すり抜けた手
Day 1——昼。帝都にクーデターの信号弾が上がった。
ユキはエミルに、七日間の全てを話す。
書き換えのこと。代償のこと。そして——自分が消えること。
翌朝。帝都に非常鐘が鳴り響いた。ゼノンのクーデターが始まった。
宮城の方角から煙が上がっている。黒い煙ではない——白い煙だ。火災ではなく、信号弾。ゼノンの部隊が宮城の制圧に成功したことを示す合図。衛兵の隊列が大通りを駆け抜けるが、向かう先は宮城ではなくゼノンの部隊から逃れる方向だった。帝国の軍事力の大半がゼノンの側に回ったのだ。
ユキは書庫の窓からそれを見ていた。窓ガラスに映るユキの姿が——一瞬、透明になったように見えた。光の加減かもしれない。だが二度目に見た時も、同じだった。存在希薄化が進行している。
二つの月は沈み、太陽が高く昇っている。だが空の色がどこか不自然だ。碧いはずの空に、蒼い月の残光が薄く残っている。世界の物理法則が、少しずつ壊れ始めている。
エミルが階段を駆け下りてきた。
「ユキ、何が起きている。宮城から信号弾が——」
「クーデターです。ゼノン副団長が宮城を制圧しました」
「お前、なぜそんなことを——」
「知っていました。ゼノンが計画を打ち明けた時から」
エミルは口を閉じた。数秒の沈黙の後、ユキの顔を凝視した。銀縁の眼鏡の奥の目が、いつもと違う光を宿している。怒りではない。恐怖でもない。——覚悟を探す目だ。
「お前は、最近ずっと何かを隠していた。俺に一部は話してくれた。記録の矛盾のこと。記録の隙間のこと。だが他にもあるんだろう。全てを話す時が来たんじゃないか」
「はい」
ユキは深く息を吸った。そして——全てを話した。
記録者のこと。スキル『記録』の本当の力——事象の書き換え。七日前に禁書に触れて覚醒したこと。エミルの死を書き換えたこと。その代償で西棟が崩壊し、三人の司書が死んだこと。二度目の書き換えで二人を救い一人を救えなかったこと。三度目で皇子を救ったこと。全ての書き換えの代償が、味覚、聴覚、母の形見、子供時代の記憶として、ユキの身体と過去を削っていったこと。
ルティアとゼノンの共謀。三年間の友情が計画の一部だったこと。
先代の記録者の末路。十五回の書き換えで消滅したこと。
そしてユキ自身が、遠からず消えるであろうこと。
エミルは黙って聞いていた。途中で何度か口を開きかけたが、そのたびに飲み込んだ。司書としての冷静さを保とうとしているが、銀縁の眼鏡を持つ手が、微かに震えていた。
全て話し終えた時、エミルは長い沈黙の中にいた。窓の外で衛兵の足音が遠ざかるのが聞こえた——ユキの右耳だけで。
「……お前が消えるという部分だけは、信じたくない」
「すみません。でも——他に方法がないんです」
「本当にないのか。三日間、お前は考え続けたんだろう。俺と一緒に記録の矛盾を調べただろう。他の方法は——」
「三日三晩考えました。先代の手記も何度も読み返しました。帝国の記録の矛盾を七件分析し、隙間から七件全て中和しました。全面巻き戻しは昨日試みて失敗しました。できることは全てやりました。残った方法が——これだけなんです」
エミルは眼鏡を外した。目を擦った。また眼鏡をかけた。そしてもう一度外した。目が赤い。
ユキは台帳を膝の上で開いた。最後から二ページ目。代替案の検討記録。
「巻き戻し——失敗。全面的な層の剥離は層間依存で連鎖崩壊する。隙間戦略での全面中和——局所的にしか機能しない。帝国全体の歪みを中和するには何百件もの矛盾を処理する必要があるが、記録者の存在が先に消える。書き換えの封印——スキル『記録』は禁書覚醒以降、身体から分離不可能。覚醒前に戻す方法は先代の手記にも記載なし。第三者への能力移転——理論的根拠なし。方法不明。以上四案の全てが不可。結論——記録者自身を記録から消去するのみ」
「……いつだ」
「明日の昼に」
エミルは眼鏡をかけ直した。今度は外さなかった。拳を握りしめている。
「……俺が代わりになれないのか」
ユキは耳を疑った。
「……先輩?」
「記録者の力をお前から俺に移せないのか。俺が台帳に触れて、俺が記録者になって、俺が消えれば——お前は残れる」
ユキは首を横に振った。台帳を開き、代替案の四番目を指差した。
「第三者への能力移転——理論的根拠なし。方法不明。先代の手記にも記載がありません。そもそも禁書に触れた者にしかスキルは宿らない。先輩が禁書に触れても——」
「なら禁書に触れる。今から。地下に行く」
エミルが立ち上がった。そして——走った。
本気だ。銀縁の眼鏡が揺れ、巡回台帳が床に落ちた。地下への階段に向かって、書庫の回廊を全力で駆けていく。穏やかな先輩は、今ここにはいない。
「先輩!」
ユキは追いかけた。だが体力差がある。エミルは三十代の男で、ユキは末席の少女だ。距離が開く。地下一層への階段の手前で——ユキは全力で手を伸ばし、エミルの腕を掴んだ。
——すり抜けた。
ユキの右手が、エミルの腕を通り抜けた。指先が衣服の感触を一瞬捉え、次の瞬間には何もなかった。ユキの手が——半透明になっている。ランタンの光を透過している。手首の向こうにエミルの軍服の布地が見えている。
エミルが足を止めた。振り返った。ユキの右手を見た。
その手が——透けている。
「……ユキ」
「これが、消えるということです。先輩」
ユキの右手が、ゆっくりと実体を取り戻していく。三秒かかった。以前は二秒で戻った。進行している。
エミルの目から、激しさが消えた。代わりに——恐怖ではなく、理解の光が灯った。「消える」という言葉が比喩ではないと、今初めて理解した。
「止めてください。禁書に触れたら何が起きるか分からない——」
「お前だって分からないまま触れたんだろう!」
エミルの声が書庫に響いた。だが先ほどとは違う。激情ではなく——絶望の叫びだ。
「お前はいつもそうだ。一人で背負い込んで、一人で決めて、一人で消えようとする。俺に相談したのは記録の矛盾だけだ。本当に大事なことは——全部一人で決めていた。俺は何のためにここにいる。先輩面して巡回台帳をつけるだけの存在か。パンを運ぶだけの舞台装置か」
ユキの心臓が痛んだ。エミルの言葉は——正しかった。
「違います。先輩は——」
「なら俺にも選ばせろ! お前が一人で犠牲になる権利を持つなら、俺にも一緒に犠牲になる権利がある。それとも俺を、お前を見送るだけの観客にしておきたいのか」
沈黙が落ちた。クーデターの遠い喧騒だけが、石壁の向こうから響いている。
「先輩。禁書に触れても記録者にはなれません。先代の手記にはっきり書いてあります——記録者の選定は禁書の判断であり、人間の意志では制御できない、と。もし先輩が触れて何も起きなければ——無駄死にです。起きたとしても、二人の記録者が同時に存在した前例はない。何が起きるか予測できない」
「予測できなくてもいい——」
「よくありません」
ユキの声が、初めてエミルの声より大きくなった。
「先輩が消えたら、この書庫は誰が守るんですか。ヘルマン主任はもうすぐ退官です。後輩たちは戦力不足です。クーデターの後、ゼノンの帝国が嘘のない記録の上に立つために——この書庫を維持できる人間が必要です。それは先輩しかいません。私が消えた後の書庫を守れるのは——先輩だけです」
エミルの拳が震えた。反論しようとして——できなかった。ユキの論理は正しい。司書として、記録の管理者として、この書庫を守る能力を持つのはエミルだけだ。
「……ずるいぞ、ユキ。お前は——論理で人の気持ちを封じ込める」
「司書ですから」
冗談のつもりだった。だが声が震えていた。
エミルは窓辺に背を向けた。しばらく動かなかった。肩が微かに揺れている。泣いているのだろう。だが振り返らなかった。
「……分かった。止めない。だが——明日の昼まで、俺はここにいる。お前の隣で。最後まで」
「……はい」
窓の外で、宮城の尖塔から新たな白煙が上がった。ゼノンの計画は着々と進行している。だがユキが記録から暴き立てた改竄の傷が、ゼノンの計画を嘘のない形に修正させていた。歪みの上に建てる帝国ではなく、正しい記録の上に建てる帝国に。
エミルは三層に戻らなかった。ユキの隣の席に座った。何も言わず。台帳を開き、巡回記録の整理を始めた。いつもと同じ仕事。最後の夜に、いつもと同じことをする。それがエミルの選んだ答えだった。
あの頃に戻りたいとは思わない。知ってしまったことは、知らなかった頃には戻れない。だが——あの頃のユキが見ていた書庫の風景を、もう一度だけ見たいと思った。
窓辺の席から見える景色。帝都の屋根の向こうに沈んでいく太陽。二つの月が昇り始める空。巡回から戻ったエミルが「おう」と声をかけてくれること。ルティアが月に二度、茶房に誘ってくれること。その全てが——明日にはなくなる。
ユキは台帳を閉じ、胸に抱えた。革の表紙の手触り。使い込まれて角が丸くなっている。この台帳だけが、七日間のユキの存在を証明する。
窓から差し込む蒼い月明かりの中に、ユキの影が長く伸びていた。明日の昼には、この影も消える。
第十四話をお読みいただきありがとうございます。
エミルは走った。ユキを止めるために。禁書に触れるために。
だが——ユキの手は、エミルの腕をすり抜けた。
次回、最後の夜。ユキは二人に別れを告げます。




