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後継者の杯

Day 4——昼。

皇子が毒殺されかけた。

書き換えなければ死ぬ。だが——なぜ自分はこの少年を救いたいのか。

 その夜。帝都に非常鐘が響いた。


 宮城の方角から知らせが飛び込んできた。第一皇子アルベルトが晩餐の杯に毒を盛られ、意識不明の重体だと。毒は遅効性のもので、六刻以内に解毒しなければ命に関わると、宮城の治療師が診断した。


 ユキは書庫の窓辺で、その報せを聞いた。台帳が膝の上に開いている。先代の手記の記録。記録の隙間の分析メモ。そして——ルティアへの疑惑。全てが同時にユキの頭の中で渦巻いている。


 その時、ルティアが書庫に駆け込んできた。息を切らしている。紫の外套が乱れ、亜麻色の髪が頬に張り付いていた。


「ユキ——皇子が。聞いたでしょう。六刻以内に——」


「聞きました」


「助けられるでしょう? あなたの力なら。毒の経路を書き換えれば——」


 ルティアの目が潤んでいた。声が震えている。友人が友人に助けを求める、切実な表情。だが——ユキのスキル『記録』が、ルティアの呼吸パターンを自動的に記録していた。吸気と呼気の比率。瞬きの頻度。瞳孔の大きさ。データだけを見れば——緊張はしている。だが、それは「友人を心配する緊張」なのか、それとも「計画通りに動かせるか不安な緊張」なのか。


「……なぜ私に頼むんですか」


「あなたしかできないからよ。宮城の治療師では間に合わない。記録を書き換えれば——」


 ユキは自分の中に湧き上がる感情を観察した。皇子を助けたいという衝動。だが——なぜ? 皇子アルベルトとは面識がない。帝国の後継者問題はユキの管轄外だ。書庫の司書が宮城の政治に関わる理由は——ない。


 なのに、ペンを握ろうとしている。台帳に手を伸ばしている。書き換えたいという衝動が、理由より先に来ている。


 ——おかしい。この衝動は、私のものか?


 だが考える時間はなかった。六刻のうち、既に一刻が過ぎている。


 ユキは台帳に手を置いた。違和感を飲み込んで。


 三度目の書き換え。前回の教訓を活かす。人命を直接書き換えるのではなく、毒の記録を操作する。ペンを握り、目を閉じた。


 ——晩餐の杯は、毒殺者の手違いで別の杯と入れ替わっていた。皇子が口にしたのは通常の葡萄酒だった。毒は使用人の杯に入ったが、使用人は体調不良で杯を口にしなかった。


 慎重に、関連する記録を最小限に保つ設計。物理現象の改変に留める。人命の直接操作を避ける。前回の書き換えで学んだことだ。


 頭が割れた。比喩ではない。頭蓋骨の内側から灼熱の痛みが爆発した。視界が一瞬真白になり、次に真赤に染まった。両耳から血が出た。鼻血も同時に。口の中に鉄の味が——いや、味覚は既にないのだった。鉄の味がするという記憶だけが再生された。


 だが書き換えは成功した。ペンが紙の上を走り切った。抵抗はあったが、一度目の書き換えで感じたような完全な拒絶ではなかった。皇子の命という大きな変更だが、「毒が杯に入らなかった」という物理的な経路の変更に限定したことで、抵抗を最小限に抑えられた。


 代償は、二つの形で来た。


 一つ目。目の前に突然、エミルが現れた。三層から降りてきたのだろう。いつもの穏やかな顔で、いつもの銀縁の眼鏡をかけて——


「お前は……」


 エミルが口を開いた。そして一瞬、止まった。目の焦点が合っていない。ユキの顔を見ているが、認識できていない。


「お前は——誰だったか」


 ユキの心臓が凍りついた。世界が止まった。エミルの銀縁の眼鏡の奥の目が、ユキを見ているのに見ていない。知っている顔を思い出せない——あの表情。初対面の他人を見る時の、礼儀正しいが空虚な視線。


 三秒。永遠のような三秒が過ぎた。


「……ああ、ユキか。すまない、一瞬ぼんやりしてしまった。夜勤が続いているからな」


 エミルは申し訳なさそうに笑った。記憶が戻った。だがユキは笑えなかった。一瞬だけ。たった一瞬だけ——エミルはユキの名前を忘れた。ユキの存在が、エミルの記憶から滑り落ちかけた。


 存在希薄化の初期兆候。先代の手記にあった症状だ。「周囲の人間が、記録者の存在を一瞬だけ忘れる」。次の段階は「数分間忘れる」。その次は「一日忘れる」。最終段階は——永遠に。


 二つ目の代償は、ユキ自身の記憶の中にあった。


 子供の頃の記憶。帝都に来る前の、故郷の村での記憶。両親の顔は覚えている。家の間取りも、裏庭の井戸も。村の入口の看板も、隣家の犬の名前も。だが、村の図書室で見た——何かが、ない。


 図書室は覚えている。小さな木造の建物。窓が二つ。棚が三列。だが、その棚の間に——誰かが立っていたはずだ。大人の女性。ユキに本を手渡してくれた人。その人の顔が、声が、名前が——何一つ思い出せない。空白になっている。スキル『記録』が検索する。だが記録そのものが消えている。空白。空白。何もない。


 ——先代の記録者だったのかもしれない。消えゆく存在が、最後に残した幻影。もしそうなら、ユキは子供の頃から記録者の影を見ていたことになる。禁書に導かれたのではなく、先代の記録者の消失によって生じた「空席」に引き寄せられた——。


 その記憶が、今、代償として消された。結びつきを断たれた。


 翌日、皇子アルベルトが衛兵を連れて書庫を訪れた。二十歳の青年。金髪に碧眼。帝国の正統な後継者にふさわしい端正な顔立ち。だがその目は冷たかった。冬の湖のような、凍りついた碧。


「書庫の末席司書。俺の杯の記録に矛盾があると報告を受けた。治療師が言うには、解毒の痕跡があるのに、毒が入った形跡がないと。お前が関わっているのか」


「……いいえ」


「司書風情が宮城の事件に首を突っ込むな。お前が関わるとろくなことにならない。触るな。二度と——俺に関わるな」


 皇子が去った後、ユキは書庫の回廊を歩いた。足音が、左耳ではほとんど聞こえない。右耳でも、以前より音が遠くなっている気がする。


 そしてもう一つ、確認すべきことがあった。


 ルティアの疑惑。昨日のゼノンとの会話と、その後のルティアの不自然な反応。もう一段階、確認を進める必要がある。


 ユキはルティアの書斎を訪ねた。宮城の東にある小さな石造りの部屋。魔導師の研究室にしては簡素で、だからこそルティアらしいとユキは思っていた。紫の外套がかけられた衣紋掛け。窓辺の鉢植え。整然とした本棚。


 ルティアは不在だった。普段なら鍵がかかっている扉が、今日は半開きになっている。クーデターの気配を察して、急いで出たのかもしれない。


 ——入るべきではない。友人の部屋を無断で探るのは、裏切りに等しい行為だ。だが——もしルティア自身がユキを裏切っているのなら。


 書斎の机の上は整然としていた。魔導理論の書物が数冊と、筆記具。瑠璃色のインク壺が美しい光を放っている。引き出しの一つだけが、僅かに開いていた。閉め忘れたのか。それとも——急いで何かを取り出した後か。


 中を見た。書きかけの書簡があった。


 「ゼノン殿。記録者の覚醒は予定より早く進行しています。三度の書き換えが既に——」


 そこで文は途切れていた。下書きだ。送られてはいない。だが——十分だった。


 「予定より早く」。つまり、ユキが記録者になることは二人の「予定」の中にあった。「三度の書き換え」の回数を正確に把握している。ルティアは、ユキの書き換えを最初から監視していた。


 ユキは書簡を元通りに戻し、書斎を出た。扉を半開きのまま、来た時と同じ状態にして。


 台帳に記した。


 「書き換え三回目。皇子毒殺未遂を取り消し——毒の経路を変更し、皇子への到達を回避。代償:(一)エミル先輩がユキの名前を一瞬忘却。存在希薄化の初期兆候。先代手記の症状と一致。(二)ユキ自身の子供時代の記憶一部消失——故郷の図書室で会った人物の記憶が完全に空白化。先代の記録者だった可能性あり。(三)皇子からの拒絶。ルティアの書斎にてゼノン宛書簡下書きを発見。『記録者の覚醒は予定より早く進行』——ルティアはゼノンの共謀者であり、ユキの記録者としての活動を監視・報告していた。裏切り:半確定。確証はまだ不十分だが、物的証拠あり」


 左耳の耳鳴りが、一段と強くなっていた。頭の奥で、高い金属音が鳴り止まない。

第八話をお読みいただきありがとうございます。


三度目の書き換え。代償は母の形見と子供時代の記憶。

ユキを突き動かしたのは——本当に善意だったのか。


次回、裏切りが明らかになります。

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