02:機械の町の七不思議(後)
暴力シーンや若干性的なものをにおわせるシーンがあります、ご容赦ください。
桂皮の粉末がかかったホットミルクはおいしかった、しかし桂皮の香りのする甘いミルクは同時に昔(といっても数年前)のまだ母親が実父と仲がよく、平和だったころに作ってくれたおやつの味を思い出させた。
「にんじんと桂皮のスコーン……」
「ん? どうした少年、スコーンが食べたいのか?」
何かと化したコーヒーを何故か咀嚼するウーファイの問いかけに嬉々としてゆたは答える。
「そう、ホットミルク飲んでたら昔お母さんがよくスコーン作ってくれたなあ、と思って。食べたいなあ……あれおいしいんだよ! ホットケーキミックスにバターと桂皮と水分絞ったすりおろしにんじんとプリン入れて作るの!」
「プリンって……市販の?」
「うん、あのプッチンってやるやつ!」
「よし、メモしておく。今度作ろう」
「ウーフェイさん、お菓子作れるの?! すごい! お母さんみた――」
い、繋げかけた言葉を飲み込み思い出す。今の自分はおやつどころか機嫌次第では食事さえ出してもらえないのだ。急にうつむいたゆたの姿に、ウーファイは真剣な眼差しを彼に向ける。
「……お母さん、今何してるの?」
「たぶんパチンコ。なんか怖いお兄さんがぼくのお父さんだって言ってる。前はお菓子とか作ってくれてたけど今はそのお兄さんがぼくを殴っても何も言わない。うるさいって殴るんだ。しつけなんだって。ぼくはどんくさいからいっぱい殴られちゃうんだ」
驚くほどあっさり口から出た言葉だった。学校の先生にも、仲のいい匡子ちゃんにも話したことがなかったのに。お母さんにばれたらきっとさらに殴られちゃうだろうなあ、と思ったけどここは「非現実の世界」だ、こういう話をしてもただのどっかの子供のよくあるわがままだろうと思い、ゆたは笑ってウーファイのほうを向き、
「……少年、それは本当の、話か?」
固まった。いつの間にか青虫もゆたのほうに駆け寄ってきている。ゲルのようなコーヒーだった物体をスプーンですくっていたはずのウーファイはゆたが予想していた苦笑でも呆れ顔でもなかった。一言で表すなら愕然といったものだと思う。後ろを見たら、獣の顔をしていて分かりづらかったが青虫も同じような顔をしていた。
「うん」
「母親は、パチンコに毎日?」
「うん」
「そのお父さん、って言ってるこわいお兄さんも一緒に?」
「うん」
「殴ってくるの?」
「うん、みんなそういうしつけをしてる、って。皆ぼくみたいに叫ばないのはぼくが弱くて悪い子だからだって。子供はオヤバナレしなきゃいけないんだからって」
話しているうちに、わけも分からない涙が出てきた。きっと現実の自分もちょっぴり目が赤くなっているかもしれない。きっとぼくが弱い子だ、って目の前の人にあきれられると思うとゆたは余計に気が重くなった。
「……ゆた君」
席を立ったウーファイが、ゆたに近づく。背の高い彼はゆたの隣に立ちしゃがみこむと一気に涙目になっているゆたをやさしく抱きしめた。
「……ウーファイ、さん?」
声を出しても、ウーファイは返事をしない。いつの間にか装備解除され服だけになっていたウーファイの服越しに、存在しないはずのぬくもりと心音を感じる。少ししてから小さな声でウーファイは「君は強いよ、間違いなく」と震える声で言った。
「ゆた君、きっとおかあさんとお兄さんは“誰にも言っちゃいけない”と言った、よね?」
「……うん」
「僕の知ってる限り、それはしつけじゃない。暴力、っていうんだ。ゆた君、それは誰かに“言わなきゃいけない”ことなんだよ」
ウーファイの言葉に、今度はゆたが愕然とする番であった。
しつけじゃない? なら今まで柚汰が受けてきたものは何だったのか。何で殴られなければならなかった? 何で叩かれた? 何で怒鳴られた? 足の裏や尻にタバコを押し当てられたのは?お湯をかけられたのは? 腐った食事を投げつけられたのは? 何で――
(あ、そうか。邪魔だったんだ)
急速に回転し始めた脳みそが海馬から記憶をどんどんどんどん引き出して行く。望もうがそうでなかろうが関係ない。痛みを伴う記憶の奔流をゆたはどんどんたどって行く。ウーファイの服を握り締める手にも、ぎゅうと力が入った。
「……ウーファイさん、あのね」
ゆたは口を開く。大人であるだろうウーファイならば、あの日のことを理解してくれるんじゃあないかと思ったのだ。
湿った目元とは逆に、震える口唇はひどく乾いていた。
あれは、夏の日だった。
終業式を終えた柚汰は、ぎらぎらと真上から照りつける太陽以上に開放された気分だった。空は青く、綿のような入道雲が空の端に見える。通学路沿いにある田んぼを覗けば、随分と大きくなったおたまじゃくしが足の生えかけた体をくねらせていた。
アスファルトを踏みしめるスニーカーは先日お父さんに買ってもらったばかりの新品で、これからの夏休みへの期待同様光り輝いている。履きたいようで、でも汚したくないようで。つまらない悩みながらも「終業式だしいいよね」という理由でそのスニーカーを履いていた。自宅は結構頑丈なつくりのマンションでポストのチラシを捨てると柚汰はエレベーターにのって5階まで上がり、自宅の玄関のドアを開けようとノブを捻る。
(あれ?)
家には母親がいるはずなのに、鍵がかかっている。背負っているランドセルの中から紐に括られた家の鍵を取り出すと、彼はそのドアを開けた。
リビングで、母親が知らない男の人と絡み合っていた。母親も男も裸だ。このときも(そして思い出している今も)何をやっているか柚汰には分からなかったが、帰宅した柚汰が呆然と立っている姿を見て、母親も男も顔面蒼白といった様子であった。そんな顔を見て柚汰はきっとこれは見てはいけないものを見てしまったんだと思い、あわててドアを閉める。
「柚汰!」
母親が叫ぶ声を聞いた気がした。マンションの駐輪所に投げ出されている自転車に乗って駆け出した柚汰が帰ったのは夕方のことであった。
そのあとの記憶は柚汰にも曖昧である。父親に昼間見たことを言ったところ、帰ってきた父親は普段の温厚さが嘘のように怒鳴り、泣いていた。手に持っていたお土産のケーキは母親が顔面で味わう羽目になり、柚汰はそんな姿におびえるしかなかった。父親は母親がいない時間、前以上に柚汰を甘やかした。そして柚汰のためなら何でもやる、といった様子でよく休みの日は出かけた。
それとは正反対に母親は日に日にヒステリックになっていって、柚汰をしつけと称してよく叩くようになっていった。怒鳴り散らし、喚き散らし、帰宅したらそんな母親が待っているのがいやだった柚汰は帰宅時間が遅れては怒鳴られ、早く帰れば何かと理由をつけて怒鳴られるという生活。精神は磨耗し、集中力はなくなっていく。子供らしい溌溂とした生気は目から失われていき、学校生活は孤立したものへとなっていった。そして、孤立が精神をさらに磨耗させる。
父は、シンケンが取れなかったと泣き崩れた。
「うわ、昼ドラ……」
青虫がゆたの話に眉根をひそめる。ある程度年齢がいっていれば何があったのかは想像に難くない。しかもそれを語るのが大人ではなくまだ小さな子どもだ。一方ウーファイのほうはゆたの話を聞きながら真剣に考えているようであった。
「ゆた君、失礼かもだけど年齢聞いても大丈夫?」
「うん。今月十歳になる」
「十歳ッ?!」
ゆたの年齢に驚いたのは勿論ウーファイではなく青虫だ。少年の姿をしていても中身がそうであるとは限らない。現に女性になりたい願望のある男性プレイヤーが女性の姿である場合もあるし、逆もまた然りである。現に青虫の知っている人間の多くは理想像やらをキャラに投影しているし、青虫自身も女子大生というリアルの姿から逸脱した強さを求めた姿だ。かっこよさとかに憧れず、ひたすら等身大の自分をリエルに投影する少年の背中に、言いようもない虚しさを覚える。
「十歳以下だと母親のほうが親権有利だし、いまだにしつけだと思ってるということは現状を近所の人も知らないみたい、か。養育も母親のほうが長いし父親が親権とるのは難しかったんだろうね……僕も専門家じゃないからうろ覚えでしか物言えないけど、たぶんそんな感じだったんじゃないかな」
「裁判所まで現状は届かない、ってやつ?」
「そそ」
ゆたにとっては難しい話をしながらも、ウーファイの手はゆたの頭をなで続けている。少し話が落ち着き、もう一杯のホットミルクを飲んだところで少し風に当たろう、と二人は外に出た。
ゲーム内時間と現実時間はリンクしている。外に出たとき、あたりはすでに薄暗くなっていた。陽光の光を溜め込んだ光精を封じ込めた街灯が工業の町を照らし、中途半端な時間のせいで少し減った人の波は二人が並んで歩くのにはちょうどよかった。
「関係ない人なのに、なんか話しちゃって……その、ごめんなさい」
「謝ることじゃないさ、少年」
しょんぼりとした様子のエルフをわしゃわしゃと龍人がなでる。ウーファイはむしろこの少年の力になれたら、と思っていた。
(……こういうときに、不便だ)
ウーファイは自分の身を嘆く。この小さな子の傷を現実でも癒してあげられたならどんなによかったであろうか。しかしウーファイにとってそれはかなわぬこと。この場に里里里里里がいたならば、彼の表情に複雑な思いを感じ取っていただろう。
ふと、手をつないでいたエルフの歩みが止まった。絶望、といった表情を浮かべたエルフの頭上には「3Dグラフィックスモード」に移行するサインが出る。ばれた、という小さな言葉のあと、
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっぐあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁあああああッ!!」
絶叫が響いた。独自の技術で開発されたこのゲーム専用というべきVRダイブ機器は、当然のごとくゲームと互換性を持っている。専用、といっても間違いはないだろう。その専用機器が外部から抜かれた場合、すぐに動作が停止しないようになっている。脳とつながっているこのVRMMOをプレイ中に万が一停電になったとしても人死にが出ないよう、機器自体にも電源とある程度のCPUを積んでいるのだ。
そしてプレイ中に外部から接続が断たれた場合デフォルト設定ならば10秒間のダイブアウト時間の後パソコンに内蔵、あるいは接続されている任意のマイクによるボイスチャットモードへと変わる。そのマイクを通し、マキナシアの町の真ん中で少年の「現実」がリエルに流れ込んだ。
少年エルフの姿はそこそこに有名だ。それに横に立つ竜人も「知っている人なら絶叫もの」の有名人であり、人だかりは次第に大きくなっていった。
「誰か、誰かここに警官いねえか!」
人だかりの中で一人の男性型翼人PCが叫ぶ。その声が聞こえたのか一人の少女型猫人PCが「先輩に聞いてくるっす!」と設定ミスらしい野太い声で返事を返した。そのほかにも聞こえてくる声から「誰か特定できねえか?」「被害者は多分女の声が言ってる「ユウタ」だ」「あのエルフ人間だったんだ」とかいう声までいろいろな声が混ざっている。
“ユウタ! 成績が悪いくせにこんな箱にかじりついて、どうせこれもわたしの財布から金をとったんでしょう! ああ! そうにきまってるわ! こんな勢いでお金が減るはずないんだもの! ”
“――これはお父さんが買っ……”
“お父さんはずっとお母さんといたわ、一緒にパチンコ屋いってたもの。買ってるはずないじゃない。さっさとお金抜いたの認めなさい! そうじゃないと”
まさかしつけがネット上に流れているとは思っていないのか気づいていないのか、言葉のあとに大きなノイズが入り、人々の声が一瞬静まった。そしてその静寂を引き裂くかのように
“これで、殴るわ……よ!”
瞬間、破砕音と絶叫が響きPCの姿が消えた。何があったか、想像力豊かなプレイヤーは一瞬でそれを把握し、「誰かまじで警察!」と再び叫ぶ。おそらくパソコンで殴ったか、投げつけられたかをした。ウーファイは手をつないでいたPCの、リアルで起こっただろう惨状とそれに干渉できないこととで頭が真っ白になっていた。
「ウーさん!」
ひとごみを搔き分け現れた里里里里里の姿に、ウーフェイは先ほどとは逆に彼にすがりつく。大きな体の青年が体格のいいおっさんにすがる姿は少々奇妙ではあったものの、ここではよくある光景だ。
「リリさん、今度もしあの角のエルフ――ゆた君が来たら、もしくはリアルで「ユウタ君」という子に何かあったら“最優先”で連絡頂戴」
「ああ、わかった」
「ありがとう、リリさん! 大好き!」
ウーファイの頼みを里里里里里は断れない。彼女のリアルを知っている人間にとって、事情がたとえ理解できない状況でも頼み、特にリアルにかかわる情報入手の依頼は断れなかった。
ゆたが次にリエルを訪れたのは、この騒動から半年後になる。
この街中での騒ぎがネットで話題になり、ネットからリアルのニュースへと話題が上るまで数日。そして隣人がネット上に上がったファイルから声を聞いて特定、急ぎ警察に通報。警察が柚汰のいる部屋に入ったところ、ゴミ捨て場のような部屋の床には血がこびりつき、ろくに治療もされずに放置された少年が半死半生といった模様で横たわっていた。
母親と再婚相手は逮捕。彼の治療に2ヶ月、母親から隔離された彼が父親の元に行って、そこでの生活になじんでからようやく再びリエルの地にログインしたのだ。
「お、お久しぶりです」
「ゆた君! よかったあ……」
彼がログインしたことに気づいた龍人は、その能力のひとつである“飛翔”で一気に街中まで飛んできたらしい。背中に西洋龍の羽をつけたPCはやはりドラゴンスレイヤーというジョブが似合わないように思う。
ネットゲームの半年は、世界が全然変わってしまう。ぼうっと眺めていた半年では分からなかった変化というものが半年おいてから町並みを見ると「随分違う」といったものになってしまう。アハ体験とか言うものによく似た現象だろうか。
「お父さんと暮らすようになって、新しい“お母さん”とおにいちゃんが出来たんだ」
「スコーン、食べた?」
「失敗してクッキーになっちゃった」
ウーファイと他愛ない話をして、ふと視線をやった先にとても大きな変化があったことに気づいた。この町でも有名だったはずの武防具屋が無いのだ。
「ウーファイさん、あの、里里里里里さんは、どうしたんですか?」
ゆたの質問にウーファイは身を固くした。そして泣きそうな顔を浮かべて一言、青虫から聞いたことを彼にも告げた。
「リリさん、死んだんだ」
これでエルフ、ゆた君の話はおしまいです。
あとはメインに来るだろうキャラは一応何人か出せたからいいかなあ、と。
浮気は皆しちゃだめですよ。