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盲目の絵師

作者: 紫子

山あいの、ちいさな街に、わたしは立っていた。

ふと思い立って出た旅の、目的地だった。


知人から、この街にとても腕のいい、肖像画専門の絵師がいると聞き、

ふと描いてみてもらいたくなったのだった。

仕事に都合をつけたわたしは、休暇をとって、この街を訪れた。


街の中心の、賑やかな市場で、わたしはその絵師のことを尋ねて歩いた。

古い本屋の主人が、絵師の住まいを教えてくれた。

絵師のすまいは、街のはずれのおおきなクスノキの脇にあった。


戸口に立って訪いを告げると、奥から杖をついた老人が出て来た。

彼のまぶたはしっかりと閉じ合わされていて、どうやら眼が不自由な様子だった。


「すみません。肖像画を描いていただきに来たのですが。」

わたしの言葉に、老人はにっこりとほほえんでうなずいた。

「お待ちしておりましたよ。さあ、そちらにお掛けなさい。」


前もって依頼をしていた訳でもないのに、と訝しく思いながらも、

わたしは言われた通りに椅子に腰掛けて、老人が手探りで絵の準備をするのを見ていた。

が、そのまま彼が画架の前に座るのをみて驚いた。


「まさかあなたが描くんじゃないでしょうね。」

「ええ、わたしが描かせていただきますよ。」

老人はにこにこと微笑みながら、なんでもないことのようにさらりと言った。


「けれどもあなたは、その・・・眼が。」

「いかにも、わたしは盲目なのですよ。」


いったいこれはどういうことだ。

知人も、さっきこの場所を教えてくれた古い本屋の主人も、人を担いでいるような様子にはみえなかったのだが、どう考えても、たちのわるいいたずらにしか思えない。


「どうもご心配のようですね。」

老人の言葉に、わたしは憮然として答えた。

「あたりまえでしょう。眼のみえない人に絵が描けるとは思えませんよ。」


にっこりと笑って、老人はわたしの足元を指差した。

「それでは試しに、そのあなたのカバンを描いてみましょうかな。」


「やっぱり見えてるんですね。」

「いいえ」

「ではどうして、ここにわたしのカバンがあるとわかるのですか。」


「もののかたちにも温度があり、ものの色には匂いがあるのですよ。」

老人は言った。その間に、すでに彼の手は画架に向かって動き始めている。


「眼のみえる方には気づかれないほどちいさな変化ですが、わたしのようなものにはそれがわかるのですよ。」

「・・・・・。」


「さあ、どうでしょう。」

しばらくして、彼に見せられた絵をみて、わたしは唸った。

わたしのカバンが、まるで紙に吸い取られたように、そこに映し出されていた。


「おそれいりました。」

「では、描かせていただいても?」


「ええ、お願いいたします。」


老人はあたらしい画布を用意して、再び座り直した。

やはりまぶたは閉じられたままだ。



「さあ、それではとりかかるといたしましょう。」


「あの、座り方はこれでいいのでしょうか」

わたしは椅子の上でもぞもぞと身じろぎした。


「ポーズの方はお気になさらなくてかまいませんよ。そのかわり、私があなたを描いているあいだ、あなたにはお話をしていただきたいのです。」


「はなし」


「そうです。」


「何を話せばよいのでしょう。」


「そうですね。たとえばあなたが、今まで誰にもお話しになっていない、でもほんとうは、一番お話しになりたかったことなど。

わたしは、そのお話を聞きながら、あなたの絵を描かせていただきます。」


わたしは少し考えて、居住まいを正した。

たしかに、この絵師には自分をさらけださなければ、ほんとうの肖像画は描いてもらえない気がしたのだ。


わたしは幼い頃からの自分の話をしようと思った。

たしかに、誰にも話したことがなくて、そしてだれかに、いつか聞いてほしいと思っていたことだった。

絵師が画架の前でちいさく呼吸を整えている。

わたしの言葉に耳を傾ける準備なのだろうか。


わたしはその小柄な老人に向かって語りはじめた。


「わたしは、小さいころに母をなくしました。

 父はその後まもなく、ほかの女性と結婚しました。

 まだ幼かったわたしのために、母親が必要だと考えてのことだったのでしょう。


 実際あたらしい母親はたいへんやさしいひとで、

 わたしはほんとうの子供のように多くの愛情をうけて育ちました。


 そしてあるとき、わたしは自分を生んでくれた母親の顔を、

 全く思い出せなくなっていることに気づきました。

 どんなことがあっても、決して忘れるはずがないと信じていたひとの顔です。


 写真をみれば思い出したかもしれません。

 けれど、妻を亡くした悲しみを忘れるために、思い出をしまい込んだ父や、

 愛情深く接してくれているあたらしい母親に、わたしはどうしても、

 実の母の写真を見せてくれと頼む事は出来ませんでした。


 そのうちに、顔など思い出さなくてもいいのではないかと

 自分に言い聞かせごまかしているうちに、今日まで来てしまったのです。


 私は仕事もそこそこうまくいっていて、財も築きました。

 結婚を考えている女性がいて、近々式を挙げる事になっています。」


「では今は、とてもお幸せなんですね。」


絵師は手を動かしながらあたたかく微笑んだ。


「ええ。とても。けれど時々思うのです。わたしに本当に幸せな家庭が築けるのかと。

 自分を生んでくれた母の顔も知らないようなものが、

 自分の妻や子を一生愛してゆけるのかと、

 どうしようもなく不安になることがあるのです。」


絵師は手を動かし続けながら、うんうんと頷きながらわたしの話を聞いてくれた。


「こいびとと、一緒に写真も撮りました。

 写真のなかのわたしは、とてもしあわせそうに笑っていましたよ。

 けれどわたしには、その顔がほんとうに自分のものなのか自信がないのです。


 なにか大切なものを、道の途中に落として来てしまったような、

 いいようのない不安が、わたしのなかにあるのです。」


「それでわたしのところに肖像画を?」


「はい。知人から、あなたの噂を聞きました。

 ・・・まるでその人の心の中を覗いたように、ほんとうにその人そのものの肖像画を描く人だと・・。

 彼もあなたの眼のことは、知らないようでしたけどね。」


「なるほど。あなたは写真に写らない本当のご自分がご覧になりたいのですね。」


「そうです。」


「けれどわたしはこう思いますよ。あなたは本当は、ご自分のことはよくわかっていらっしゃるのです。

 いいところも、わるいところも、あなたの瞳は、曇ることなくご自分をきちんと映していらっしゃいますよ。」


「でも」


「あなたに必要なのは、きっと確かな過去なのでは?」


「たしかな過去。」


「あなたの歩いてこられた道を照らす光です。その光が、きっとあなたの行く末すら、明るく照らしてくれると、こころの奥でそう望んでおられるのでしょう。」


「そう・・・なのかな。自分ではよくわからないが・・・。」




「さあ、できましたよ。」


絵師がそっと画架から絵をはずして、こちらに向けた。


「あなたが望んでおられたたしかな過去です。」


そこには、わたしではなく、しかしわたしに少し似た面立ちの女性が描かれていた。


その絵をみたとたん、まるで塞き止められていた水が、泉からあふれでるように、

あたたかな渦を巻きながらわたしの胸を満たし、そのまま喉をかけあがって両の眼から、

涙となって溢れ出た。




「おかあさん」


思わずわたしは駆け寄って、絵の前にひざまずいた。

あふれる涙ではっきりとは見えなかったが、たしかにそれは、

わたしを産んでくれた母の顔に相違なかった。


そう、わたしは確かに、このひとから産まれたのだ!


「あなたはお母上の顔を忘れてなどいませんでしたよ。

 わたしはあなたの心のなかにいる、このお方を描いたのです。

 やさしくしてくれた新しいお母上や、あなたを心配していたお父上への気遣いから、

 あなたの優しいこころが、この思い出に蓋をしてしまったのでしょう。


 けれど愛する人の面影を大切にするのに、誰に遠慮がいるでしょうか。」


絵師はそういうと、わたしの腕をとって立ち上がらせてくれた。

わたしはしばらく彼と彼の絵の前で泣き続けた。



肖像画の包みを、胸にしっかり抱えて、わたしは老人のすまいをあとにした。


わたしのこころの奥に、ぽっと小さな光がともったようだった。

そのちいさな光が、とおいとおい私の未来までをたしかに照らしてくれる気がした。


絵師が最後に言ってくれた言葉が胸のなかにあたたかく流れつづけていた。


「大丈夫、あなたは立派に、ご自分のご家庭を守っていけるでしょう。


 どうぞ、おしあわせに。」








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