第四十九話 唇と唇
ここはどこであろう。
重たい意識の中、ゆっくりと目を開ける。
確か私は湖の底に向かっていたはずだ…
(…生きている)
自分の肺が空気を取り込んで、心臓が脈打っているのが感じられる。
暗闇で全く周りが見えないが、身にまとう水の感触から水中であることが分かる。
しかし私は水の中でどうやって呼吸しているのだろうか?
空気を取り込む先に意識を集中させてみる。
(…誰かの口)
自分の唇は、他の誰かの唇と繋がっていた。
人工呼吸よりも熱い口づけ。
(…アヤトくん)
なぜか暗闇の中、1人の男の子の名前が思い浮かぶ。
明かりすら届かないこの深い水中。
そんな中に一人飛び込んでくるのは彼くらいであろう。
日々の鍛錬では両親にボコボコにされている光景しか目にしていない。
だが彼には未知の強さを感じていた。
その彼が自分の命を危険にしてまで助けてくれている。
唇から伝わるその熱はだんだんと強さを失っていく。
(…まずい)
自分が息をすることで相手の息をも奪ってしまっている水中。
ルナが意識を戻す為に相当の空気を消費させてしまったであろう。
肺の中の最後の空気がルナの肺に移ってくる。
アヤトの中の空気が無くなったのを確認してか、ゆっくりと力を失う唇。
頭の後ろに回されていた手が緩む。
(だめ…)
自分の手を相手の後頭部に回し、離れそうになる唇を引き戻す。
(勝手に私の唇を奪っておいて、許さないんだから!)
はっきりする意識の中、少しだけ空気を戻し考える。
アヤトの身体ごと空気の昇る方向へ足掻いてみるが進む気配は無い。
だからといって自分だけアヤトのそばを離れて助かる気なんて到底無い。
(…考えろ)
自分の出来る最適なことを必死に頭を回転させて考える。
少ない酸素を無駄に消費させない為、足掻くのを止めて脳に酸素を送る。
(…リリー、リリー聞こえる?)
繋がる唇を離さないまま、脳に問いかける。
(姉さん!姉さん!無事なの?)
その問いかけに瞬時に返事が返ってくる。
水中では到底届かない声だが、この獣人族の双子はある加護を授かっていた。
『精神感応の加護』のテレパシーを使い、この場に居ない妹のリリーに話しかけたのだ。
薄れいく意識の中で先に助け出されていたはずのリリー。
その期待に応えてくれた妹。
(お姉ちゃん無事なの?今どこに居るの?)
姉の心配をする妹が捲し立てるように質問をする。
(…よく聞いて、一度しか言わないから)
(うん!)
姉の真剣な様子から気を引き締めるリリー。
(たぶん今は湖の底に居ると思う…アヤトも一緒)
(よかった…アヤトくんも一緒なんだ)
2人が一緒なことに安堵するが、緊張を緩めない。
(だけどアヤトの足が石柱に挟まって動けない…今は意識も無いみたい)
(っえ!)
予想外の悪い展開に思わず声が出てしまう。
(私も今テレパシーを使うのが精一杯…)
自分がこの場を離れてしまっては、命を助けてくれたアヤトがこの暗闇の湖の中1人になってしまう。
息の続かないこの状況で唇を離してしまえばたちまち溺死であろう。
ルナの吐く息をアヤトへと戻すことでかろうじて命をつなぎ止めている状況。
こんな状況は長く続くはずも無い。
(そういうことだから…この状況をみんなに伝えてちょうだい)
現在の置かれている状況と用件を伝えると、一旦テレパシーを切る。
無駄な酸素を消費させない為である。
地上ではリリーがジェルマンに事の次第を正確に伝えている。
ジェルマンはすぐさま水中に潜り込もうとするサーラを引き止めて作戦を練っていく。
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