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裏切りの一頁

Day 4——夜。

三年間の友情は、嘘だった。

 日が暮れようとしていた。


 ユキは書庫の窓辺で待っていた。ルティアが来ることを知っていた。書斎の書簡を見たことに気づけば——いや、気づかなくても、ルティアは来る。三度目の書き換えの後だ。報告すべきことがある。ゼノンへの報告が遅れれば、計画に支障が出る。


 案の定、ルティアは夕暮れ時に書庫を訪ねてきた。紫の外套を纏い、亜麻色の髪を束ね——だが、いつもの穏やかな微笑みが、今日はどこか硬い。普段は目尻に皺を寄せて微笑むのに、今日は口元だけが笑っている。


「ユキ。少し話がしたいの」


「……はい」


 二人は書庫の三層の奥、誰もいない棚の列の間に座った。年代記の棚だ。帝国の歴史が背表紙に刻まれた無数の本に囲まれて、二人は向かい合った。夕日が窓から差し込み、古い蔵書の背表紙を赤く染めている。ここはユキが一番好きな場所だった。ルティアもそれを知っている。だからここを選んだのだろう。


 だがルティアが話し始める前に、ユキは一つの事実を突きつけた。


「ルティアさん。昨夜、地下三層の鍵が保管箱から消えていました。今朝戻っていましたが、鍵の位置が違った。以前は穂先が右を向いていた。今朝は左でした」


 ルティアの指が膝の上で強張った。


「先代の手記を回収しようとしましたね。私がそこに辿り着いたことを知っていた。ゼノンから聞いたんでしょう。手記を読ませたくなかった——記録者の末路を知られたくなかった。私が怖がって書き換えを止めるから」


 ルティアの顔から血の気が引いた。紫の瞳が揺れている。


「ユキ。正直に話すわ」


 ルティアは長い息を吐いた。紫の瞳を伏せ、膝の上で指を組んだ。指先が僅かに震えていた。


「私とゼノンは、同じ目的で動いている。帝国の体制転換。皇帝ヴァルトの退位と、記録者を利用する仕組みの解体。百年間続いてきた、記録者を道具にする仕組みを——」


「知っていました」


 ユキの声が、ルティアの言葉を静かに遮った。


 ルティアが顔を上げた。紫の瞳が見開かれている。夕日の光が瞳の中で揺れた。


「……何を」


「あなたがゼノンの共謀者だということ。エミル先輩を救った日の夜から、あなたの言動に矛盾がありました」


 ユキは台帳を開いた。スキル『記録』が焼きつけた記録の一覧。日付順に並んだ、ルティアの不審な言動。ページの端が折り目をつけてある——ユキがこの瞬間のために準備していた証拠。


「あの日、私は禁書について話しました。記録の書き換えの理論を、あなたは『宮廷魔導院の古い文献にある異端派の仮説』と説明した。だけど帰り際、あなたは私にこう言った——『世界は嘘を許さないかもしれない』」


「それが——」


「異端派の仮説を知っているだけなら、書き換えの代償の法則まで知っているのは不自然です。仮説は『事象の書き換えが理論上可能である』ことを述べているだけで、代償の存在には言及していない。理論を知っているのと、代償の実態を知っているのは別のことです。あなたは代償を——実際に起きた事例として知っていた。先代の記録者の事例を」


 ルティアは沈黙した。紫の瞳が揺れている。反論の言葉を探しているのか、それとも——反論する必要がないことを受け入れているのか。


「先日、ゼノンの名前を出した時のあなたの反応も記録しています。私がゼノンの名を口にする前に、あなたは『彼は危険よ』と断言した。名前を聞く前の反応です。呼吸パターンの変化も記録しています。嘘をつく時の生理反応と一致していました」


「そして——昨夜の皇子の件」


 ルティアの肩が震えた。


「あなたは書庫に駆け込んできて、私に皇子を救えと言った。だが私は皇子と面識がない。助ける理由がない。なのに——書き換えたいという衝動が、理由より先に来た。あれは私自身の意志ではなかった。あなたに誘導されたんです。私が断れないと知っていて——時間がないと焦らせて——考える余裕を与えずに書き換えさせた。三回目の書き換えを」


「私は——あなたを心配して——」


「ゼノンが皇子を生かしておく必要があったからでしょう。クーデター後の正統性のために。あなたは友人としてではなく、ゼノンの計画のために私を動かした」


「……」


「そして昨日、あなたの書斎で——ゼノン宛の書簡の下書きを見ました。『記録者の覚醒は予定より早く進行しています。三度の書き換えが既に——』」


 ルティアの目に涙が浮かんだ。だがユキは止めなかった。全てのカードを場に出す。


「三年間、あなたは私に親切でした。それは事実です。禁書区画の存在を教えてくれたのも、書き換えの理論を説明してくれたのも。でも——親切と利用の境界が、どこにあったのか。私には分かりません。あなたが私に理論を教えたのは、私が使えるようにするためだったのか。それとも、本当に私を信頼してくれたからなのか」


 言いながら、ユキの脳裏に一年半前の晩餐会の夜がよぎった。壁際で一人だったユキに、ルティアだけが歩み寄ってくれた。バルコニーで幸薄そうに笑いながら——「居場所がないのはお互い様ね」。


 ——あの時、ルティアは本当に孤独だったのだろうか。それとも——孤立した末席司書を見つけて、近づきやすいと判断したのだろうか。居場所がないという言葉は、共感だったのか。それとも——ユキの孤独を利用するための、最初の一手だったのか。


 ユキにはもう、分からなかった。スキル『記録』は涙の成分も呼吸パターンも記録するが、善意と計算の境界だけは映し出してくれない。


 長い沈黙が落ちた。金色の夕日が棚の列を横切り、二人の影を長く引き延ばしている。年代記の背表紙に刻まれた帝国の歴史が、二人を静かに見下ろしていた。


 ルティアが口を開いた。声は掠れていた。


「あなたの言う通りよ。最初から計画だった。ゼノンと私は、帝国が次の記録者を生み出すことを予測していた。万象の書庫に配属された、Eランクのスキル持ちの新人司書——あなたが禁書に触れるのは時間の問題だった。書庫の構造上、地下の巡回担当になれば禁書区画に接触する。私はその確率を計算していた」


「止めようとは思わなかったんですか。禁書に触れれば私がどうなるか、知っていたのに」


「……知っていたわ。先代の末路も。六十年前の手記の内容も——私はあの手記を、あなたより先に読んでいた。地下三層への道は、ゼノンから教えられた。先代の記録者の消滅を確認するために、二年前に一度入っている」


 二年前。ユキが書庫に配属される一年前だ。つまり——ルティアとゼノンは、ユキが来る前から準備していたのだ。


「でも——帝国を変えるには記録者の力が必要だった。百年分の歪みを解消するには、新しい記録者にもう一度書き換えてもらうしかない。そのために——」


「そのために、私に近づいた」


「ええ」


 ルティアは涙を拭わなかった。頬を伝う雫が、紫の外套に暗い染みを作っている。


「ユキ。ごめんなさい。私はあなたを利用しようとしていた。でも——あなたとお茶をした時間は、私にとっても大切だった。あなたの善意は本物だった。私はそれを知りながら、利用していた。最低よね」


 ユキは窓の外を見た。夕日が沈み始めている。帝都の屋根が赤から紫に変わっていく。この景色を、ルティアと一緒に見たことが何度もあった。


「ルティアさん。一つだけ聞かせてください」


「何」


「あなたが私に書き換えの理論を教えた時——私にそれを使わせたかったんですか。それとも、使わせたくなかったんですか」


 ルティアは長い間、答えなかった。窓辺に差す光が刻一刻と変わっていく。赤が紫に、紫が紺に。ルティアの顔が、光の変化とともに、少しずつ暗くなっていった。


「……両方よ。使えることを知ってほしかった。帝国を変えるために。でも、使わないでほしいとも思っていた。あなたに——先代と同じ道を歩んでほしくなかった。矛盾しているわね」


「矛盾しています」


「ええ。だから私は——あなたの友人を名乗る資格がない」


 ユキは台帳を閉じた。立ち上がる。夕日の最後の光が、ユキの横顔を照らした。


「友人だったかどうかは、私が決めます。ルティアさんが決めることじゃありません」


 それだけ言って、ユキは自分の席に戻った。窓辺の椅子に座り、帝都の夕暮れを見つめた。空の色が紺から藍に変わり、最初の星が瞬いた。


 台帳に記した。


 「ルティアの裏切り:確定。ゼノンとの共謀——二年前から準備。ユキの記録者覚醒は両者の計画内。先代の手記も既に読了済。ルティアの動機:帝国の体制転換。個人的な悪意はない。ただし利用の意図は明確。ルティアの後悔は本物に見えた。スキル『記録』は涙の成分までは分析できない——が、涙を流す前の鼻腔の膨張、声帯の緊張、瞳孔の拡大は、意図的な演技と整合しない。信頼の再構築:不可能。だが敵対も選択しない。残存する信頼できる人間:エミル先輩のみ」


 窓の外で、帝都の夜空に二番目の星が瞬いた。三番目が続く。四番目。次々と、暗い空に光が灯っていく。


 ユキは窓辺に頬杖をつきながら、星を数えていた。子供の頃、故郷の村で星を数えたことがある。誰と一緒だったか——もう思い出せない。子供時代の記憶の一部が空白になっている。代償で消えた記憶の一つだ。


 だが星の数え方だけは覚えている。一番明るい星から順に、指で位置を追っていく。書庫の窓枠が額縁になって、切り取られた空に星座が浮かんでいる。


 ルティアとは、もう以前のようには戻れない。だが敵にもならない。これから先、ルティアがどう生きるかは——ルティアが決めることだ。裏切りの記憶を抱えて生きるのか、帝国の改革に身を投じるのか。それはもうユキが関与することではない。


 友人と呼べるかどうかは分からない。だが三年間、隣にいた人間であることは事実だ。事実だけを記録する。感情は——記録の行間に残す。


 夜が深まりつつあった。窓辺の席で、ユキは台帳を胸に抱えて目を閉じた。

第九話をお読みいただきありがとうございます。


ルティアの裏切り。ゼノンとの共謀。計画の全貌。

そして——皇子を救わせたのも、彼女の誘導だった。


次回、全てを失ったユキが、最後の手がかりを掴みます。

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