。
静華さんは物怖じもせず俺に向かって切り出して来た。
「先輩たちってそれぞれが個性的でカッコイイんですけど、私的には宮川先輩が一番タイプかな。アッ、ダメですよね。女優さんの奥さまがいらっしゃるのに」
瞬時にバカタレ共が俺を睨みつけやがる。エヘッ、エヘヘッ、しょうがないじゃん!俺が言い出したんじゃないんだからさァ!勝、良かったね。お前はターゲットじゃないんだってさァ!
先輩は途端にブンむくれて口数が少なくなる。年長なのに子供みたいなのはいつものことだ。勝利はスケベ心の梯子を外されて悔しそうだ。俺はって?もちろんカワイイ後輩の面倒を見させてもらいますよ。人として当然じゃないか。
勢いづいた俺は彼女と会話を弾ませる。
「伊集院さんは実家から通勤してるの?朝のラッシュとか慣れるまで大変だったんじゃない?」
「いえ、会社から歩いて十五分です。ワンルームを借りましたから。独身寮は男の人専用ですから入れませんけど、家賃の補助は出ますしね」
「ふーん、独り暮らしなんだ。まあ、総合職さんはレポートなどで忙しいんだろうけどね」
「ええ、確かに部屋と会社の往復してるだけの時もあります。でも、四六時中じゃないですよ。学卒組で飲み会も有りますけど、せっかく中央営業所配属になったんだから、上川ファミリーとはお近付きになりたかったんですよォ」
うまいこと言うなあ。たった一言で先輩がニヤケだしてるもん。まあ、拗ねてる勝は放っとけばいいけど。でも先輩ファミリーは仮の姿で、本当は智美ボス率いるゴマフファミリーなんだけどね。
「私、先輩たちにお願いがあるんです。それぞれネーム呼びさせてもらっていいですかァ?直也先輩に透先輩、勝利先輩って。親しみ湧いて嬉しいんですけどォ。もちろん私も静華って呼んでもらって構いませんからァ」
「もちろんいいぜェ!直也先輩って呼んでくれよォ!俺たちはとっても親しい間柄になったんだからね。お前らも異存ないだろうな?」
さすが先輩はお調子者だ。むろん俺と勝利に逆らうことなど許されない。取りあえず勝と目を合わせてうなずいた。
飲み始めて三十分が経った頃、上川先輩のケイタイが鳴った。席を外して戻って来るなり焦ったような顔で舌打ちした。
「チェッ、急きょ智美が東京から帰って来るらしい。駅まで迎えに行かなくちゃ。悪いな。あとはお前らで楽しんでくれよ」
「先輩、飲んでるのに車はマズイですよ。パクられたら懲戒処分ですって」
「心配するな。タクシーで行くから。ブラックカードでお支払いだよ。それと今までの分な。これで足りるだろ?」
先輩はヴィトンの長財布から諭吉君を二名出して俺に手渡し、そそくさと店を出て行かれた。あざあッス!充分足りるので残りは次回のために取っておこうっと。
それから一時間くらい三人で歓談を続け、勝のバカがさりげなく良い先輩の振りをしやがる。
「静華ちゃんは独りで暮らしてて寂しい時って無いの?俺たちで良かったらいつでも言ってよね。三人の誰かがお相手させてもらうからさ」
「嬉しいィ!勝利先輩って本当にやさしいから好きですゥ。いつも頼りにしてますから見放さないで下さいねッ!」
勝、口元が緩み過ぎてよだれが垂れそうになってるぞ。注意してやろうと思った矢先だった。
「ほらね。やっぱりこいつらはこんなもんだよ」
おお、背後から懐かしいトーンが響き渡るゥ!この声は……俺の元カノで勝利の妹、由香利お姫さまだあッ!何でなの?と振り向いたのを後悔した。勝はきっと死にたくなっただろう。
ギャアアア!由香利が呆れた顔で笑みを浮かべ、背後に絹ちゃんが鬼の形相で仁王立ちしておられた。彼女たちとは智美社長の下、以前ネットCM撮影までやったゴマフファミリーのお仲間である。
静華さんはスッと立ち上がって二人に挨拶する。さすが一橋、機転が利く女だ。
「今年の新入社員で中央営業所営業課配属の伊集院静華と申します。杉村絹江先輩ですね。お噂はかねがね伺っております。よろしくお願い致します」
全くパニクらず、四十五度のお辞儀をビシッと決める。俺と勝利は絹ちゃんに氷点下の眼差しで一瞥された。
「ええ、私も噂だけは聞いてるわ。ウチのバカ亭主とコンビを組んでるって。どうぞよろしくね。しかし、本当に透君まで同席してるとは呆れたわね。あんたたちってとんだクズダチよッ!」
クズダチって言い方ひどくないかしら?ん、モウッ、絹ちゃんったら歯に衣を着せないんだからァ。言っとくけどクズはあなたのご亭主よォ。俺は巻き込まれた被害者なんだから許してくれェ!
さすがにお店を修羅場にするわけに行かないと思ったのか、由香利がお義姉さんをなだめるよう肩に手を掛けた。帰宅したら義姉妹の最凶タッグに勝は殺されるんだろうな。
絹ちゃんは怒り沸騰で口をワナワナ振るわせ発電状態みたいだ。太陽光に勝てるかも知れないクリーンエネルギーだぜ。代わって由香利が静華さんに帰宅を促そうとする。
「伊集院さん、申し訳ないけど今夜はここまでってことでお引き取り願えるかしら?私たちは場を変えて少し話がありますんで。中途半端になっちゃってゴメンなさいね」
「いえ、とんでもありません。じゃあ、私はここからタクシーで帰ります。どうもごちそうさまでした」
支払いを済ませ静華さんが客待ちのタクシーに乗り込むのを四人で見送った。
読んで下さりありがとうございます。