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消された名前

Day 2——夜。

ゼノンが書庫の記録を燃やそうとした。


だがユキは反撃する。司書として。記録者として。

そして知る——ゼノンもまた、記録に奪われた人間だった。

 その夜。書庫の正門に、ゼノンが現れた。


 今度は暗がりからの急襲ではない。正門を堂々と通り、衛兵を伴わずに一人で。黒い軍服は乱れ、金の剣帯が僅かに歪んでいる。顔に薄い汗が浮かんでいた。ゼノンが汗をかくのを、ユキは初めて見た。何かに苛立っている——いや、動揺している。


「末席司書」


 ゼノンの声は、前回よりも硬かった。鋼のような制御が、僅かに揺らいでいる。


「お前、何をした」


 ユキは窓辺の席から立ち上がらなかった。台帳を胸に抱えたまま、ゼノンを見上げる。二つの月の光が窓からゼノンの背に差し込み、長い影を床に落としている。


「何のことですか」


「枢密院の人事記録が——修正されている。俺が仕込んだ布石が、三件消えた。六十年近く前の人事記録の矛盾を利用して、権力移行の前例を作っておいた。それが——なくなっている」


 ゼノンの目はランタンの光の中で鋭く光っている。鉄のような硬さを持つ男が、初めて動揺を見せている。長い年月をかけて練り上げた計画の一部が、司書の手作業で消されたのだ。


「司書を甘く見ないでください」


 ユキの声は静かだった。震えはない。この瞬間を予想していた。隙間戦略がゼノンの計画に影響を与えることは、分かっていた。


「この書庫には百年分の記録があります。全ての棚を巡回し、全ての台帳に目を通すのが、末席司書の仕事です。二年間、毎日、一冊ずつ。あなたが記録に仕込んだ改竄は——記録の矛盾を追えば、見つけられます」


 ゼノンはユキの隣に歩み寄った。一歩、二歩。距離を詰める。威圧するつもりだろう。背の高い騎士が、座ったままの司書を見下ろす。だがユキは動かなかった。


「お前は何がしたい。俺の計画を潰すつもりか。帝国を変えるチャンスを、お前が壊すのか」


 ゼノンの手が剣帯に触れた。剣ではない——その隣にぶら下がった火打石を摘み上げた。


「この書庫の蔵書——八十八番棚以降の外交文書は、全てお前の管轄だろう。俺の改竄が混ざっている棚だ。お前がそこに手を出すなら——俺はこれで棚ごと焼く。記録ごと消す」


 ユキの血の気が引いた。書庫は紙の城だ。火がつけば一瞬で燃え尽きる。百年分の記録が——灰になる。


「やめてください」


「なら手を引け」


 ユキは台帳を握りしめた。ここで折れるわけにはいかない。だがゼノンの脅しは本物だ。あの目は——本当に火をつける覚悟のある目だ。


 ——隙間を、使う。


 ユキは右手を台帳に押し当てた。スキル『記録』に意識を沈め、ゼノンの改竄が含まれる棚の記録と、書庫の防火記録の間にある矛盾を探す。あった。帝国暦八百三十年の書庫改修記録——石壁に防火塗料が塗られた記録と、予算書に防火塗料の支出がない矛盾。この隙間に「塗料は寄贈によるもの」と書き込めば——


 中和した。だがその瞬間、右手が消えた。


 比喩ではない。手首から先が——透明になった。台帳の上に右手があるはずの場所に、台帳の表紙だけが見えている。ユキの右手が、一瞬だけこの世界から消えた。


 二秒後に戻った。手首から先が、蝋燭の炎のように揺らめきながら再び実体を取り戻した。指先に感覚が戻る。だが——あの二秒間、ユキの右手は存在しなかった。


 ゼノンもそれを見ていた。火打石を持つ手が止まっている。


「……お前、今——」


「あなたの計画を潰すつもりはありません。帝国の体制転換——記録者を道具にする仕組みの解体。その目的自体には、反対していません。帝国は変わるべきです。百年間の歪みは解消されるべきです」


「なら——」


「でも、あなたの方法には反対します」


 ユキは立ち上がった。ゼノンには背が足りない。だが台帳を抱えた両手は、震えていなかった。


「百年分の書き換えの歪みを利用して権力移行を正当化する——それは結局、嘘の上に新しい嘘を重ねることと同じです。私がやってきたことと、何も変わらない。エミルを救うために嘘をつき、その嘘の代償で人が死に、それを隠すためにまた嘘をつく。あなたはそれを帝国の規模でやろうとしている」


 ゼノンの表情が固まった。


「お前に何が分かる。帝国を変えるには——綺麗事では済まない」


「私は帝国を変えたいんじゃありません」


 ユキの声が、微かに変わった。静かだが——今までとは違う温度を帯びている。窓辺に座っていた司書が、初めて立ち上がった時のような。


「消された人間がいたことを、記録に残したい。それだけです。この書庫の記録には——名前が消され、顔が消され、存在ごと消された人間の痕跡がいくつもある。四十年前にも、六十年前にも。確かにいたはずの人が、いなかったことにされている。その人たちがいたことを、誰かが知るべきです。——私が消えた後も」


 ユキは台帳を開いた。隙間の一覧。矛盾する記録のペア。ゼノンの改竄の痕跡。一つ一つが、百年分の嘘の証拠だ。


「この記録をどうするつもりだ」


「何もしません。これ以上書き換えるつもりもありません。ただ——消えた後の記録にまで、手は打ってあります」


 ゼノンの目が見開かれた。


「消えた——後?」


「副団長殿は先代の記録者のことをご存じでしょう。書き換えの回数が増えるほど、記録者は消えていく。私ももう三回です。先代より速く進行しています。左耳の聴覚は半分以下。味覚は完全に消えた。母の形見も消えました。子供時代の記憶も一部空白になった。いずれ消えます」


「——まさか。自分から——」


 ゼノンの声が、初めて震えた。鋼を思わせた声に、亀裂が入った。


「……やめろ」


 ユキが答える前に、ゼノンは壁に背をつけたまま、天井を見上げた。二つの月の光が、高い窓から差し込んでいる。


「俺には——姉がいた」


 ユキは黙った。


「四十年前。俺がまだ子供だった頃だ。姉は帝都の学術院で歴史を教えていた。ある日、枢密院が帝国の公式歴史から——東方辺境の反乱の記録を消すことを決めた。反乱に関わった全ての人間を、記録から消す。姉は——反乱の研究者だった。反乱に加担したわけじゃない。研究していただけだ。だが、記録者が書き換えた」


 ゼノンの拳が壁を叩いた。石壁に鈍い音が響いた。


「姉の名前が、帝国の全ての文書から消えた。学術院の名簿にもない。家族の戸籍からもない。俺の記憶にだけ——名前と顔が残っている。だが世界は姉がいたことを知らない。証明する方法もない。記録が消えたから」


「副団長殿——」


「お前が消えたら、同じことが起きる。お前の名前が消え、顔が消え、誰の記憶にも残らない。俺の姉と同じだ。俺は——それを止めたくてクーデターを起こした。記録者を二度と道具にさせないために。なのにお前は、自分から——自分から消えようとしている」


 ユキは台帳を握りしめた。ゼノンの目が赤い。鉄の男が、初めて人間の目をしていた。


「……知りませんでした。お姉さんのこと」


「知る由もないだろう。記録から消えたんだから」


「はい。自分から消えるつもりです。でも——お姉さんのことを知った今でも、考えは変わりません。記録者を記録から消せば、書き換えの因果が遡って消滅する。帝国の歪みは——全てではないにしろ、大部分が解消されます。あなたのクーデターが成功した後の帝国が、嘘の上ではなく正しい記録の上に立つように」


 ゼノンは数秒、ユキの顔を凝視していた。目が揺れている。ユキの言葉を処理しきれていない——あるいは、処理した上で、何を言うべきか分からないのだ。


 それから背を向けた。


「お前が消えても、俺の計画は変わらない」


「ええ。でも、あなたが利用しようとしていた記録の歪みは、私が消えた時に一緒に消えます。あなたは嘘なしで帝国を建て直さなければならない。それは——私からの最後の置き土産です」


 ゼノンは振り返らなかった。だが足が止まった。正門の前で、数秒の沈黙の後——


「末席司書。お前の名前は——」


「ユキです。でも明後日には、誰もその名前を覚えていません」


 ゼノンの足音が遠ざかり、書庫の外の闇に消えた。正門の扉が重い音を立てて閉まった。


 ユキは窓辺に戻った。二つの月が帝都の空に並んでいる。白い月と蒼い月。ゼノンの計画に完全な穴は開けられなかった。だが傷はつけた。嘘の上に建国する道は閉ざした。


 エミルが階段を降りてきた。手にパンと水を持っている。いつものように。


「ユキ。今、誰かと話していなかったか」


「近衛の副団長が来ていました」


「そうか。物騒な時代だな。——パンを食え。味がしなくても、食わないと倒れるぞ」


 エミルはそれ以上聞かなかった。ただパンと水をユキの席に置き、三層に戻っていった。知りたいことは山ほどあるだろう。だがエミルは、ユキが話す準備ができるまで待つ人間だった。


 味のないパンを齧りながら、ユキは二つの月を見上げた。


 台帳に記した。


 「ゼノンとの対面。記録の矛盾を突き、改竄の三件を無効化したことを示した。ゼノンの動揺を確認——計画の修正を強いることに成功。自己消去の意図を伝達。ゼノンは否定せず。消えた後の帝国が嘘のない記録の上に立つこと——それが司書として最後にできること。エミル先輩がパンを持ってきてくれた。味はしない。だが温かかった」


 パンを齧りながら、ユキは自分の手を見た。ランタンの光が手の甲を照らしている。まだ——透けていない。まだ実体がある。だが指先に微かな違和感がある。物を握る時の力が、以前よりも弱くなっている。ペンを持つ手が疲れやすくなった。


 存在希薄化は、一日ごとに進行している。先代の手記では、十五回目の書き換えの後に急速に透明化が始まった。ユキはまだ三回だが——百年分の歪みの蓄積の上に書き換えを重ねているから、進行速度が速い。


 二つの月を見上げた。帝都の屋根の向こうに、白い月と蒼い月が並んでいる。蒼い月明かりが書庫の回廊に青白い影を落とし、棚の間に幻想的な模様を描いている。


 覚醒前のユキなら、この景色を美しいと思えただろう。今は——美しさの裏にある歪みが見える。世界が嘘で塗り固められた結果の光景。だがそれでも——美しいと思ってしまう。


 夜が更けていく。

第十三話をお読みいただきありがとうございます。


ゼノンの姉の話。四十年前に消された研究者。

正義と正義がぶつかる時、どちらも「正しい」


次回、ユキはエミルに全てを話します。

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