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万象の書庫は燃えない

Day 1——その後。


帝国は形を変えて存続した。ゼノンの帝国。嘘のない記録の上に立つ、新しい国。


誰もユキを覚えていない。だが万象の書庫の片隅に、著者不明のノートが一冊——ひっそりと眠っている。

 帝国は形を変えて存続した。崩壊の縁から、踏みとどまった。


 ゼノンのクーデターは成功し、皇帝ヴァルトは退位した。枢密院は解体され、新しい統治機構が作られた。帝都は数ヶ月の混乱を経て、再び秩序を取り戻しつつあった。ゼノンは新設された改革評議会の長に就任し、帝国の再建を進めている。


 だがゼノンの改革は、当初の計画よりも困難を極めていた。記録に仕込んでおいた改竄が無効化されていたからだ。百年分の歪みを利用して権力移行を正当化する——その近道が消えていた。ゼノンは嘘なしで帝国を建て直さなければならなかった。


 空には月が一つ。白い月だけが、帝都の夜を照らしている。第二の月——常夜月は、あの日以降、消えていた。記録者が消えた時、書き換えの歪みの一部が解消され、物理法則への波及も消滅した。


 万象の書庫は無傷だった。クーデターの混乱の中でも、書庫には一本の剣も振るわれなかった。蔵書は全て無事。棚は整然と並び、巡回の記録は途切れることなく続いている。帝国が滅びても書庫は残る——そう言った司書がいたことを、誰も覚えていない。


 ただ、二層の窓辺の席だけが、なぜか空いていた。


 誰もその席を使おうとしなかった。理由は分からない。他の席は全て使われているのに、あの窓辺の席だけは、いつも空いている。座ろうとした新人司書が一人いたが、椅子に手をかけた瞬間、何かに押されたように手を引いた。「何だか、誰かの席のような気がする」と言って。


 エミルは主任司書に昇格した。ヘルマンの後任として、書庫の管理を一手に引き受けている。穏やかな人柄は変わらず、後輩からの信頼も厚い。毎朝、書庫の全ての棚を巡回し、台帳に記録をつけている。几帳面な字で。黒いインクで。


 だが時々、エミルはある場所で足を止めることがあった。三十七番棚と三十八番棚の間。あるいは、窓辺の空席の前。何かを思い出そうとするように、額に手を当てて考え込む。だが何も思い出せない。


 ルティアは宮廷魔導師の職を辞した。帝都の外れに小さな書斎を構え、魔導理論の研究を続けている。時折、万象の書庫を訪ねてくる。何を探しているのかは自分でも分からないと言っていた。棚の間を歩き、蔵書の背表紙を指先でなぞり、何かを探す。だが見つからない。


 書庫に来るたびに、胸が苦しくなるのだとルティアは言った。理由は分からない。記録にも記憶にも、原因は見つからない。だが——誰かに謝らなければならない気がする。誰かを裏切った気がする。名前も顔もないのに、罪悪感だけが胸の底に居座わり続けている。消えない。記録には何もないのに、ただ——痛い。


 ある日、エミルは書庫の記録室で、見覚えのないノートを見つけた。


 革装丁の小さなノート。記録室の棚の片隅に、他の台帳とは少し離れて置かれていた。表紙には「七日間の記録」と書かれている。著者の欄は空白。インクの色が通常の黒ではなく——灰色がかっている。


 ——「お前の台帳、最後の数ページだけインクの色が違う。何を書いているんだ」


 誰かにそう言ったことがある。いつ、誰に、なぜ。思い出せない。だが——言ったことだけは覚えている。記憶の中に、声だけが残っている。


 ——「もし、いつか——著者のないノートを見つけたら——捨てないでください」


 誰かが、そう言った。小さな声で。泣きそうな声で。その声を聞いた時、エミルは何かを約束した気がする。だが何を約束したのか。誰にしたのか。


 ページを繰った。丁寧な、やや小さい字。エミルはなぜか、この字に見覚えがあるような気がした。隣の席で、毎日台帳に記録をつけていた人間の字。だが——隣の席には、誰もいなかったはずだ。あの席は、ずっと空いていた。


 エミルは無意識に、自分の台帳の裏表紙を撫でた。そこには——空白があった。何かが書かれていた痕跡。インクは消えている。だが革に窪みが残っていた。短い言葉を、深い筆圧で刻んだ痕跡。何と書いたのかは読めない。だが——この窪みは、自分が刻んだものだ。指先がそれを覚えている。心臓がそれを覚えている。


 ——文字が消えても、窪みは消えない。


 誰かにそう言ったことがある。いつ、誰に。思い出せない。だが——この窪みに触れると、胸の奥が痛む。


 内容は、七日間の出来事を記録したものだった。禁書。書き換え。ナラティブ・デット。記録の隙間。裏切りと赦し。代償の一覧。味覚消失。聴覚低下。形見の消失。記憶の空白化。存在の希薄化。


 そして——自分自身を消す決意。


 最後のページに書かれた一文。


 『これを読んでいるあなたへ。私はここにいました。あなたの隣の席で、あなたと同じ書庫の空気を吸って、あなたと同じ夜間巡回をしていました。あなたが覚えていなくても、私はあなたを覚えています。だからこの記録を残します。誰にも読まれなくても——記録は、消えない』


 エミルはノートを閉じた。眼鏡を外し、目を拭った。理由は分からない。ただ何かを——誰かを——忘れてはいけないような気がした。胸の奥で、空白が疼いている。名前のない空白。顔のない空白。


 ルティアが書庫を訪ねてきたのは、その数日後のことだった。いつものように。何を探しているのか分からないまま。


「エミル。一つ聞きたいことがあるの」


「何だ」


「この書庫に——私が知っていた誰かが、いなかった? 末席の司書で、記録のスキルを持っていて——」


 ルティアの声が詰まった。紫の瞳に涙が浮かんでいた。


「思い出せないの。名前も、顔も。でも、ここに来ると——胸が苦しくなるの。私は何かひどいことをした気がする。誰かに。赦してもらえないことをした気がする。でも——赦してもらえないのではなく、赦す相手がいないの。最初から、いなかったかのように」


 エミルは窓辺の空席を見た。


「俺もだ。誰だったかは分からない。だがこの席に、誰かが座っていた。毎朝、俺より先に来て。毎晩、俺より後に帰って。巡回台帳をつけていた」


 二人は空席を見つめたまま、しばらく黙っていた。帝都の夕暮れが窓から差し込み、空席に長い影を落としている。誰もいない席に、誰かの影だけが残っているように。


 書庫の正門を出た時、花売りの老婆が声をかけた。毎日、正門の前で花を売っている老婆。


「お兄さん、今日はお嬢ちゃんと一緒じゃないのかい」


 エミルは足を止めた。


「お嬢ちゃん?」


「いつも一緒に出てくるだろう。台帳を抱えた……ええと……」


 老婆は首を傾げた。皺だらけの顔に、困惑の表情が浮かんでいる。


「おかしいねえ。名前が出てこない。顔も……思い出せないよ。でも確かにいたんだ。いつもここを通る時、小さく頭を下げてくれた子がいたんだ。私が花を勧めると、匂いだけ嗅いで——あれ、なんでだろう。味がしないって言ってたねえ。味じゃなくて匂いなのに、味がしないって。変な子だった」


 老婆は首を傾げ、それから思い出したように続けた。


「あとね、おかしなことがあってね。あの子が最後に買っていった花——白い水仙花。あれがまだ枚れていないんだよ。もう半年になるのにねえ。水もやってないのに、白いままさ。花屋を五十年やってるけど、そんな花は見たことがないよ」


 味がしない。味覚が消えた人間の言葉。


 エミルの心臓が跳ねた。台帳を抱えた。小さく頭を下げる。書庫の窓辺の席。——そして、老婆が言った「味がしない」。その言葉が、理由も分からないまま胸を突いた。


 思い出せない。名前も、顔も。だが——いた。確かに、いた。


 エミルは書庫の正門に戻った。振り返った。万象の書庫の巨大な石壁が、夕暮れの光を浴びて金色に輝いている。何百年も変わらない姿。何百年も守り続けてきた記録。嘘で歪んだ記録も、真実だけを伝える記録も、等しく。


 その記録の中のどこかに——著者不明のノートが、ひっそりと眠っている。七日間の全てが書かれたノート。著者の名前が空白のまま。


 だがエミルは、ノートの最終ページの余白に、奇妙なメモを見つけていた。


 「三十八番棚、防虫香交換予定日:帝国暦八百三十一年四月十五日」


 防虫香の交換日。それは——司書にしか書かない情報だ。しかもこの日付は、まだ来ていない。来月の日付だ。消えた人間が、未来の書庫の管理まで気にしていた。


 エミルは三十八番棚に行った。理由は分からない。ただ——行かなければならない気がした。


 棚板の裏側に——文字があった。


 インクではない。鵞ペンの先で、木の表面に細く引っ掻いた傷。短い、たった一言。


 ——ありがとう。


 文字は薄い。蝋燭を近づけてようやく読める。だが確かにそこにある。インクなら記録の消去で消えるはずだ。だがこれは物理的な傷だ。木に刻まれた痕。記録ではなく——痕跡。記録を超えたもの。消せないもの。


 エミルは棚板の裏に指先を当てた。「ありがとう」の傷をなぞった。


 ——お前は、最後にここに来たのか。最後の巡回で。防虫香の確認をして。そしてこの棚の裏に——。


 思い出せない。名前も、顔も。だが——この傷を残した人間は、この書庫を愛していた。


 後日。エミルは新人司書に巡回の作法を教えていた。三十七番棚の前で足を止め、何の気なしに言った。


「この棚はな、蔵書の配列が西日で傷むから、夕方の巡回で必ず遮光幕を確認するんだ。それから——七百四十二年の農業年鑑は、触ると昔の書記官が見えるぞ。穏やかな爺さんだ。豊作の年を記録していてな、筆に喜びが滲んでいる」


 新人が首を傾げた。


「主任、それ……どこで知ったんですか」


 エミルの手が止まった。どこで知った? 誰かに教わった気がする。隣の席で台帳をつけていた——いや、隣の席は空いていたはずだ。遮光幕の確認を教えてくれたのは誰だ。農業年鑑の幻視を教えてくれたのは——。


「……分からない。だが、知っている」


 エミルは眼鏡を外した。目を拭った。理由もなく涙が出た。知っているのだ。教わっていないはずの作法を。見たことがないはずの幻視を。記録は消えた。記憶も消えた。だが——魂が覚えている。隣にいた誰かの息遣いを、身体が覚えている。


 いつかまた、誰かが手に取る日まで。記録は、消えない。そして——記録を超えた痕跡も、消えない。


 万象の書庫は、今日も燃えない。


最終話をお読みいただき、ありがとうございました。


記録は消えない。たとえ記録者が消えても——記録だけは残る。

そして、記録を超えた痕跡も、消えない。


文字が消えても、窪みは消えない。

花は枯れない。

魂は、覚えている。


この物語が、あなたの中に何かを残せていたなら——それは、記録を超えた何かです。


全十七話、お付き合いいただきありがとうございました。

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