真夜中の秘密
「なーんか、流されてるなぁ」
由佳里が、どこか拗ねた子供のような口の形で言った。
二十三時を回り……いや、全体的に遅寝になってきている現代日本じゃ、この時間でも人の行き来はあるし、コンビニなんかもやっているけど、人通りは随分と減っている。と、思う。
単に暗くて、ホテルの窓からは見下ろせないだけかもしれないけど。
おおよそ、言いたいことは分かった……つもりなので、俺はすっとぼけて見せる。
「なにが?」
うっすらと頬を膨らませて由佳里が答えた。
「多分、二十九歳って年齢に」
「んん?」
思っていたのとちょっと違う返事に、俺は首を傾げることしか出来なかった。続く台詞を待つ俺に返って来たのは、ちょっと怒ったような顔だけだった。
お互いに二十九歳。
確かに、なんとなくのイメージだけど、今年が終われば三十となってしまうという焦りと、最後にちょっと無茶しておきたいっていうか、変なテンションにはなるかな、って思う。
尤も、成人式と同じで、三十になったらなったで、特に気にしないで、特に大きな変化も無い日々を送るんだろうけどさ。
俺のワイシャツの胸ポケットの煙草を一本くすねて、由香里は銜えて見せた。
「あれ? お前、吸うんだっけ?」
「ん~ん。あ! 火は点けないでよ! 火をつけた煙草の匂いは嫌いなんだから」
胸ポケットからライターを出す俺に、どこか逆ギレ風に由佳里が言い返し――、一拍後、ん? と、首を傾げて見せた。
「ってか、アンタ、吸うんだ?」
「吸えなくない」
「なにそれ?」
ちょっとバカにしているようにも見える、由香里の半笑い――コイツは、昔からそうだ。誤解を受けたことも多いのに、いつまでのこの笑い方の癖が抜けない――が、なんとなく俺の言葉を強張らせた。
「依存するほど吸うつもりは無い。たまに、気分転換程度。だから、煙の匂い俺に染み付いてなんだよ。特に今日は、二十歳の時以来の同窓会だったからな」
「同窓会だから?」
由香里は細い目を更に細めて訊いてきた。
「昨今の風潮で、煙、嫌いなヤツも多いだろ」
そこまで言って、ようやく納得がいったのか、ああ、と、由香里は手を叩いて、閃いた! 見たいな顔をした。
「気を使えるようになったんだね~」
ピッと煙草を中指と人差し指で挟み、掌後とくるりと裏返して俺に向かって差し出す由香里。俺は、躊躇無く加えた。火は、つけていいのかどうか分からないので、ライターは俺と由香里の間にある、あのホテル特有のちゃっちいテーブルの上に乗せてある。
ほんの少しだけ由香里は驚いた顔をしたけど、お互いに、酸いも甘いもそれなりには噛み分けてきた。この程度なんでもないとでも言うように、由香里はライターを手にとって火をつけた。
顔を近付け、火を煙草に吸い点ける。
肺までは吸い込まずに煙を天井に向かってはきつければ、なんとなく、不思議なものだよな、と、しみじみと思った。
由香里とは、ずっと幼馴染だった。
家は遠かったんだけど、幼稚園から中学までずっと同じ学校の同じクラスだったから、凄く独特の距離に居たと思う。食べ物の好き嫌いとかも把握していたし、なにより、小学校から中学校へ上がる際や、そしてまた中学から高校に変わる際の、服装とかそういうセンスの変遷を、かなり近くで把握してきた。
由香里は、俺の小学校時代を、サッカーしてばっかりで登下校の服装が学校指定じゃないジャージだったとからかうし。逆に俺も、由香里が小学校時代にお気に入りだったツナギ……じゃなくて、吊りズボン? 正式な名称、よくわからないが、ともかく、そんなみょうちくりんな格好をからかい返している。
そんなのが、大学を出るまで続いて――、社会人になってお互いに地元を離れて別々の県に行くのと同時に、ぷっつりと音信が途絶えてしまっていた。職種の違いの影響も大きかったように思う。教師になった由香里と違い、俺は種苗会社の研究員だったし。
青春時代。
もう一歩だけ、なにかあれば、恋に落ちた……気がする。
出会いが無くて、お互いにフリーで迎える二十九歳。だからなのかな?
同窓会後に、会場になったホテルに泊まる際、なんとなく同じ部屋――俺の方の部屋、由香里は部屋代ケチってシングルだったが、俺はセミダブルだったので――で、だらだらしてるのは。
短くなった煙草を、灰皿に押し付けて消す。
狐っぽい顔した由香里が、俺の顔を下から覗きこんでいた。
少し迷った後、変に間を開けると余計に言い難くなる気がして、俺は一息に言った。
「折角だし、今日、ここに泊まっていけば?」
「うん、いいよ」
こっちの気が抜けるくらいあっさりと由香里は答えた。いや……。意味、分かってるのか、多少不安になるほどの即答だな。
んー。由香里、こういうときに変なボケをするキャラじゃないんだけど。それは、分かっているんだけど……。
もうひとつ、これは明日の朝にでも言おうかと思っていたんだけど、今のうちに言っておいた方がお互いに安心かもしれないと思い、ついで……というほどの気安さじゃないんだけど、重くなり過ぎないように俺は言った。
「なあ?」
「ん? なぁに?」
「俺達、付き合わないか?」
「…………」
由香里は、今度はすぐに返事を返さなかった。だけど、喜んで驚いているって幹事じゃないし、断るって雰囲気でもなく、なんとなく、少し、こまったな、とでも言うかのように曖昧な笑みを浮かべていた。
どうした? とか、イヤならいいさ、とか言いたいけど、こういう時に急かすのも割る息がして俺も様子を見ていると……。
「……そういうのとは、違う気がする」
一瞬だけ真顔で言い淀んでから、でも、はっきりと由香里は告げた。
「うん?」
意味が分からずに、反射的にそう聞き返してしまい――、締まったと思って慌てて口を閉じるが、由香里には、苦笑いを返されてしまう。
「なんだかんだで、いつの間にか、お互いに全然違う場所に行っちゃったからね。会おうと思っても、新幹線が必要な距離って、私は嫌なんだよね。付き合うとしたら。でも……。んー、上手くいえないけど、始まったかもしれない恋心の供養って言うか……」
分かるような分からないような。
まあ、始まったかもしれない恋心って部分だけは共感できるんだけど、それなら、いつかの為にとっておいてもいいんじゃないだろうか?
そんなことを考えていると、長い付き合いだったからか、俺の心を読んでいるかのように由香里は付け加えてきた。
「いつか――。なんて思っているうちに、学生時代に付き合わずじまいだったしね。先の事は分からないけど、少なくとも今は、明日になって全然別の場所へ持っていけるぐらいに強い恋心じゃないんだ」
今度は、俺の方が、ん――、と、微妙な顔をする番になってしまった。
「なによ? 不満があるってーの?」
「逆だ。俺に責任が伴わなくて申し訳ない気がする」
「恋愛関係は、例え一日限りでもイーブンの気はするけど。じゃあ、条件は二つ。ホテルを出るまでは、最大限に優しくすることと――」
由香里はちょっとだけメンドクサイとでも言いたそうな顔をしたけど、少しだけ考える仕草をしたあと、ニッコリと可愛らしく笑って第一の条件を告げ――。
「次に会う時まで、恋人を作らずにキープされておくこと」
笑みをどこか悪魔的に変えて、第二の条件を突きつけていた。
しかし、OK、と、俺はすぐに頷く。
そもそも、俺の職場は出会いが無い。第二の条件が苦痛になるのは、イメージだけで申し訳ないが、営業とかそういう、人に会うことが多い職業の人間だけだろう。
少しだけ驚いた顔をした由香里だったけど、すぐにからかうような笑みで付け加えてきた。
「まあ、後者はあてにしてないよ。そういうもんだもん。恋心って。お互いに」
自分の腰に手を当て、口が減らない、よ、溜息を軽く鼻から逃がす。
ははは、と、由香里は楽しそうに笑って――。
「幼馴染だもん。ドキドキする秘密のひとつぐらいは、共有したいでしょ?」
なんて台詞と共に、軽く頬にキスをしてきた。
顔を離した由香里と、鼻がぶつかる距離で見詰め合う。
BGM代わりに低い音量で流していたテレビの雰囲気が変わった。短く、ピッピと鳴った後、ポーン、と、なにかの始まりの合図のような音がした。
午前零時を過ぎた。
俺は、真夜中の秘密にそっと優しく手を伸ばした。