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消えゆく記録者

Day 1——朝。最後の日が来た。


帝国の百年分の歪みを、隙間から一つずつ中和する。

一件ごとに身体が削られていく。右手が消え、聴覚が消え、視界が欠ける。


そして最後に——自分自身を、記録から消す。

 夜が明けていた。


 ユキは万象の書庫の二層、いつもの窓辺の席に座っていた。台帳を開き、ペンを持っている。窓の外には帝都の朝がある。二つの月は沈み、太陽が昇っている。だが空気が違う。昨日までとは明らかに異なる、張り詰めた静寂。クーデターは収束しつつあった。ゼノンの部隊が帝都を掌握し、皇帝不在の宮城には新しい旗が掲げられている。


 書庫の中は静かだった。司書たちは一層に集まっている。エミルが彼らの面倒をみている。普段通りの仕事を——巡回台帳の記入、蔵書の点検——することで、日常を維持しようとしている。


 ユキは一人で二層にいた。窓辺の、いつもの席。台帳のノートの表紙を見つめた。「七日間の記録 著者:ユキ」。


 最大規模の書き換え——の前に、やるべきことがある。


 ユキは台帳を開いた。七日間で記録した全ての矛盾。帝国の記録に残る書き換えの隙間。先代の手記から読み取ったパターン。エミルと共に分析した法典の矛盾。全てが、この台帳に記録されている。


 ——帝国の歪みを、隙間から中和する。自分が消える前に。


 右手はもうほとんど感覚がない。昨日の中和で指先から失われた触覚が、手首まで広がっている。だがペンは握れる。握る力がなくても——記録者の意志で、インクは動く。


 一件目。帝国暦八百十一年の東方国境条約の日付矛盾。批准日を両文書の間を取る形で中和した。代償——右手首から先が完全に透明化した。戻ってこない。


 二件目。七百九十年の穀物収穫報告。年代記と財政報告書の矛盾。中和。代償——左手の小指の感覚が消えた。


 三件目。四件目。五件目。ユキは機械のように中和を続けた。一件ごとに身体が削られていく。六件目で左耳の聴覚が完全に消えた。七件目で右耳も半分になった。八件目——視界の左端が暗転した。


 だが手は止めなかった。


 十二件。先代の手記と照合し、帝国の記録から書き換えの矛盾を十二件中和した。ゼノンの改竄五件を含む。百年分の歪みの全てではない。だが——帝国の骨格を支える記録の矛盾は、これで大部分が解消された。


 残ったのは、ユキ自身が生み出した歪みだけだ。エミルを救った書き換え。西棟崩落の書き換え。皇子の毒殺未遂の書き換え。三回分の嘘と、その代償の連鎖。


 これだけは、隙間では消せない。ユキ自身が「嘘」の発生源だから。発生源を消すしかない。


 ——だから、消える。万能の解決策ではない。帝国の歪みは隙間で直した。残ったのは、私自身の歪みだけ。それを精算する——最後の記録整理。


 怖くないと言えば嘘になる。消えるということは、死とは違う。死んだ人間は記憶に残る。墓になり、花になり、誰かの涙になる。弔いの言葉を受け、記録に名前が刻まれる。だが消えた人間は、何も残らない。記憶も、影も、座っていた席の温もりも。誰の涙にもならない。泣くべき対象を、誰も覚えていないから。


 それでも、台帳だけは残るかもしれない。先代の手記がそうだったように。著者が消えた後も、手記は残っていた。ただ著者の欄が空白になっていただけだ。六十年間、誰もその手記を読まなかった。だが確かにそこにあった。地下三層の隠し部屋に。


 右手を台帳に置いた。ペンを握る。指先がもう半透明になっている。ランタンの光を、僅かに透過している。存在希薄化の最終段階への入口。


 ——私がエミルを殺すのは、彼を救いたいからだ。


 先輩は生き続ける。だがユキを知っていた先輩は、今日ここで死ぬ。三年間の記憶。夜間巡回の足音。パンを差し出す手。「よく頑張ったな」と言ってくれた声。その全てを持ったエミルが死に、何も知らないエミルだけが残る。


 それが——私がエミルにすることだ。救うために、殺す。


 目を閉じた。


 ——私は、いなかった。


 その一文を、世界の記録に書き込む。末席司書ユキは存在しなかった。書庫には、その席はなかった。禁書に触れた者はいなかった。記録者は、いなかった。七日間の書き換えは——起こらなかった。


 前回の書き換えでは痛みがあった。頭蓋骨が割れるような灼熱。今回は、それすらなかった。


 代わりに、体が軽くなった。


 指先から感覚が消えていく。痛みではなく、溶けていくような——温かい水に浸かった時のような、身体の輪郭が曖昧になっていく感覚。指先から始まった透明化が、指を、手首を、前腕を伝って広がっていく。ゆっくりと。だが確実に。


 ペンがユキの指をすり抜けた。指がペンを握る力を失っている。物理的な存在としてのユキが、世界から退いていく。


 書庫の窓辺から差し込む光が、ユキの体を透過して台帳の上に落ちている。影がない。ユキの影が消えている。椅子に座っているはずの場所に、人影がない。


 視界はまだある。スキル『記録』が、最後の瞬間まで記録し続けている。書庫の棚。二層の回廊。古い紙の匂い——まだ嗅げている。味覚は消えた。聴覚も半分消えた。だが嗅覚は——最後まで残ってくれた。七日間、毎日吸ってきた空気。紙とインクと、古い革装丁の匂い。


 この匂いが、こんなにも愛おしいものだったとは知らなかった。当たり前に思っていた。毎朝、書庫に入って最初に鼻を満たすこの空気。帰る時に、外套に染み込んだこの残り香。それを毎日繰り返す日常が、ユキの人生の全てだった。


 音が遠のいていく。右耳も。世界の全てが水の底に沈んでいくように、静かに消えていく。石壁の反響も、風の音も、大時計の振り子の規則正しいリズムも。


 三層の方角から、エミルの声が聞こえた。遠い。遥かに遠い。でも——聞こえる。


「ユキ? ユキ、どこにいるんだ」


 ——まだ覚えている。私の名前を。あと数秒で忘れるだろう。でも今この瞬間は、まだ。


 ルティアの声も聞こえた。一層から階段を駆け上がってくる足音。「ユキ——待って——」


 その声が、最後に聞いたルティアの声になるのだと分かっていた。


 ユキは最後の力で台帳にペンを走らせた。指は半透明で、ペンを握る感覚すら曖昧だった。だが記録者として——最後に、一行だけ。


 『これを読んでいるあなたへ。私はここにいました。あなたの隣の席で、あなたと同じ書庫の空気を吸って、あなたと同じ夜間巡回をしていました。あなたが覚えていなくても、私はあなたを覚えています。だからこの記録を残します。誰にも読まれなくても——記録は、消えない』


 ペンが手から離れた。もう指がない。手首まで透明になっている。肘が消えかけている。


 最後にエミルの顔が浮かんだ。銀縁の眼鏡。穏やかな笑み。「よく頑張ったな、ユキ」。あの言葉を聞けただけで、七日間に意味があった。あの声が聞こえただけで、消えることが怖くなくなった。


 最後にルティアの顔が浮かんだ。紫の瞳。亜麻色の髪。計画から始まった関係。裏切りと後悔。でも——月に二度の茶房で、ルティアが幸薄そうに笑っていたのは計画じゃなかった。あの笑顔は本物だった。その部分だけを、記憶の最後に残す。


 消えた。


 音もなく。痛みもなく。ただ、そこにいたものが、いなくなった。


 窓辺の席に、もう誰もいない。台帳が開いたまま残され、ペンが転がっている。椅子が少しだけ引かれたまま、もう誰も座ることのない角度で止まっている。窓からの光が空席を照らしている。


 ルティアが窓辺の席に辿り着いた時、そこには誰もいなかった。台帳とペンだけ。ルティアは台帳を手に取り、最後のページを読んだ。


 涙が止まらなかった。だが、なぜ泣いているのか——もう分からなかった。誰かのために泣いている。でも——誰?


 ノートの表紙を見た。「七日間の記録 著者:   」


 名前の部分が、空白になっていた。


 ルティアはノートを胸に抱えた。冷たい革の感触。だが——どこか温かい気がした。誰かの手の温もりが、まだ残っているような。


 エミルが階段を駆け下りてきた。息を切らしている。


「ルティア。今——誰かを呼んでいなかったか。俺は誰かの名前を……叫んでいた気がする」


「私も。でも——思い出せないの。誰の名前だったか」


 二人は空席を見つめた。台帳とペン。椅子の角度。窓からの光。全てが、ここに誰かがいたことを示している。だが誰がいたのか——二人とも思い出せなかった。


 窓の外で、帝都の空が白く輝いていた。月は一つに戻っている。蒼い月は——消えていた。世界から一つの歪みが取り除かれた証拠。


 書庫の大時計が昼の刻限を打った。十二回。規則正しく。何事もなかったかのように。世界は回り続ける。記録者がいなくなっても。

第十六話をお読みいただき、ありがとうございます。


記録者が消えた。記憶も、影も、座っていた席の温もりも。

誰の涙にもならない。泣くべき対象を、誰も覚えていないから。


次回、最終話。帝国は形を変えて存続した。だが誰もユキを覚えていない。

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