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巻き戻しの代価

Day 2——昼。

隙間を使えば、書き換えの代償を最小化できる。

だが——身体は限界に近づいていた。

 翌日の昼。ユキは全てを元に戻す最後の試みに臨んだ。


 昨夜、エミルと見つけた記録の隙間が七件。そのうち三件は昨夜のうちに中和した。枢密院人事記録、穀物収穫報告、法典の日付矛盾——代償なし。隙間戦略が有効であることは、既に実証済みだ。


 残り四件。外交文書の批准日、税制改定の記録、軍の駐屯配置、南部港町壊滅に関連する人口統計。いずれも先代の書き換えの痕跡が深く、記録の密度が高い。昨夜の三件よりも、解釈の精度が要求される。


 台帳に手を置いた。深く息を吸う。目を閉じた。


 一件目。外交文書の批准日。両立する解釈を見つけ、隙間に書き込む。ペンが紙の上を走った。昨夜と同じように——抵抗はほとんどなかった。


 だが、二件目を終えた時——右手の人差し指の感覚が消えた。


 指はある。動く。だがペンを握る指先が、紙の手触りを感じない。ざらついたはずの羊皮紙の表面が、ツルツルした何もない空間に触れているような——指先だけが別の世界に行ってしまったような感覚。


 昨夜は代償がなかった。だが回数を重ねれば——隙間戦略もゼロコストではなかった。嘘ではないが、記録者の存在を——僅かに消費する。矛盾を解消するたびに、記録者と世界の接点が、一つずつ削られていく。


 三件目で中指の感覚も鈍った。四件目で——右手全体の感覚が薄くなった。四件中四件を解消した。だが代償は確実に蓄積している。


 だがユキが次に試みたのは、遥かに困難なことだった。


 自分自身の三回の書き換えを、全て元に戻す。隙間ではなく、層そのもの——ユキの書き換えが作った嘘の層を、直接剥がす。


 台帳に意識を集中した。スキル『記録』が世界の構造を映し出す。ユキの三回の書き換えが作った嘘の層。その下に先代の十五回分の嘘の層。さらにその下に百年分の書き換えの残骸。層は互いに絡み合い、依存し合っている。一枚の層を抜くと、上下の層にひびが入る。


 一枚の層を剥がそうとする——世界が拒絶した。


 頭蓋骨の内側から灼熱の痛みが爆発した。視界が完全に消えた。白。赤。黒。三色が高速で明滅し、全身の筋肉が痙攣した。台帳から手を離そうとするが——指が動かない。スキルが暴走している。


 強引に右手を台帳から引き剥がした。椅子から転げ落ちるようにして、床に倒れた。荒い息が石の床に反響する。天井がぐるぐると回っている。


 層を一枚剥がせば、その上の全ての層が崩壊する。嘘は互いに支え合っている。一つを取り除くと、残りの全てが崩壊する。全面的な巻き戻しは——不可能だ。


 しかし——完全な失敗ではなかった。


 隙間を突いた部分だけは、歪みの中和が成功していた。枢密院人事記録の矛盾は解消され、その周辺の歪みが僅かに緩和されている。記録構造の中に、小さな安定点が生まれた。


 そして、その緩和の影響が思わぬ場所に及んでいた。


 ユキのスキル『記録』が、帝都の記録全体をスキャンした。歪みの分布図が、台帳の上に浮かび上がる。中和した七件の周辺で、記録の密度が変化している。そして——その変化によって、ゼノンが帝国のために温存していた記録改竄の一部が浮き上がった。


 ゼノンは百年分の書き換えの歪みを利用して、自分の計画を記録の中に紛れ込ませていたのだ。歪みの中に改竄を隠すことで、改竄を目立たなくする——巧妙な手口。だがユキが歪みの一部を中和したことで、歪みの中に隠れていた改竄が露出した。三件の改竄が無効化されていた。


 窓の外を見た。


 帝都の空に、異変が起きていた。


 月が——二つあった。


 白い月の隣に蒼い光を放つ天体が浮かんでいる。通常の月よりも小さいが、確かにそこにある。蒼い光が帝都の屋根を照らし、白い月の光と混じり合って、不思議な紫の影を落としている。


 不完全な巻き戻しの試みが、世界の物理法則そのものに影響を与えた。書き換えの蓄積がある一線を超えた時、記録の修正では収まりきらない歪みが物理世界に漏れ出した。


 だが帝都の人々は誰も気にしていない。窓辺で空を見上げている住民はいるが、驚いた様子はない。記録上、最初から二つの月があったことになっている。世界はまた辻褄を合わせた。第二の月を「常夜月」と呼び、天文学者がその軌道を記録し、農民がその光で夜間の収穫を行う——そういう世界に書き換えられた。


 ユキだけが知っている。あの蒼い月は、今朝まで存在しなかったことを。


 台帳に記した。


 「巻き戻し試行:部分的成功/部分的失敗。全層の巻き戻しは不可——層の相互依存により連鎖崩壊が発生。ただし隙間戦略による局所的な中和は成功。デット発生なし。中和件数:七件全件成功(昨夜三件+本日四件)。ただし本日分で右手の触覚を喪失——隙間戦略にも代償があることが判明。副次的成果:ゼノンが記録に仕込んでいた改竄の三件を露出・無効化。ゼノンの計画に初めて傷をつけた。副次的損害:空に第二の月(常夜月)出現——物理法則への歪みの波及。記録修正では吸収しきれない歪みが物理世界に漏出。書き換えの蓄積が限界に近い証拠。結論:全面巻き戻しは不可能。隙間戦略は有効だが局所的。根本解決には別の手段が必要。残り時間:少ない」


 二つの月の光が書庫の回廊を照らしていた。白い影と蒼い影が重なり合い、石の床に不思議な紋様を描いている。影が交差する場所では、光が干渉し合って微かな虹色の筋が走っている。


 美しい光景だった。だがそれは世界が壊れている証拠でもあった。


 第二の月を見上げながら、ユキは考えた。隙間戦略は有効だ。だがそれだけでは足りない。ゼノンの計画の全体を無効化するには——もっと大きな隙間を突く必要がある。あるいは——もっと根本的な解決が。


 エミルが階段を降りてきた。三層からだ。今夜の照合作業の続きをするつもりだったのだろう。だが窓から見える空の異変に足を止めた。


「ユキ。あれは——月が二つあるのか」


「はい。先ほどから」


「……おかしなことを言うようだが、俺の記憶では最初から二つあった気がする。だが——お前の顔を見ていると、違う気がする」


 エミルの司書としての直感。世界が辻褄を合わせた記憶と、ユキの存在が示す真実の間で、エミルの認識が揺れている。


「先輩。月は昨日まで一つでした」


「……そうか。なら——お前がまた何かしたんだな」


「すみません」


「謝るな。俺は——お前を信じると言ったろう」


 エミルは窓辺に立ったまま、二つの月を見上げた。白い月と蒼い月の光が、エミルの銀縁の眼鏡に反射して二つの光の点を作っている。


「綺麗だな。世界が壊れているとしても」


「……ええ。綺麗です」


 二人は並んで窓辺に立ち、しばらく月を見上げていた。壊れた世界の空は——確かに美しかった。

第十二話をお読みいただきありがとうございます。


指先が透明になった。一瞬とはいえ——存在が消えかけた。


次回、ゼノンとの最後の対決。そしてゼノンが語る、個人的な悲劇。

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