最後の夜
Day 1——夜。最後の夜。
ユキは二人に別れを告げる。裏切った友人と、記憶を刻もうとする先輩に。
もう夜だった。
クーデターは収束に向かっていた。ゼノンの部隊が宮城を制圧し、皇帝ヴァルトは側近とともに地下通路から帝都外へ逃亡。枢密院の高官たちは次々と投降している。帝都は外出禁止令の下、不気味な静寂に包まれている。二つの月だけが、空に変わらず並んでいた。
書庫は司書たちの避難所になっていた。非番の司書が五人、書庫の一層に集まっている。エミルが指揮を取り、蔵書の防備を固めている。扉にはつっかい棒を渡し、窓は鎧戸を閉じた。刃が振るわれれば本が燃える。それだけは防がなければならない——司書としての最後の義務。
「大丈夫だ。書庫に手を出す馬鹿はいない。帝国が変わっても、記録は残る。記録が残っている限り、帝国は再建できる」
エミルの声が、避難してきた司書たちを落ち着かせていた。ヘルマン主任は自宅に帰れず、三層で毛布に包まって寝ている。
ユキは書庫の二層を歩いていた。三十七番棚。三十八番棚。いつもの巡回経路。最後の巡回。足音が石の床に響くが——左耳ではほとんど聞こえない。右耳でも、音が遠くなってきている。
棚の間を歩きながら、背表紙の金文字をランタンの光で照らしていく。法典。年代記。外交文書。天文記録。農業年鑑。何百年分の知識が、この壁の中に眠っている。嘘で歪んだ記録も、真実を伝える記録も、同じ重さで同じ棚に並んでいる。書庫はどちらも差別しない。記録は記録だ。
この書庫を守りたい。この本たちを守りたい。ユキが書庫の司書になったのは、Eランクのスキルしかなかったからだ。冒険者にはなれなかった。魔導師にもなれなかった。だが書庫に配属された時——ここが好きだった。紙の匂い。インクの匂い。夜間巡回の暗がりの中で、ランタンの光に照らされた背表紙の金文字。分類台帳の整然とした記載。ここにいる時だけ、ユキは自分の居場所を感じられた。
最後に、会いたい人がいた。
ルティアは書庫の一層にいた。クーデターの混乱を避けて書庫に身を寄せていた。紫の外套は脱いでいる。白い私服姿で、棚の間に座り込んでいた。背中を棚にもたれかけ、膝を抱えている。宮廷魔導師の威厳はなく、ただの一人の女性に見えた。
「ルティアさん」
「……ユキ」
紫の瞳が揺れた。ユキの顔に何かを読み取ったのだろう。明日消える人間の顔に、何が映っているのか——ユキにも分からない。
「明日——消えます」
「知っているわ。ゼノンから聞いた。……止められないことも、分かっている」
沈黙が落ちた。二人の間に横たわる裏切りと、それでもなお残る何かが、蔵書の匂いに混じって漂っている。三年間の記憶。茶房での会話。禁書の理論を教えてくれた夜。計画の一部だったとしても——その時間は確かに存在した。
「ルティアさん」
「何」
「あなたが裏切ったこと——記録からは消します」
ルティアの瞳に涙が溢れた。一瞬で。堰が切れたように。
「ユキ——」
「でも、あなたの記憶からは消しません」
ルティアの涙が止まった。
「記録は全て消えます。台帳も、書簡も、証拠も。誰もあなたを裏切り者とは呼ばない。でも——あなただけが覚えている。私を裏切ったことを。理由もなく胸が苦しくなる日が来る。名前も顔も思い出せないのに、誰かに謝らなければならない気がする日が来る。それが——私の赦しです」
ルティアの声が震えた。
「それは——赦しじゃない。それは一生続く罰よ」
「そうかもしれません。でも、あなたなら——その痛みを、贖罪に変えられると思います」
「そしてもう一つ。私が記録から消える時——あなたの魔導式の中に、私の記録の断片が残る可能性があります。呪文を編むたびに、計算が僅かに狂う。式が乱れる。望むなら——私の方で、それも消せますが」
ルティアの目が見開かれた。そして——首を横に振った。
「消さないで」
「……え?」
「消さないで、ユキ。それを——私に残して。呪文が乱れるなら、乱れたまま生きる。あなたの影が私の魔法の中にいるなら——それは罰じゃない。それが私の贖罪になる。完全な魔法なんてもういらない。あなたを利用した手で、完全な呪文を編む資格は——最初からなかった」
ルティアの声は震えていたが、目は据わっていた。覚悟の目だ。
ユキは微笑んだ。司書として。記録者として。
「さようなら、ルティアさん。あなたと過ごした三年間は——計画の一部だったとしても、私にとっては本物でした。月に二度の茶房で、あなたが幸薄そうに笑っていたのを、覚えています。あの笑顔は——計画じゃなかったでしょう?」
ルティアは声もなく泣いた。紫の瞳が赤く腫れ、亜麻色の髪が涙で頬に張り付いている。
ユキはルティアの肩にそっと手を置いた。透明化が進む指先が、ルティアの外套の布に触れた。まだ触れることはできる。まだ実体がある。
「ルティアさん。一つだけお願いがあります」
「何でも」
「書庫の蔵書目録——七番棚の法典の分類が古いままなんです。私が更新する予定だったのに、時間がなくなってしまって。もし機会があったら、エミル先輩に伝えてもらえませんか」
ルティアは泣き笑いのような顔になった。
「あなた、消える前日にまで台帳の心配をしているの」
「司書ですから」
それはユキの最後の冗談だった。二人は同時に笑った。笑い声はすぐに涙に変わったが——一瞬だけ、三年前の茶房にいた頃の二人に戻れた気がした。
そしてエミルの元へ。三層。彼は蔵書の移動作業を指揮していた。法典の重い巻を安全な場所に運ぶ作業。ヘルマン主任を起こさないよう、静かに。
ユキを見ると、何も言わずに作業を止め、隣に来た。
「先輩。台帳の管理を、お願いします」
「……ああ」
「もし、いつか——著者のないノートを見つけたら——捨てないでください」
エミルは答えなかった。代わりに、ユキの頭にそっと手を置いた。書庫の先輩が、後輩にする仕草のように。自然に。当たり前のように。大きくて温かい手のひら。
「覚えていられないんだろう。お前のことを」
「たぶん。明日の昼以降、先輩は私のことを忘れます。この会話も、七日間のことも。ただ——台帳の中の記録だけが残ります。著者が空白のまま」
「なら——今のうちに言っておく」
エミルの声がかすかに震えた。銀縁の眼鏡の奥の目が、赤くなっている。
「よく頑張ったな、ユキ。お前は——いい司書だった」
ユキの目から涙が流れた。声は出さなかった。ただ頷いた。
エミルは台帳を取り出した。自分の巡回台帳。使い込まれて角が丸くなった革装丁。その裏表紙を開き、インク壺にペンを浸した。
ゆっくりと、丁寧に、二文字を刻んだ。
——ユキ。
「忘れても——これを見れば思い出す。お前の名前は、俺が書庫と一緒に守る」
ユキはエミルの台帳の裏表紙を見た。黒いインクで刻まれた、二文字。筆圧が深い。革に窪みができるほど、強く。
「……先輩」
「文字が消えても、窪みは消えない。司書が残す記録は、インクだけじゃない」
台帳の最後のページに記した。
「最後の夜。ルティアとエミル先輩に別れを告げた。ルティアは泣いていた。先輩は——泣きそうな顔で笑っていた。明日の昼、最後の書き換えを行う。七日間の記録はこのノートに全て残した。著者が消えた後も、記録は残る——先代の手記がそうだったように。これを読んでいる誰かへ。私の名前は、もうどこにも書かれていないだろう。でも——私はここにいた。それだけは、嘘ではない」
二つの月が窓から差し込み、ユキの影を長く引き延ばしていた。指先が僅かにランタンの光を透過している。存在の希薄化が進行している。明日にはもう、この影もなくなる。
最後の夜が、静かに更けていった。書庫の紙の匂いを、最後まで吸っていたかった。
第十五話をお読みいただきありがとうございます。
「記録からは消す。でも、あなたの記憶からは消さない」
「消さないで。それを——私に残して」
そしてエミルは台帳の裏表紙に、二文字を刻んだ。
次回、最後の書き換え。ユキは帝国の歪みを中和し——そして消える。




