書き換えの誘惑
Day 7——真夜中。
一人を救うために、記録を書き換える。
その代償が何か、ユキはまだ知らない。
帝都の朝は、昨日と変わらない顔をしていた。
白い石畳を踏み、ユキは万象の書庫から外に出た。正門の前には花売りの老婆がいつもの場所に座り、大通りを行き交う馬車の轍が朝露に濡れている。何もかもが昨日と同じだ。エミルが死んだことだけを除いて。
ユキは台帳を胸に抱えたまま、大通りを南に向かって歩いた。目的地は宮城の東にある茶房「銀の葉」。宮廷魔導師のルティアと、月に二度ほど顔を合わせる場所だった。
ルティアはユキにとって唯一の友人と呼べる存在だった。宮廷魔導師という肩書に似つかわしくない柔らかい物腰で、末席司書のユキを対等に扱ってくれる希少な人物である。
出会いは一年半前の宮廷晩餐会だった。帝国図書館の代表として末席に座らされたユキは、上位司書たちの輪に入れず、壁際で一人グラスを持て余していた。宮廷魔導師も学閥の派閥争いが激しいらしく、ルティアも孤立していた。二人は偶然、同じバルコニーに出て鉢合わせた。
「あなたも逃げてきたの?」
ルティアは幸薄そうに笑いながら言った。
「居場所がないのはお互い様ね。——紅茶のほうが好きでしょう? 今度ゆっくり飲みましょう」
それが月に二度の茶房の始まりだった。
茶房の奥、窓際の席にルティアは既に座っていた。長い亜麻色の髪を一つに束ね、深い紫の外套を纏っている。二十四歳。宮廷魔導師としては異例の若さだ。
「ユキ。……顔色が悪いわね」
ルティアの鷹のように鋭い目が、ユキの顔を捉えた。
「少し、眠れなくて」
「座って。紅茶を頼んであるわ」
ユキは席についた。温かい紅茶の湯気が立ち上るのを見つめながら、どこから話すべきか考えた。禁書区画のこと。黒い本のこと。スキルの変容。そしてエミルの死。
——全部、話そう。
「ルティアさん。聞いてほしいことがあります」
ユキは声を落として話し始めた。禁書区画で封印された本に触れたこと。スキル『記録』が暴走し、帝国の歴史が流れ込んできたこと。最終ページの一行——『この書を開いた者が、次の記録者となる』。
ルティアは紅茶のカップを持ったまま、一言も挟まずに聞いていた。
「そしてその夜、エミル先輩が死にました。公式には棚の老朽化による事故死ですが、私のスキルが記録した死亡推定時刻と、報告書の記載が食い違っています」
ユキは台帳を開き、スキルが記録した数値をルティアに見せた。
「一刻半の差異。そして報告書から四頁目が切り取られていました」
ルティアのカップが、僅かに傾いた。紫の瞳が細くなる。
「……記録者、か」
その呟きは、独り言のようだった。
「知っているんですか」
「知らないわ。でも——理論としては聞いたことがある」
ルティアは紅茶を置き、細い指を組んだ。窓から差し込む午前の光が、その指に淡い影を落としている。
「宮廷魔導院の古い文献に、『記録の書き換え』に関する記述がある。魔導理論の異端派が唱えた仮説でね——世界は事象そのものではなく、事象の記録によって規定されている、と。つまり、記録を変えれば事象も遡って変わる、と」
「事象が……変わる?」
「過去に起きたことの記録を書き換えれば、それが起きなかったことになる——理論上は。ただし」
ルティアの声が一瞬だけ硬くなった。
「それは禁忌に分類されている研究よ。実証した者はいない。いたとしても、記録が残っていないわ」
皮肉な話だ、とユキは思った。記録を書き換える能力の記録が、残っていない。
「もし……私がそれをできるとしたら」
「できるの?」
「わかりません。でも、禁書に触れた時——何かが変わった気がするんです。スキルが、記録するだけじゃなくて、記録を……操作できるような」
ルティアは長い沈黙の後、ユキの目をまっすぐに見た。
「やってみるの?」
「エミル先輩を、助けたいんです」
——それは嘘ではなかった。エミルは死ぬべきではなかった。棚の老朽化ですらなく、誰かに殺されたのだとしたら、なおさら。
ルティアは何かを言いかけたが、飲み込んだ。代わりに小さく頷いた。
「気をつけて、ユキ。記録を変えるということは、世界に嘘をつくことよ。世界は嘘を許さないかもしれない」
その言葉の重さを、ユキはまだ理解していなかった。
書庫に戻ったのは午後の二刻だった。
三層の現場は既に片付けられていた。倒壊した棚は撤去され、エミルの机だけが空の席として残されている。花が一輪、誰かが供えたのだろう。
ユキは自分の席に座り、台帳を開いた。
昨夜、スキル『記録』が焼きつけたエミルの死の記録が、文字として台帳に浮かび上がっている。時刻、場所、状況、全ての詳細。
ユキは深く息を吸った。手のひらが汗で湿っている。
——書き換える。エミル先輩は死ぬべきではなかった。あの優しい先輩が、あんな形で消えるのは間違っている。
右手を台帳の上に置き、目を閉じた。スキル『記録』に意識を集中する。普段は受動的——見たものを自動的に記録するだけのスキルが、今は違う方向に動こうとしていた。記録を読むのではなく、記録に書くのだ。禁書に触れた時に感じたあの感覚。文字が流れ込んできたのとは逆方向に、文字を送り込む。
台帳の文字が、視界の裏側で輝き始めた。
——エミル先輩は、棚の倒壊に巻き込まれなかった。
意識の中で、記録の文字を一つずつ消していく。「死亡」を「未遂」に。「圧死」を「間一髪で回避」に。具体的に。正確に。スキルが求める精度で。
——棚が傾いた瞬間、エミル先輩は一歩後ろに下がっていた。棚は通路に倒れたが、彼はその下敷きにはならなかった。
頭の奥が、昨日禁書に触れた時と同じように熱くなった。額に汗が浮く。こめかみの血管が脈打つのが分かる。
だが止めなかった。
——エミル先輩は、軽い打撲だけで済んだ。その後、疲労のため自分の机で眠っている。
書き換えが、完了した感覚があった。文字が収まるべき場所に収まった、という奇妙な確信。
ユキは目を開けた。
最初に見えたのは、台帳のページだった。そこに記録されていたエミルの死の記述が、消えていた。代わりに「棚の倒壊(人的被害なし)」と記載されている。
次に見えたのは、三層の奥——エミルの机だった。
花は消えていた。そして、机に突っ伏して眠っている人影があった。
銀縁の眼鏡。痩身の体。穏やかな寝息。
——エミル先輩。
生きている。
ユキの目から涙が流れた。声は出さなかった。ただ、自分の席で、両手で口を押さえたまま泣いた。
その時——スキル『記録』が、ユキにだけ見える光景を映し出した。
書き換え後の世界の記録。エミルが棚の倒壊を免れた翌朝、窓辺で紅茶を飲みながら笑っている。「昨日は危なかったな」と新人司書に話す。穏やかで、温かい、あたりまえの朝。ユキがいつも隣で見ていた、エミルの日常の光景。
——ああ。この光景を守りたかったんだ。
幻視は消えた。だがその数秒間だけ、ユキは幸福だった。記録者の力は代償を求める。だが同時に——守りたいものを守れた瞬間の、別の可能性を見せてくれる。それは呪いであると同時に、恩恵だった。
その時、台帳の文字が動いた。
比喩ではない。ユキが書き換えた記録の文字列が——逆向きに流れ始めた。右から左へ書かれた文字が、左から右へ巻き戻されていく。一瞬だけ。まるで台帳そのものが書き換えに抵抗するように、インクの軌跡が紙の上を逆走した。
ユキは台帳から手を離した。文字は元に戻っている。「棚の倒壊(人的被害なし)」。書き換え後の記録のまま。だが——あの一瞬、文字が逆流した感覚が指先に残っている。紙に触れた指先が、微かに痺れている。インクが指の中に染み込もうとしたような——不快な残像。
何かを差し出した。ユキの中の何かが、書き換えと引き換えに消費された。だが何を差し出したのか——今はまだ分からなかった。
そして——書庫の中央にある大時計が、奇妙な音を立てた。
かちり、かちり、と。秒針が一瞬だけ逆回転し、また元に戻った。大時計が刻む時間が、数秒だけずれた。
ユキはそれに気づいたが、気にする余裕がなかった。エミルが生きている。それだけで十分だった。
だが、窓の外から音が聞こえた。
重い、何かが崩れる音。遠くで響く石材の衝突。悲鳴のような——いや、確かに悲鳴だ。書庫の外、帝都の街路のどこかで、何かが起きている。
ユキは窓辺に駆け寄った。
南の方角——書庫から三区画ほど離れた場所で、土煙が上がっていた。建物の一部が崩落したように見える。衛兵たちが走っていく。
ルティアの声が、脳裏に蘇った。
——「世界は嘘を許さないかもしれない」
ユキの手が、震え始めた。
三層の奥では、エミルがまだ静かに眠っている。書庫の大時計は何事もなかったかのように時を刻んでいる。窓の外の土煙だけが、ゆっくりと帝都の空に溶けていった。
第三話をお読みいただきありがとうございます。
書き換えは成功した。だが台帳の文字が逆走し——何かが消えた。
次回、書き換えの「辻褄合わせ」が帝都を襲います。




