ザ・マリッジライフ
よろしくお願いします。
「透、私のこと愛してる?」
「えっ?何を今更言いだすの?もちろん愛してるけど」
「じゃあ、今直ぐ態度で示してよ」
俺は顔を近づけ彼女に深く口づけた。
「私だけよ。あなたに応えられるのは」
若奥さまは少し誇らしげに返して来やがる。
いつもの儀式だ。女ってホント面倒くせえよなあ。
俺の名前は宮川透。電力会社勤務の二十四才だ。この若さで高級マンション暮らしの妻帯者である。と言っても、決していいとこのボンボンではない。恐怖の三十年住宅ローンを抱え、新居である706号室のお支払いはまだ二十九年も残っている。
一つ年上である妻の亜矢子の職業は女優さんだ。本名は宮川亜矢子だが芸名が八反綾なのは旧姓が八田なのに起因している。今思えばかなり安易なネーミングだ。このことのみが普通のリーマンから大きく乖離している。そしてたった一つの相違点は勝手に数々の憶測を呼ぶらしい。
サインを頼まれるくらいなら構わないけど、何かにつけて羨ましがられたり妬まれたりするのだ。女優だって人間だから同じ物を食べるし洗濯もする。カロリーはキチンと計算してるけどね。プロだから。
俺は主夫をやらされてるわけでもないし、トイレ掃除だってちゃんとしてくれる。家政婦さんをお願いする余裕も無いしさ。そりゃあ俺だってお手伝いくらいしますよ。共稼ぎなんだし当然じゃん。あまり使えない奴ってだけだよ。
でも、周りの人たちは全てが違うと思いたいみたいで、日常生活を興味津々に聞いてくる。その度にみなさんと同じですよと答えるんだけど、納得しようとしないからイラつくし面倒である。家族や恋人への土産話を聞きたいのはわかるけどね。確かに芸能界は虚構の商売なんだろう。でも、そんなこと関係無いね。俺はやっぱり俺でありたいし、若奥さまだってそれがいいんだと言ってくれてるから。
話を終わらせたい時は、ご期待に添うよう大きな違いを挙げることにしている。ロケとかスケジュールの都合で不在が続くことがあって寂しいよと羨ましそうに返してやるのだ。大抵は自尊心をくすぐられて終結を見る。もちろんこれは嘘ではない。
でも、自分たちには特別に恵まれた環境があった。隣の705号室が俺たちの三ヶ月後に挙式を挙げられた会社の先輩である上川直也絶対君主さまと、亜矢子の所属する「オフィス・カムレイド」の女ボスであられる智美さんご夫妻の住居だからだ。
ここで少し説明しておこう。上川先輩は俺より二期早い入社の二十六才、智美さんは更に二つ年上の二十八才であられる。智美さんは東証一部上場企業の「桜田ホールディングス」役員のお嬢さまで、ゲーム主体の会社「ザ・クライシス」を経営されているゴマフアザラシそっくりなスーパーセレブリティである。ちなみに亜矢子が所属する「オフィス・カムレイド」は「ザ・クライシス」の芸能部門であり、彼女は歩合制の給料を得る特別社員の立場だ。
そんな遠い世界のセレブが会社野球部の元エース、ノータリンの先輩を選ぶのだから世の中狂っている。智美さんは「ザ・クライシス」を起業された方なのでフロンティア精神に溢れてるのかも知れない。明晰な頭脳を駆使して上り詰めて行くサクセスロードの唯一の汚点が先輩だ。だって、上川先輩はすさまじいバカだもん。頭が足りない分心はやさしい人だけどね。
バカが何故バカだと発覚してしまうかと言うと、ポジティブに動くからだ。沈黙は金なりとはよく言ったものだが性分だから止められないんだよ。人のためを思って動き、当然のように迷惑を掛ける。しかし、悪びれないし落ち込まない。ある意味最強なんだよな、バカってやつは。
もちろん先輩は俺のことをすごくかわいがってくれる。酒の相手を務めさせたければ時間に関係無く呼出しやがるし、ツマミの調達ならまだしも日用雑貨の買い出しさえさせられる。でも、俺は文句も言わずに受け入れる。先輩も奥さまが社長業なのでビジネス優先で寂しい思いをさせられる同士だからだ。その時に先輩後輩の間柄でお隣さんというのが大きな意味を持つ。
家飲みに飽きたら二人で居酒屋に出掛けグチグチ言い合ったり、勢い余ってキャバレーに足を延ばすこともある。お支払いはもちろん割り勘ではない。先輩の、正確に言うと智美さん名義のアメックスブラックカードで済ませるのだ。安い店だけ俺が支払うことも有るけどね。それも稀にだけど。
とにかくお隣さん共々楽しく過ごせているつもりだった。あの時までは……。
それはとある初春の週末、夫婦で705号室にお邪魔しての晩餐の席で智美さんから言い出された。
「亜矢子、今食べてるこのおいしいカレー、お店で出したいんだけどダメかな?」
「えっ?どういうことですか?社長、また何かヒラメきましたね」
「そうなの。実はこのカレールーを工場生産出来るようにしてチェーン店を出したいと思ってるわ。「コレカレー」と言う会社を立ち上げ、これをメインに据えてシンプルなメニューで出店したいのよ。まあ、サイドメニューやトッピングはそれなりに用意するけどね」
この天才セレブは「ザ・クライシス」の事業拡大に余念がない。マルチ展開で収益を安定させようとする意図が読み取れる。決して桜田グループ傘下ではない独立カンパニーだけど、金融関係者はそう見ないので資金調達はわりかし容易みたいだ。
信用とはまず最初にネームバリューが来る。それからやっと事業計画等の審査が始まるのだから、多くの中小企業の社長が羨む生い立ちである。もちろんマネージメント能力も抜群だ。そもそも従業員百五十人規模でメインバンクが日本一の都銀である峰菱東京銀行なのだから。桜田グループのご威光無しには出来ない技である。
面白いことに上川先輩は事業の話には全く無頓着だ。この手の話が出ると途端に退屈そうな顔を見せる。まあ、俺にとってもポカンと聞いてるしかない話ではあるが。
「将来的には「クライシス・ホールディングス」を立ち上げて統括運営会社にするの。「ザ・クライシス」は今まで通りゲーム会社、芸能部門を会社組織にして「オフィス・カムレイド」、カレーチェーンは「コレカレー」と分社化するのね。それぞれを独立採算で運営させるの。うまく軌道に乗ったら「クライシス・ホールディングス」の東証マザーズ上場も視野に入れてるわ。亜矢子、出資してみない?「オフィス・カムレイド」と「コレカレー」はあなたが要になるんだし、初期投資して経営参画すればモチベーションも上がると思うの」
いつもながらゴマフセレブはスゲエ話を平然となされる。まあ、智美さんに信頼されてる自負はあるし、この人が俺たちのことを真剣に考えてくれているのはわかってる。
若奥さまが俺をチラ見してからお伺いを立てやがる。
「社長、とてもありがたいお申し出だと思うんですけど、出資金はどれくらい必要なんですか?」
何?その前向き発言。俺、金無いぞォ!お前がいくら持ってるかは知らないけどさ。
何故なら706号室の住宅ローンは俺の名義で借入してるから、完済するまでお支払いは給料口座から引き落とされる。そもそも通帳とキャッシュカードを亜矢子に握られてるので残高さえわからない。いつも火の車なのは確かだろうし、俺は月三万円のお小遣いで昼メシ、ガソリン代、飲み会のお金を捻出している千円亭主なのだ。お陰で絶えずピ-ピー言ってる。毎日苦しいよォ!飲み会も絶対一次会で帰るから付き合い悪いって言われてるもん。
でもさあ、しょうがないんだよ。若奥さまは歩合制の特別社員だし、女優なんて干されたら一巻の終わりの因果な商売だもん。もちろん彼女も節約してるよ。ただ、どうしても服装などは自前の部分が有るし、身に付ける装飾品も必要なんだ。ウニクロに何とかショックの時計なんてしてたら即行値踏みされてしまうしファンも興醒めだよ。夢を売る仕事だから八反綾というブランドイメージが大切なんだよね。
だから、最初から亜矢子のお金は当てにしないで暮らそうと決めたわけ。彼女の収入は余禄なんてカッコイイものじゃなく、ささやかな保険なんだよ。
「そうね。私は亜矢子を盟友と思ってるから、両社の株式を五パーセントずつ保有して欲しいな。「オフィス・カムレイド」は二百万、「コレカレー」は三百万ってとこかな。私は個人でそれぞれ五十一パーセント、残りの四十四パーセントは「ザ・クライシス」から出資させて法人としての持ち株にするつもりよ」
ゲエッ!合わせて五百万ってかァ!そんな金あったら住宅ローンに回したいぞォ!やっぱりセレブとしがないリーマンじゃ根本的に感覚違うんだよなあ。言ってることが二桁違うもん。
「わかりました。主人と検討してお返事します。社長、猶予はどれくらい頂けるんでしょうか?」
こんな時だけ主人って持ち上げるなよ!時々下僕扱いするくせに。だいたい断ったら俺が悪者じゃん。って言うか、有るの?そんな大金ッ!?
「そうねえ、一ヶ月でどうかしら?決して無理に言ってるんじゃないわよ。紙クズになるリスクだって有るんだから。大切なお金の話だもの。納得出来るまでとことん二人で話し合ってね。もしダメなら直也の持ち株にするから」
とことん話し合えってさあ、頭が痛くなって来たよ。これは間違いなく若奥さまと戦争になるぞォ!全幅の信頼を寄せてる智美さんに亜矢子は全力で応えようとするに決まってる。
ああ、結婚って全然バラ色じゃないじゃん!子供がいない状態でこんなに生活苦しいんだもん。米とちょっとした野菜だって兼業農家の実家で分けてもらってるのに……。
その話が出てから俺は味覚を失ったみたいだ。自宅へ戻ったら即バトル開始だろうなあ。若奥さまはいつだって待ってくれないもん。亜矢子は明日の午後から芸能部のマネージャーさんと一緒に二時間ドラマのロケで京都入りし、土曜日にしか帰って来ないんだから。
もちろんマネージャーさんは女の人だ。智美さんが俺を気遣ってくれてるから。
晩餐を終え706号室へ戻った。若奥さまはシャブリのワインを頂いたので少し酔っているみたいだ。最悪のシチュエーションが恐ろしい。リビングのソファに座るなり甘えて来やがる。
「ねえ透ゥ、社長の言う通り五百万円出資するわよ。いいでしょォ?」
ほらね。こう来ると思ったよ。うん、ここは勇気を持ってキッパリと拒絶しなければ。コエエけど。
「あのさあ、俺たちには果てしない住宅ローンが有るんだよ。プライオリティで考えれば当然そっちが先になるでしょ?だいたいお前、そんなにお金持ってるの?」
「有るわよ。ギリギリだけどね。私のお給料は手を付けて来なかったもの。透、これは社長がくれた千載一遇のチャンスなのよ!賭けてみる価値があると思うけど」
「いや、俺は反対だ!とにかく住宅ローンの返済が先だよ。絶対譲らねえからな!」
ハハハ、バシッと言ってやったぜェ!俺だってやるときはやるぜェ!
痛ってえ!顔面にクッションが飛んで来て、亜矢子があからさまにブンむくれていやがる。だからイヤだったんだよォ!
「そんなネガティブな思考してたら一生社畜のまんまだよ。あなたって夢が持てない人なの?」
クッソー!社畜で悪かったなァ!そりゃ俺だってブレイクしたいよ。今のままじゃ将来見え過ぎてるもん。
よしッ!少しやんわり説得してみよう。
「だってさあ、こんなとこでムチャしたら子供も育てられないじゃん。俺たちの暮らしを今一度考えてみようよ」
「言っとくけど、子供を作るのは私が三十になってからだからね。それまでは仕事を優先してポジションを確立させなくちゃいけないから。デビューが遅かった分知名度を上げるには時間が必要なの」
ほらこれだ。こいつは絶対に折れないんだよなァ。気が強くなけりゃ女優なんてやってられないんだろうけど、俺はたまったもんじゃないぜ。
気弱な俺は痴話ゲンカに嫌気が差してきた。
「もういいよ。勝手にしな!亜矢子が自分の金で買い物するってだけで、俺には関係無いもんな」
「そうね。透の言う通りよ。わかってくれて嬉しいわッ!」
仏頂面でキッチンに消えたと思ったら、再びドアが開いて鍋が飛んで来た。腕で叩き落したら既にヤカンが投げられていた。どうやら鍋はオトリだったみたいだ。
ガコーンと頭に命中してヤカンがカランカランとフロアに落ちた。マジかよッ!ムチャクチャやりやがるぜ!すごく痛ってえし流血したらどうするんだよ!?
俺はヤカンと鍋を拾ってテーブルに置いた。
「バカ女!一回死んどけッ!もうお前なんて知らねえよ!」
ウワーン!若奥さまが泣き始めた。やっぱりこうなっちゃうんだよな。いつも俺たちのケンカは涙を伴うまで行ってしまう。ホントに泣きたいのは俺の方なんだけど……。
「わかった。投資しよう。生活は苦しいけど、子供さえ作らなければ何とかやって行けるだろう。だからもう泣き止みなよ。腫れた瞼でロケに挑めないだろ?プロなんだから」
「透ゥ!ありがとう!世界で一番愛してるからね」
亜矢子は涙を拭い、俺の頭を掴んで口づけして来た。チェッ!結局いつもこうなっちゃうんだよな。まあいいか。社畜から解放されるのを期待せずに待っていようっと。
「ねえあなた、今夜シようか?愛する人と一週間近く会えないんだし」
お前が愛してるのは金か名声か?急に甘ったるい声であなたなんて呼びやがって、本当に現金な女だぜ。でも、せっかくのお申し出を断るのは失礼なことだ。快くお受けすることにした。
読んで下さりありがとうございます。