記録されなかった死
Day 7——夜。
帝国図書館の記録が、一つ書き換わった。
その夜、万象の書庫は静まり返っていた。
夜間巡回は二人一組が原則だが、今週はユキとエミルの当番だった。エミルがまだ来ない。昼間のあの蒼白な顔が、ユキの記憶に焼きついたまま離れなかった。
——「地下に、行ったのか」
あの声の掠れ方。怯えたような目。エミルは何かを知っていた。禁書区画について。あの黒い本について。
ユキは自分の席で台帳を開いたまま、ランタンの火をぼんやりと見つめていた。右手の震えは止まっている。頭痛もない。地下で起きたことが、まるで夢のように思えてきた。
ふと、奇妙な感覚があった。この席に座った時——何か大事なことを忘れている気がした。昨日、三十七番棚の前で誰かに会ったような。いや、そんなことはない。昨日の巡回は一人だった。台帳にもそう記録されている。だが——この違和感は、何だろう。
頭を振って考えを追い払った。疲れているのだ。禁書に触れた後遺症かもしれない。
だが、台帳には確かに記録されていた。地下二層、禁書区画、鎖で封印された黒い本。スキル『記録』は、嘘をつかない。
時計が二十一刻を打った。エミルの遅刻は、もう半刻を超えている。
「エミル先輩……」
ユキは台帳を閉じ、ランタンを手に立ち上がった。書庫の規則では、夜間巡回の不参加は事前申告が必要だ。エミルがそれを怠るはずがない。彼は規則に真面目な人だった。
地上二層の回廊を抜け、中央の螺旋階段を降りる。エミルの持ち場は地上三層——法典と外交文書の棚だ。まずそこを確認しようと思った。
三層に着くと、いつもなら規則正しく並んでいる棚の列が、奇妙に歪んで見えた。
通路の奥で、何かが倒れている。
ユキの足が止まった。ランタンの光が届かない暗がりから、紙の匂いとは違う——鉄の匂いが漂ってきた。
「エミル先輩——」
声が裏返った。
書庫棚が、一基丸ごと倒壊していた。人の背丈の倍はある重厚な樫の棚が、まるで切り倒された大木のように通路を塞いでいる。床に散乱した法典の間から、見覚えのある銀縁の眼鏡が覗いていた。
割れていた。
ユキは駆け寄った。棚の下に、エミルが横たわっていた。胸から下が圧し潰されており、銀縁の眼鏡は右のレンズが砕け、その奥の目は——何も映していなかった。
スキル『記録』が、勝手に起動した。
視界の隅で文字が走る。時刻。現場の状態。倒壊した棚の角度。散乱した本の数。エミルの体の位置。全てが、台帳に記入するかのように正確に刻まれていく。
ユキは声を上げなかった。上げられなかった。膝が崩れ、冷たい石の床に手をついたまま、スキルが記録し続けるのを、ただ見ていた。
——やめて。
だが『記録』は止まらない。死の細部まで、残酷なほど正確に記憶に焼きつけていく。
三刻後、書庫の広間にヘルマン主任が到着した。
分厚い体躯に無精髭を蓄えた五十代の男だ。普段は怒鳴り声が回廊に響くほどの人物だったが、この夜は異様なほど静かだった。
「棚材の老朽化による倒壊事故、か」
ヘルマンはそう呟いて、手元の報告書に何かを書き込んだ。隣には帝都の衛兵が二名、形式的な立会いとして立っている。
「末席のユキだな。発見時の状況を報告しろ」
「……二十一刻半頃、三層の巡回で倒壊を発見しました。エミル先輩は棚の下に……」
「それだけか」
ヘルマンの目が、一瞬だけ細くなった。
「はい。それだけです」
「よろしい。お前は今夜の残りは休め。巡回は俺が引き継ぐ」
解散を言い渡された後、ユキは自分の席に戻った。だが、座って台帳を眺める気力はなかった。
違う。何かが、違う。
スキル『記録』が焼きつけた現場の映像が、頭の中で繰り返し再生される。倒壊した棚の角度。破損のパターン。そして——時刻。
ユキが現場に到着したのは二十一刻半。だがスキルが記録したエミルの体温、血液の凝固状態から逆算すると、死亡推定時刻は二十刻前後だった。
つまり、エミルは二十一刻の鐘が鳴る前に死んでいた。
ヘルマン主任の報告書には、「二十一刻半頃、棚の老朽化により倒壊。巡回中のエミルが巻き込まれ死亡」と記載されていた。ユキはちらりとそれを読んだ時、その一文に引っかかった。
巡回中。だが、エミルは夜間巡回に来ていなかった。ユキは半刻以上待っていた。エミルは巡回の前に、一人で三層に来ていたことになる。
——何をしに?
もう一つ。棚の倒壊の角度だ。老朽化で自然に倒れたなら、棚は前方に傾き、根元を軸にして倒れるはずだ。だがスキルが記録した映像では、棚の根元が床から浮き上がっていた。まるで、底面を何かに押し上げられたように倒れている。
あの棚は、倒れたのではない。倒されたのだ。
ユキの手が、再び震え始めた。
翌日——と呼ぶには早すぎる深夜の刻限、ユキは書庫の記録室に忍び込んだ。
記録室は地上一層の奥にあり、書庫で起きた全ての出来事——人事、事故、修繕——の記録が保管されている。ユキは末席司書として何度もここに出入りしていたが、深夜に一人で来るのは初めてだった。
エミルの死亡報告書の綴じ込みは、棚の最上段に置かれていた。まだ墨が乾ききっていない。
ユキはそれを手に取り、一頁ずつ確認していった。スキル『記録』が、各頁の内容を自動的に焼きつけていく。
表紙。事故の概要。現場の見取り図。衛兵の立会い記録。ヘルマン主任の署名。
そして——。
三頁目と五頁目の間に、綴じ穴だけが残っていた。
四頁目が、物理的に抜き取られている。
ユキのスキルが、その空白を記録した。綴じ穴の繊維の断面。破られたのではなく、刃物で、一頁だけ切り取られていた。丁寧に。正確に。発見されにくいように。
消された頁には、何が書かれていたのか。
ユキは報告書を棚に戻し、次にエミルの机へ向かった。三層の隅にある小さな執務机。引き出しには鍵がかかっていたが、スキル『記録』が鍵穴の構造を読み取り——いや、違う。ユキがそう確認しようとした瞬間、引き出しが僅かに開いていることに気づいた。鍵が壊されていた。誰かが先にここを探っている。
中には、エミルの私物がいくつかと、折り畳まれた古い紙片が残されていた。
広げると、それは見取り図だった。万象の書庫の地下階——地下一層だけでなく、地下二層の禁書区画、さらにその下にある区画の記載まである。地下三層。そんな場所があるとは、ユキは聞いたことがなかった。
見取り図の右下に、エミルの筆跡で小さく走り書きがあった。
——「ユキに渡すこと。先代の記録者の手記、地下三層北壁」
先代の、記録者。
禁書のあの一行が蘇る。『この書を開いた者が、次の記録者となる』。
エミルは知っていた。記録者の存在を。そして、ユキが次の記録者になったことを。だから昼間、あんな顔をしていた。
だからエミルは、ユキが禁書に触れる前に、この見取り図を渡そうとしていたのではないか。だが間に合わなかった。
そして今夜、エミルは死んだ。
棚の老朽化による、事故死。
ユキは見取り図を丁寧に畳み直し、台帳の裏表紙に挟んだ。記録室を出て、窓辺の自分の席に戻る。
窓の外には、帝都の夜景が広がっていた。宮城の尖塔に灯された魔導灯が、暗い空に青白い光を投げかけている。昼間に見た金色の屋根は、夜の闇の中では、ただ黒い影でしかなかった。
エミル先輩は、何を見たのだろう。
そして——消された報告書の四頁目には、何が書かれていたのだろう。
ユキの台帳の最後のページに、スキルが自動的に記録した一行がある。
「死亡推定時刻:二十刻。報告書記載:二十一刻半。差異:一刻半」
この差異を、誰が作ったのか。
ユキはランタンの火を消した。万象の書庫の夜が、音もなく深まっていった。
第二話をお読みいただきありがとうございます。
「記録されなかった死」——公式記録にはない死を、ユキだけが覚えている。
次回、ユキは禁じられた力に手を伸ばします。




