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百遍百万遍

これからの生き方- 失われたときを求めて

作者: 天本有泉

恵まれた環境に生まれ育ったはずの主人公の「私」だが、なぜか、心に闇があって、鬱鬱とした毎日を送っている。


人生に行き詰まりと生きにくさを感じている。だが、それがなぜだかわからない。


借金があるわけでもない。失業中でもない。でも、死にたい衝動にかられ、生きているのが退屈でかつ、つらくて仕方がない。


なにか、ヒントがあるだろうと、太宰治の故郷である、青森県の五所川原、金木駅へと寒い、冬1月に北へ北へと列車で向かう。


列車のなかでのつぶやきにこれから、死なずに生きていけるヒントがあるだろうか?

自問自答しながら、答えを模索する。


●今後どうするか?


まずは、自分の考え方を整理することだ。

自分がやりたいと感じたのは本当か?

自分のことばを大事にする。そこに真実がある。

自分の得意とするところで勝負する。苦手なところでは勝負しない。


じゃあ、得意なところはなにか。

発想と着眼だ。

大局観、未来を予想すること。

智慧を出すこと。


苦手なところは、制度的に矛盾しているものや破綻しているものをその本質を解決せずに、うまいこといってごまかすこと。

不本意な、矛盾した、誤った制度を、言葉巧みにさもいい制度のごとく説明するのもがまんならない。


たとえば、原子発電所について、電力会社に就職させらていたら、原子力ムラの仕事をやらされただろうと思うとぞっとする。

「僕は、今年、電力会社に就職した、麻垣康三です。今年、(親のコネを使って)電力会社に就職をしました。

大学は、(一流大学ですが、)遊ぶ大学生は多いのですが、僕は真面目な性格ですので、一生懸命に勉強しました。

(だから、原子力発電所はいつ事故が起きてもおかしくないくらい危ないものであることが、わかったのですが、僕は、会社の命令により、安全なものですとあなた方を説得しないといけません。

嘘をつくのは、嫌なのですが、電力会社の給与は魅力的で、捨てがたいものがあります。

また、いま、電力会社をやめてしまうと、日本の社会では、一流というところをやめると、どこへも行くところがなくなってしまいます。それは困りますし、私の両親は、虚栄心の塊で、俗物ですので、ドロップアウトした息子を許さないでしょう。そうすると、私は家も追い出され、ホームレス状態になってしまいます。どうか、私の嘘にだまされてください。)

大学では、原子力発電所は、最新の科学の粋を集めた、日本が誇るべき最高の技術であることを理解しました。日本は資源のない国です。石油資源は、もうすぐ枯渇します。そのときに、原子力こそが、未来のエネルギーなのです。地域のみなさんに支えられてこその電力会社です。電力の安定供給のためには、原子力発電所が不可欠なのです。」


私は、電力会社の役員面接をすっぽかした。半分親のコネもあったので、親に叱られ、あきれら、まあ、そういう親も、役員面接の日に海外旅行をして遊んでいたわけだから、それ以上にいえなかったようだし、もっと強力なコネなら、役員面接をサボったって、なんとかできるんだろうが、それ以上ではなかったわけだし。


まあ、そういうわけで原発嘘つきにはならずに済んだ。そしたら、福島の事故が起きたわけで、やっぱりと思ったということだ。人間は必ず間違いを起こす。間違いの確率が5%以内であれば、ほんとうは非常にすぐれていることになる。その5%を限りなくゼロにしていくのが、日本の技術ということになるんだろうが、しかし、原子力発電所では、1つの事故が致命的になるわけだ。何回も、何年、何万年も繰り返すわけだから、間違いが起きないことなんてありえないのだ。


ゆずれないところはどこかだ。火あぶりにされてもゆずれないところはどこかだ。

ゆずれないことは、間違った政治が行われることだ。

選挙というポヒ゜ュリズムで選ばれた人間がなにをやってもいいわけではない。ヒトラーがいい例だ。やってもいいことといけないことがある。

学芸会みたいな政治にどこまで関わるのか?

自分はあんまりかかわりたくはないけれど、かかわらずに、間違った政治がどんどん行われていくのも恐ろしい。


最近、つまらなく感じているなあ。

生きていることが面倒くさいと思う。

死ぬことも面倒なので、昨日の続きとして生きているという感覚だな。

飢え死にするほど根性がない。

ドロップアウトするほどの根性もなく、とりあえずどうしても嫌でないなら、昨日と同じことをしている。


親たちの世代は、出世して偉くなることが至上価値だったようだけど、「私」は、出世にはあんまり縁がなさそうで、あんまり基本的には好きではない。

リーダーシップ?できれば避けて通りたい。

自分はhermit(隠者、徒然草の吉田兼好や方丈記の鴨長明をイメージしてくれ)みたいな人間で、人前でどうこうするというのはあんまり好きじゃない。

本質的に望んでいないのだが、それを希望しているふりをしないとこの世界ではやりにくのかもしれない。


hermitなのは、自分の心の闇のせいなんだろうか?

自分はどこか自分の心に闇を抱えている。何不自由ない身の上のはず。電力会社ではない職業も得て、年収もあり、妻子もいる。借金もない。体は老化しつつあり、少々の不具合もみうけられるようになったが、決定的にだめということはない。がんでもないし、腎不全でもない。ただ、うつ病的傾向はある。これはずっとかもしれない。いまはじまったことではないのだろうけど。少々の不具合として、首、肩、腰などあちこちが痛くてどうもいけない。


これを心の闇と表現している。

心の闇については、先日、悟りを得た。

物質的には何不自由なくくらしていても、この周りの人間たちと本質的にわかりあえないというつらさだ。

立派な聖人君主たちは、この世から悟りを開いて輪廻転生の輪から解脱していくわけだ。

残ったのは、小人たち、俗物たちとなるわけだ。小ざかしく右顧左眄しながら、他人を妬み羨み、足をひっぱろう、自分よりよい暮らしをしているものたちを貶めてやろう、自分よりも弱いものはいじめてやろう、そんな感情で動いているわけだ。

そんなものたちと長いこと暮らしてくると、やっぱり自分が自分らしく正直に心の赴くままに生きていこうとすると息苦しくて生き苦しく仕方がないわけだ。


原発問題のときに、電力会社への就職はなんとか免れたわけだけど、多かれ少なかれ似たような状況には追い込まれるわけだ。逃げたくても逃げ出せない。嘘をつきたくなくて、沈黙するとか。嘘にならない程度に、ごまかして書類をつくるとか。

自分を偽り、こういった者たちの顔色を伺い、迫害されないように生きていかないといけないわけだ。

大変に心苦しいわけだ。

そして、この状況が嫌で、自分の正義を貫こうとすると、今度は、バッシングをされるわけだ。

たとえば、いじめっ子がいじめを行っていて、それを注意すると、注意したほうが、今度は、いじめのターゲットにされる。これが現状だ。

だから、自分としては生きていくことがいやだという感情にいたるわけだ。

しかし、自分もそんな人々に養ってもらっている身の上といえばそのとおりで、米ひとつ作れやしないし、光合成をして、栄養分を作ることもできない。

だから、いろいろと生活不安だのに怯えながら縮こまりながらいきているわけだ。


これについては、最近になって、悟れてきた気がする。

生きているのは、生かされているのだ。

自殺せずに生きててやっているんだといえばそのとおりでもあるのだが、なんだか傲慢なものいいだよな。

用がなければ、天が殺してくれるわけだ。

私などは、明日死ぬも、10年後に死ぬもそうたいした話ではないと感じ始めている。


自分は、遠い記憶の中で、人類をなんとかせよといわれて天から派遣されてきたようにかんじることがあるのだ。なんだか、弥勒菩薩の化身のような思いになることがある。

でも、そんなにすごい能力もなく、漠然と不安を抱えながら鬱々と暮らすだけだ。

それなら、自分も過去の聖人君主たちと同じように悟りを開き、輪廻の輪から解脱するのもひとつの方法だろう。

人々のなかにわずかに残る仏心をひきだしてその部分と交わっていくのだろうか?それが心静かなせいかつといえばそのとおりなんだろうけど。

あまり交友範囲を広げず、特定の人たちだけ、交わりながら、つつましやかに過ごすのがよいのだろう。


あんまり人前に出るとこの世の人間たちは、やっかみなどなどから引き摺り下ろそうとするわけだからうっとおしいことこの上ない。

そう考えると、ある程度稼げたらひっそりと隠居してあまり人と交わらずに暮らして行けたらと思うわけだ。


親からの期待と失望か?

親の望む自我と、実際の自我との乖離。親ののぞむじだいは、せいぜい旅の自慢話、世間話のねたにすぎない。そのようなもので、自分のアイデンティティを脅かされる必要はないというのはよくわかる。だから、就職先については、自分の価値観に基づいて判断したわけだ。


就職にあたっての基準として

1 なんらかの勉強ができること。

2 社会の役に立っているという実感。

そういったものが必要だ。

そして、東京で無為に競争するのはばかばかしく感じたわけだ。

この時点でかなりhermitぶりだと思うわけだ。

だから、地元のの企業、地元の団体にめぼしをつけて対処した。

でも電力は話を聞けば聞くほど、原発地域に住む人間をいかに懐柔するかに終止しておりなんだかつまらなく、もっというとやりたくなく感じたわけだ。

自分の正義に反することはできないというのがこの時点で明らかになったわけだ。

自分の正義はちっぽけでつまらないものかもしれないがその時点では、すべてといえばすべてなのだ。

正義を実施すれば軋轢を生む。


そういう面で、易経で確かめるというのは大変重要なことなんだろう。周の文王は殷のちゅうおうに捕らえられた。そのとき自分の正義を貫こうとすれば処刑されたわけだ。

無能を装い、なんとか脱出の機会をうかがったわけだ。

それが易といえば易の効用なんだろう。


hermitとして、いかに生きていくかを考えるべきだ。

ある程度稼ぐ目安としてあと5年だったか6年だったと思う。とりあえず、現状維持でいく。


自分のやりたいこと

1 問題を解決し称賛されること。

2 すきだ、正しいと思うことを他人から奇異に見えるかも知れないがやってみる、実行する。

3 自分の好きだと思うことを商売にできないか考えてみる。商売にできればなおよい。

4 主流からはずれることをおそれない。そこにチャンスがある。そういうふうに悟れればもっとよい。5 もっと人生を楽しむ、楽しむ方法を考える、どうすれば人生を楽しむことができるのか、

6 自分で自分を牢獄に入れない。自分にとってマイナスとなりそうなことには努力できないものらしい。結構自分でわかっているもの。

7 関心を持った場所へ行くと世界が広がる。行く計画をたててみる。

8 悟りはある日突然に現れるので、メモの用意をしておく。

9 自分にとって自然なことをする、体と魂が喜ぶことをする。そうでないことをさける。

10 結果オーライはOKとする。

11 体が悲鳴をあげていることを避ける。

12 見極めに易を用いる。

13 タイミングが来るまで戦略を寝る練る。

14 と同じくあきらめることも大事、あきらめは、明らかに目る(みる)ことでもあるのだ。

15 自分の限られた体力、知力で勝負する、ないことやできないことに期待しない。

16 予想される難から逃れる、避ける。なんとなく嫌だなあと感じることはできるかぎりやめる。

17 地獄よりも酷い世の中だがとりあえず死なない限り生きて行く。

18 同時に、地獄を極楽に変えてみる。

19 現代は昔の王侯貴族より恵まれている。

20 毎日がキャンプファイヤーだった大正時代までよりは現代のほうが数段恵まれている。

21 諸法実相というか、現代の牢獄は、原始時代の人間よりも幸せである。

22 ものごとには裏と表の両面があって、ひとつの現象でも見方を変えれば天国にも地獄にも見える。23 朝生まれて、夜に死ぬ、人生とはそれをくりかえしているだけ。

24 あるとき、あさに生まれなくなるそれが、死に続けるということ。

25 目が覚めなくても後悔しない生き方をする

26 あしたがくることが奇跡だと余命1ヶ月の花嫁はいうわけだ。

27 みじかなものでも遠くのものでも見えていてもその価値がわからないものがある。

28 それをきちんと見つける。みえてもみえずということはある。

29 せんだちめあらまほし(案内人がほしい)ということ。

30  意見交換を通じて思想思索を深める

31 いい加減な奴らに負けないこと


>>>>>>>> 自分のやりたかったことがすべて基本なんですね。

でもそれがほんとうにやりたかったことなのか、自分で自分を騙しているのではないか?

明らかにすることです。

これは私という、フィルターを通じて、語るものの、それは万人に対する指針、光明こうみょうになるのではないかと考えてつづることにしました。

それで、はじめに指針ぽいもの心掛けることを集約し、以下はそれにいたる経過を書いて見ることとした。

>>>>>>>> 私のやりたかったこととしては、数学者になるということが、あったのですが、限界を感じてやめました。

数学がすきというよりは難しい問題が解けたときの達成感やまわりの級友の称賛が心地良かったですね。整体や接骨医で随分良くなったのですが、以前は難しい問題を集中して考えると首や肩が痛くてたまらない。

これにずいぶんと悩まされました。自分の自然にあっていないのですね。

自然にあうことをやらなきゃだめですね。自分の自然にあうこと、実存にあうことを時流に合わせて、なしとげていくというのが一番よいのでしょう。

数学の研究をやめるときに、別に民間数学者になったっていいんじゃないのか、ほんとうに好きなそんな選択肢もあるのかなとは思いました。フェルマーみたいに、数学を職業にするのではなくて、趣味にするというのもありだと思いました。

でも、大学生になって、数学を専科とはしませんでしたが、理学部数学科の授業を聞きにいくという選択肢もあったかと思いますが、自分は数学を好きというよりは、数学ができることで尊敬されることが好きだっただけですね。

あと、首肩はゲルマニウムなのかはわかりませんが、一時よりは調子がよいです。結果オーライってやつですね。

しかし、朝起きるたびに体が硬くなっていく感じを持ちます。老化ですかね。

自分が死ぬのが早いか、日本が貧しくなっていくのが早いかですね。

日本は、これからどんどん悪くなっていきます。

が、昔ほど悲惨ではありませんね。家が焼かれたり、ビルマ戦線に送り込まれたり、そこまではひどくならないでしょう。

ただ、地震が必ず起きて、原子力発電所のいくつかはなんらかの損壊をし、放射性物質が必ず拡散されます。

ただし、放射性物質が拡散されても、量が少なければすぐには死なずに、がんになるかもしれませんが、寿命が尽きるのが先か、がんで死ぬのが先かの違いでしょう。


それに対する対処法は、足るを知って、持続可能な生き方をする、ただそれだけですね。

でも、それが一番難しい。足るを知るのは、簡単そうで難しい。

現にできていないですね。生きているだけで、食物を摂取できるだけで充分と考えることなんですが、いろいろ考えてしまいますね。

原始時代の人々よりも現代の人間のほうが相対的に幸せなんでしょうがね。


人たるものに、最強遺伝子の成果として、生まれて生きているわけです。

46億年の勝ち組遺伝子のうえに存在している自分自身ですが。

しかも、日本という、とりあえず、安全で、豊かにものがあふれ、文化にあふれ、望めばたいていのことは手に入る、そんなすばらしい環境にあるにもかかわらず、このむなしさというか、厭世観はいったいなんなんだろう。

どこから、この気持ちは生じるのだろうか。

どこをどうとっても、悪いことはないのに。

でも、生きていることがいやなのはなぜなんだろう。

足るを知れない。

人生に喜びを感じないのはなぜなんだろう。

生老病死から逃れられないからなんてのは何千年もまえからわかっていたこと。

自分が死んでも遺伝子は残る。これが人類の歴史といえば歴史なんだろけど。

遺伝子を残さない、残せなったのもたくさんいるけどね。


>>>>> この厭世観というか、むなしさというか、無常観というか、これはいったいなぜなんだろうか。どうしてこういうことを考えるのか。

生きていることは、楽しくない。

死は必ず訪れることで、それはあとそうサキのことではないし、

場合によってはいますぐにだってありうることだ。

でも、別にそれならそれでいいんじゃないのと思う自分もいる。

でも誰かに殺されたりするのはあまり望むことじゃないし、天命を全うしないといけないことのように思うわけだ。

痛い思いをして生きていくのもいやだし、ぽっくり死ねるのが一番よいと考えているわけだ。


>>>>> 現代社会のいいところは、このマンガ文化もそうですが、インターネットと、録音技術ですね。インターネットによって、瞬時に知りたい情報を手に入れることができます。

昔だと、1~2カ月いや一生かかってもわからなかったかもしれませんね。

音楽だって、毎日、バッハやベートーベンを聞くことができます。なんという幸せなことでしょう。

ヒトゲノムの思想はおもしろいですね。前世とか、守護霊という前に、自分は先祖からのDNAを受け継いでいるというのは間違いのない真実ですね。

生命誕生のときから現代にいたるまでの何億年の最大の勝ち組遺伝子なのですから。生きているだけですばらしいということですかね。

でも、人生は、苦痛に満ちたものと感じるのはなぜでしょうか。

生老病死から逃れらない。簡単に言うと、明日の食べ物にすら困るのではないか?

人間は食をとらないと生きていけない。

水なしには生きていけない。

大変、不自由なものだ。

光合成人間になりたいものだ。

う~ん、腸内細菌を使って、食べずに生きていける?とんでも話の域をでんね。

少量の食物でやりくりするというのはありだろうがね。


>>>>> 東大に入学するというのも、どうでもよかったんですね。東大、東大といわれ、その気になったというのか、目指さなきゃいけないというか、入らないといけないという脅迫観念だったんでしょうかね。

自分は不器用で、人前でしゃべるのも好きじゃない。

しかも、リーダーなんて疲れるものは望んでもいない。

でも、この国を誤ったほうへ行かせないで、正しいほうへ導きたいと思う。

その思いは真実だね。


厭世的な気分にさせられる毎日で、自分はいつも、精神的クライシスというか、そのなかで生きている。精神的クライシスのなかで、生き続けるというのはそれはそれで大変なことかもしれない。

毎日がもうひとりの自分という殺人者との戦いなのかもしれない。


>>>>> 国家公務員になれというのも、脅迫観念だったのかもしれませんね。

自分にとっては、忙しいのはいやだし、自分の時間がなくなることはいやなので、その選択事体が意味のないことだったかもしれませんね。

人間は、自分の望んでいないことはできないのですから。

だから、不合格になっても、どちらでもよかったのは確かですね。

むしろ、解放感というか、やらなくていいんだという感じですね。

落ちたよというと、だれもなんにもいえなくなるので、それで一件落着という感じですね。

ただ、使命感というか、自分は、国家のために働きたいという意識はありましたね。

それはなんというのでしょうかね。崇高な考えなのか、幼稚な考えなのかですが。

自分は優秀、だから、それを世のために生かすという論理なんでしょうかね?

不合格ということは、優秀ではない。だから、別に、世のために働く必要もないということになるのでしょうかね。


自分の思いと違うというか、不本意なこと、制度的に矛盾していて自分の力ではなんともならないようなことを我慢してやることが自分の精神を蝕んでいくと感じることは多かったですね。

これを正直に表現しても、堪え性がないとか、わがままだ、勝手だと非難されるだけで、ばかばかしいですね。

こんななかで、地位の上昇を希望すると表明している私はなんと愚かなことなのでしょうか?

でも、そうしないと、それはそれで、問題があるともいえるかもしれませんね。

希望するといっておいて、そうならないほうが自分の身のためかも知れませんが。

右に左に右顧左眄しながら、愛想よく双方丸く治めていくような要領のよさはないし、経理について特に詳しいわけでも、やりたいわけでもない。

人事のように、妥協点を見いだしていくような、作業は得意ではありませんね。

むしろ、大局像というか、政治道というのかを構築するのは好きですが、そういった方面で力を発揮することはできるのでしょうかね。


なんらかの職に就いて、食にありつかないといけないわけで、それがいやなら、貯金を食いつぶして食いきったところで死んでしまうかですね。切り売りしていけばなんとかなるかもしれませんし、なんともならないかもしれません。

人間動くと金がかかるので、洞窟のなかでじっとしているのがよいのかもしれませんが。

それがよいかもしれませんね。

でも、きっと洞窟から出たくなるでしょうね。そのとき困りますね。

なにはともあれ金ですか。

漱石も同じ悩みをもっていたようですね。

どうやって、金にかえていくかですね。得意を活かすのがよいというのはありますが、私の場合は、苦手分野にわざわざ足を踏み入れたのでしょうかね。


やはり高校時代のすごし方が大きな意味で失敗だったのかもしれませんね。文系へいけ、役人になれ、大蔵官僚になれ、などと言われ、私は好い子を演じたがるので、そういう方向で努力します。でも、自分には向いていない。むしろ、人嫌いで、自分の殻に閉じこもりがちな性格。人前で話すのは嫌い。発達障害といえばそのとおりだったんですね。好きなことをするのはいけないことで、苦手なことを克服するのが毎日だった気がします。その結果として、人と一定コミニュケーションがとれるようになったといえばそのとおりですが。

数学は得意でしたし、ひらめき力というか、発想の転換といったことは得意なのですね。なんだか理系を放棄するのが惜しくなったのが本音かもしれませんね。ただし、理系の難点として、手先が不器用というのがありますね。だから技術者には向いていない。理学部向きなんでしょうね。でも研究分野が数学ぐらい。あとはどうでもよいですね。そんなにすきでもない。理学部にいくなら、好きでいくのが本筋でしょうね。毎日、理科や数学ばかりやっていると、なんだか社会や国語なんてやりたくなるわけですね。挙句に、理系は忙しいときていて、不合格になった時点でああやめだ。数学者になるのも無理だし、理系はもう散々だと思ってしまったわけですね。まあ一応の踏ん切りはできたわけで、それでとりあえず文系に行くしかないとなったわけです。


文系なら、当初どおり、東京大学の文科系をねらうしか選択肢はなくなるわけで、それなら、国家公務員をめざすしかなくなるわけです。まあその方向で勉強するわけですね。でも、学力が伸びない。どうも今一歩のところで失速するわけです。国家公務員のような私生活もままならないような、仕事をするのも考えものなわけです。でも、そう考えると気力が萎えるので、きっといいことがあるとだましつつ続けるわけですね。やっぱり落ちてしまうわけですね。落ちてしまっていくところがなくなるわけです。こんなに勉強しているのに、もうやることなんてなんにもないわけですね。それで勉学はほどほどにして、別のことをしましたね。


奈良と京都へ旅行へいきました。これが京都の大学に結びつくとは思ってもいなかったのですが、京都の銀閣寺と、金閣寺にいきました。英語も予備校の本なんて読む気もしないので、英語の笑い話とか、エロッチくなペーパーバックスを読むわけですね。意外とこれがよかったかもしれませんね。これは笑えるしね。本は読みました。赤と黒を読んだかな。歴史の本も読みました。トレーニングジムへ通いました。でも学力はあんまり伸びた気がしませんでしたが、さほど低下もしませんでした。むしろ小論文はうまくなりました。東大へ模試の成績でちょっと無理かなという感じでした。共通一次もそこそこ点がとれたので、京大にしましたね。京大は共通一次の配点が高いのです。あんまり過去問とかやっていなかったのですが、解けそうな問題ばかりだったので合格できました。死なずに済んだというのが本音ですね。


大学は、その点、よかったですね。一年のときはフランス語をよく勉強しました。成績はぱっとしませんでしたが、がんばりました。

2年のときは、憲法、民法、刑法をがんばりました。これもぱっとしませんでしたね。これが限界だったんですね。自分として努力はしましたね。ここで悟れればもっとよかったのかもしれませんが。政治学とかもやってみましたが、まだ、法律科目のほうが成績がよかったですね。政治学の本を読むのはよいのですが、試験の点数がとれないわけです。法律科目は書くことがある程度きまっているので、定石に従えば、点数はいまいちでも合格点にはなるわけです。

3年生のときは、京都にこもって勉学しました。反動で、京都観光をしました。鞍馬寺や貴船神社、大原三千院、比叡山などへいきましたね。これはこれでよかったですね。ああ、つながっているわけですね。京都観光はやりたかったわけではないのですが、結果として、ついてきたわけですね。こういうことなんですね。どこかで、どこかの連鎖がつながっていて、無意識のうちに行動することが、のちのち大事なことの布石だったり、必要なことになるわけですね。

4年になって、就職の必要が生じるわけですが、司法試験や国家公務員の勉強もしていたのですね。人嫌いが根本にあるので、試験勉強もある程度までは行くが、そこから進まないのかもしれませんね。だから、司法試験もおち、国家公務員試験も落ちるわけです。


地元の公務員の試験は、これだけ勉強していたので、受かったわけで結果オーライという奴ですね。とりあえず就職はできたわけです。国家公務員なんて激務をしなくてもいいし、でも、地方公務員の最初の仕事は大変疲れて、給料も安かったのですが、9時5時だったので、それほどいやではありませんでした。


5じすぎたら、ゲームばかりやっていましたね。土日もなんだか疲れてぐったりしていた気がします。最初は仕事をこなすだけで精一杯でしたね。3年で代われて次のところも最初は仕事を覚えるのに精一杯。まわりに結構陰険な奴らはいたのですが、目にみえず。ずいぶんいやな思いをしました。しばらくすると、昇任試験の勉強をすることになって、必死にやりましたね。おかげで合格できました。でも、昇任する段になってみると、いきなりいやなことをされましたね。だめだしされて左遷されて。2年間気分的には大変いやでした。このころですね。占いを真剣にやりだしたのは。


>占いは割と、好きですね。古今東西の占い本はほとんど読むようにしています。最初は九星気学でしたね。いまは易学ですね。これは奥が深いが、その奥までたどり着けるのだろうか?また、それを求めているのだろうか?易学の現象のいずれを掌握しているのか?また、求めているのか、血肉化しているのか?最初は、数量をこなすことだと思い、数をうってきました。易学ノートをつくって書き留めていました。最近は書いていません。それはなぜなんでしょうか?慢心しているのか、限界を感じているのか?易学で一番大事なことは、本人の意思です。自分がどうしたいかです。


その結果、予想される結論を受け入れるか、やめてしまうかです。自分の意思が薄弱だと、結論がぼけます。ずばりでるときもあれば、答えになっていないときもあります。凶でも受け入れてやるのか、凶ならやめるのか?吉ならやるのか、吉でもやめるのか?凶がきわまれば吉に転じ、吉がきわまれば凶に転ずるのがそもそもの易です。もっというと、人がものごとを判断するときに、その判断がよいかどうか天がなにげなく教えてくれているもののようです。ところがそれがすぐにはわかりません。そう考えるとなんとなくいやだなというのは、大変重要な感覚ですね。ただ、なんとなくだと、正確にわからない。自分に必要だけど、ただ、なんとなく怠けているというか、なにか霊がとりついているという言い方をする人もいますが、自分としては、自分の5感で判断できないものはあまり信じるべきではないと、考えるわけです。そんなとき易の卦をみて、判断すると、時空が教えてくれるよりわかりやすいのですね。でも、修練がいります。その修練が不十分だと、なかなか見誤ってしまう。修練をつむには数をうつことと考えてきました。しかし、なにかが違う。そのなにかがわからない。さいころをふることなのか、仲間をもとめることなのか?加藤大岳の本もそこそこ読んではいます。でも、なにかが違う。それはなんだろう。易の教室にも通っています。眠たくなることもあります。意識を失うこともありました。あそこでなにかが得られるようですが、すぐにはわかりませんね。なんでしょうかね。なにか知ってはいけないことなのかもしれません。それを誰かが止めているのかもしれません。でも、いずれそこに至るようですね。とめているというよりは、じらしているのかも。じらしているのかもしれませんね。


でも、最近、なんとなくわかってきました。本質をみつめよということなんでしょうね。古今東西の学問は、現代に集大成されている。現代は、ちまちまとした課題だけでなく、すべての理論が統一されていくことが必要なんですね。むかしでいうところの百科全書学派なんでしょうね。そんなことが実はやりたかったようですね。数学も、哲学も、物理学も、根本は同じです。それを集合させて一つの統一されたものを考える、モデルを考えるということですね。でも、これって、答えがたぶん出ませんね。芥川龍之介がいうように、もうすでに、必要なことは古代ギリシャの時代に出尽くして我々はそれを再生させているだけというのも真実なんでしょう。というか、無から有を生じた時点で、それはもうすでに落着されたのかもしれませんね。


>>>>>>>> 野球選手になるというのもあきらめましたね。小学校、大学と、社会人で少しはやったのでそれはそれでよかったかもね。これは好きなことやって金もらうかでしょうね。

体力も才能もないないづくしでしたね。

この1,2年で、プロ野球や社会人高校野球を応援しに全国をめぐるというのをやってみました。名古屋、神宮、東京ドーム2回、甲子園、広島、横浜と制覇しましたね、おかげで東京へいくまえに一関で墓参りをして、故人と話ができた気がしました。

高校の同級生でした。31歳意のときに死んでしまいました。自殺らしいということですが、親たちにそのあたりは聞ききれていませんね。管理職になるあたりで、いろいろ悩んでいたとのことでした。占い師としての有泉は奴の字からなんとなく選んだのかもしれませんね。高校のときに奴といろいろと話をして自分の思索が深まったということでしょうか?奴にいろいろと矛盾をつかれてたじろいだこともありましたね。国家公務員を希望するのは、自由に生きて行きたいという思いと矛盾するのではないか。あんな拘束の多い職業を選択するのは誤りだと。ならば地方公務員をめざそうか?それならそんなに拘束はないだろうと語った気がしました。徒然草を読んでいたらそれは受験のためか?と一蹴されましたね。そのときは反発して違うといいましたが、なんだか図星だったようですね。徒然草は嫌いではないのですが、心に染み入らないという感じでしたね。一回奴の高校以後のアルバムでも見せてもらいに仙台に行こうかと考えています。そうするとまた、人生が深まる気がしますね。ガンダムは昨年の東京ドームのときでしたね。パスモをかってね。お台場へ行きました。フジテレビにも行きました。ガンダムがなんだか役に立ったようですね。広島ではなんといっても原爆ドームで、なみだしました。人間の愚かさの象徴ですね。でも、それが人間なんでしょうかね。スウィフトのガリバー旅行記のヤフーの解説本を読み漁りました。結論としては、ヤフー的な人間が、その欲が人類の進歩をもたらしたということが書いてありました。馬の支配する社会のほうが、おぞましい社会だと。複雑な心境ですね。人間の欲こそが、進歩をもたらし、人類の叡智を育んできたわけです。これが地獄を極楽に変えるヒントかもしれませんね。甲子園博物館はなつかしかったですね。高校野球だけでなくて、阪神、アメフト、ここではいろんなドラマがあったし、関西圏に住んでいて、ここへきて、いろんなことがあったのだと、しみじみ思いました。山陽電鉄にものり、姫路城を遠くに眺めました。いろいろと世界が広がりました。こういうことが大事なことなのかもしれませんね。これはこれで私の心を豊かにしてくれました。しかし、みえても見えずの心境は感じました。それは、ありますね。人間には段階があって、その人、その人のレベルで感じるものは違う。簡単に言うと、小学生が感じるもの、中学生が感じるもの、大人が感じるものは、同じものをみても違う。大人でも、賢者がみるのと、愚者がみるのとは違う。賢者になれなくても、賢者、先人、そのものごとに精通している人と一緒にみるとまた、視点は変わる。見ているところも違う。それが一瞬、一瞬で過ぎ去っていく。見なくてもよかったのかもしれないし、知らなくてよかったのかもしれないし。原爆ドームだって、なんども遠目から見ている。でも、じっくりと見なかった。見れなかった。タイミングでなかったのだろう。これは、近くのものでもあてはまる。近所に有名人や有名な店があっても、そこに価値が見いだせなければ関心もなく、ときは過ぎてゆく。あるとき、はたと気がつく。気がつけばましだが、気がつかずに終わってしまうこともある。まだ、仙台やら千葉やら札幌やらがあるかもしれませんが、今シーズンは終了ですね。野球もストーブリーグですね。ただ意欲はそれほどでなくなっていますが。行くことで一気に世界が広がりましたね。次に、全国の株主総会へ行くというのをはじめて、楽しませてもらいました。三菱商事、四国電力、近鉄と。財務分析や経済を知るきっかけになります。そういう流れに城ツァーもあるんですね。さらに全国の開運スポットというのもいいかもね。天本有泉と行く全国開運スポットツアー、鉄道やバスを乗り継ぎ、苦労していくことに意味があるというのがいいかもね。


>>>>>>>> 中国統一や日本統一は、三国志や信長の野望でやりましたので、そんなに魅力はないですね。脳はバーチャルでもリアルでも区別できないらしいです。ゲームのことなので金にものいわせて次々と征服していけるようにできてましたね。東大に入学するというのも結局どうでもよかったんですね。入れなかったなあという感じ称賛というか認められることが目的だったようですね。国家公務員になるというのもどっちでもよかったんですね。むしろ嫌だったかもしれない。忙しいのは体力身体的に不可ですね。親の自慢のために生きているわけではないですから。就職するときの要件につねに学習していける職業を基準にしました。あまり金、金、金のモチベーションでは維持できない。学習していけることで自分の世界が広がり次へ行かしていけるんですね。基本的に人嫌いで発達障害ぽいのは最近気がつきました。引きこもりの友人とは以前よりも意見交換するようになりました


>>>> とりあえずの目標、平成28年までは仕事をする。子どもが高校出るまでになるんだろう。ぼろぼろになってもやるんだろう。つらいなあ。セックスの代償か。高くつくなあ。あとは野となれ山となれだ。それが目標だ。いやでいやでいやでたまらなくてもがまんする。左遷されてもがまんする。病気になったら休職する。休職していいんだ。やりたいことはやる。いいたいことはいう。けんかしてもいいし、孤立してもいいんだ。わかりあえなくてもいいんだ。でもそこまではやる。そこまでは自殺しない。これが大目標だ。地位なんてどうでもいいんだ。自分が精神的に肉体的に安定していることがなによりも大事だ。平成28年度、29年3月31日。まあそこからなんとかごまかしごまかしいきていけるだけいきていくんでしょうね。親も死んでいるかもしれませんね。そこがおとしどころでしょうね。

それからなにをやるかはこれからの生き方を追求していくしかないでしょう。

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