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インクの色が違う

Day 3——昼。

全ての人間関係が崩壊した後の、最初の朝。

味覚がないことが、初めて命に関わった。

 全ての人間関係が崩壊した後の、最初の朝だった。


 ユキは書庫の窓辺に座っていた。日差しが石壁を暖め、古い紙とインクの匂いが漂っている。いつもの書庫だ。だがユキにとって、この場所の意味が変わっていた。ここは安らぎの場所であると同時に、嘘と裏切りの舞台でもあった。


 ルティアは裏切り者だった。三年間の友情は、ユキを記録者にするための計画の一部だった。ゼノンは最初から利用者だった。帝国の体制転換という大義の道具として、ユキの力を欲していた。アルベルト皇子はユキを拒絶した。「二度と関わるな」と冷たく言い放った。


 信頼できるのは——エミルだけ。だがエミルはユキの名前を一瞬忘れた。存在希薄化が始まっている。いつかエミルもユキを完全に忘れるかもしれない。


 台帳を開いた。これまでの記録が、ユキの中だけに存在している。書き換え前と後の二重の現実。代償の一覧。ルティアの裏切りの証拠。先代の手記の分析。記録の隙間の仮説。全てをこの台帳に記録してきた。誰にも読めない記録。世界でユキだけが理解できる記録。


 ——まだ何もできていない。記録の隙間を見つけたが、それを活かす方法が分からない。このまま何もしなければ、帝国は書き換えの歪みの蓄積で崩壊する。何かをすれば、代償で崩壊が加速する。八方塞がり——のように見える。


 だが諦めるわけにはいかない。先代は十五回書き換えて消えた。ユキは三回だ。まだ時間がある。先代が見つけた「隙間」を、ユキは先代よりも深く理解できる。何百もの棚を巡回してきた司書の経験が、ここで活きるはずだ。


 机の上に、昨夜エミルが置いていったパンがあった。ランタンの灯りの下で見た時は分からなかったが、今朝の日差しの中で見ると——表面に薄緑色の斑点がある。黴だ。保管庫の温度管理が、クーデターの混乱で乱れたのだろう。


 だがユキは昨夜、そのパンを半分食べていた。味覚がないから、異常に気づかなかった。匂いも——右耳の聴覚低下と同じく、嗅覚も鈍くなり始めているのかもしれない。


 腹の奥が鈍く痛んでいた。軽い食あたりだ。命に関わるほどではないが、集中力が削がれる。記録の隙間を分析するために全神経を注がなければならないこの時期に——味覚がないことが、初めて実害として牙を剥いた。


 足音が近づいた。規則正しい、落ち着いた歩調。エミルだ。三層から階段を降りてきた。銀縁の眼鏡。穏やかな笑み。手に書庫の巡回台帳を持っている。今日も変わらないエミルの姿に、ユキの胸が微かに痛んだ。


「ユキ。少し聞きたいことがある」


「何ですか」


 エミルはユキの向かいに座った。巡回台帳をユキの目の前に開いた。数日分の巡回記録が整然と並んでいる。エミルの几帳面な字。書庫の全棚の点検記録。


「お前の台帳——最後の数ページだけ、インクの色が違うんだ」


 ユキの心臓が跳ねた。


「いや、台帳の中身を見たわけじゃない。お前の台帳はお前のものだから、俺に読む権利はない。だが巡回中にちらっと見えた。最初の方のページは通常の黒インクだが、最近のページで——色が違う。灰色がかっている。インクの質が変わったのか、それとも——お前、何か別のことを書いているのか」


 灰色がかったインク。スキル『記録』が自動的に刻む文字は、通常のインクとは異なる。スキルの力で紙に刻まれた記録は、通常の光の下では微妙に色調が異なるのだ。エミルの司書としての観察眼が、それを捉えた。


 嘘をつくべきだ。いつもそうしてきた。世界に嘘をつき、周囲に嘘をつき、自分にも嘘をつく。もう一つ嘘を重ねることは——できる。


 だが——エミルの目を見ると、嘘が出てこなかった。銀縁の眼鏡の奥の穏やかな目。この人だけは、ユキを利用しようとしなかった。この人だけは——ユキを同僚として、後輩として、対等に扱ってくれた。


「先輩。この書庫の記録は、全部が正しいわけじゃないんです」


 エミルの眉が寄った。


「どういう意味だ」


「巡回台帳の西棟の記録。三ヶ月前の分に、壁面の亀裂を報告した記述がありますよね」


「ああ。あったね。補修要請書を出した記憶がある」


「それ、先輩の記憶の中に、三ヶ月前に西棟の壁面を点検した記憶はありますか」


 エミルは考え込んだ。数秒。数十秒。眉間の皺が深くなる。眼鏡を直し、天井を見上げ、また巡回台帳を見下ろした。


「……ないな。三ヶ月前は確か、東棟の蔵書整理で手一杯だった。ヘルマン主任の指示で、東棟の古い法典を五十冊修繕目録に載せる作業をしていた。西棟の巡回を誰がやっていたか——思い出せない。台帳には記録があるのに」


「その記録は、存在していなかったものが、後から書き加えられたんです。既に存在していたかのように。インクの色も、筆跡も、古さまで——偽装されて」


 エミルは口を閉じた。銀縁の眼鏡の奥の目が、ユキを凝視している。穏やかさの裏に、司書としての厳格さが見えた。


「ユキ。お前は今、何を言っているか分かっているのか。帝国図書館の公式記録が改竄されていると。それは——重大な指摘だ。根拠はあるのか」


「私は証拠を持っています。スキル『記録』が焼きつけた、書き換え前の記録です。西棟の巡回台帳には三ヶ月前の亀裂報告はなかった。それが後から——現実そのものが変わった時に、記録も変わったんです。世界の辻褄合わせの一環として」


 エミルは長い沈黙の後、眼鏡を外した。目を擦り、深い溜め息をつき、また眼鏡をかけた。額に深い皺が刻まれている。


「正直に言う。お前の話は、にわかには信じられない。記録が自動的に改竄されるという話は——常識の範囲を超えている」


「分かっています」


「だが——お前が嘘をつくタイプではないことも分かっている。そして何より、俺自身の記憶と台帳の記録が一致しないという事実は——確かにある」


 エミルは巡回台帳を閉じ、机の上に置いた。両手を組み、ユキの目をまっすぐに見た。


「信じろと言うのか」


「信じなくていいです。ただ——先輩が司書として、この書庫の記録に矛盾があると感じたなら、それを調べてほしいんです。私一人では全ての記録を照合しきれない。先輩の知識と経験が必要です」


 エミルは巡回台帳を見つめた。何かを考え、何かを飲み込み、そして——ゆっくりと頷いた。


「分かった。明日の夜、俺が三層の法典と台帳の日付照合をする。お前は外交文書を当たれ。法典は帝国の骨格だ。もし法典の日付に矛盾があれば——それは巡回台帳の矛盾よりも遥かに深刻だ」


「はい」


「ただし——お前が何をしているかは、全部聞かせてもらう。後でだ。今夜は時間がない。明日の夜、照合作業の後に」


 ユキの目に涙が滲んだ。覚醒して初めて、誰かがユキの話を聞いてくれた。信じるかどうかはともかく——調べてみようと言ってくれた。それだけで。


「ありがとうございます、先輩」


「礼を言うのは後だ。矛盾が見つかってからにしろ。もし見つからなかったら——お前は俺に嘘をついたことになる。その時は正座させるぞ」


 エミルの声に、いつもの穏やかさが戻っていた。ユキは小さく笑った。笑えたことに、自分で驚いた。


 エミルが立ち上がり、三層に戻っていった。その背中を見送りながら、ユキは台帳に記した。


 「エミル先輩に真実の一端を打ち明けた。公式記録の改竄について。スキルの詳細と書き換えの事実は未開示——先輩に危険を及ぼさないための判断。先輩は記録の矛盾を調査することに同意。信頼度:変わらず最高。合理的な説明を求める人物であり、オカルトを信じるタイプではない。だからこそ——記録の矛盾という客観的事実にだけは、正直に向き合ってくれるはずだ。明日の夜、照合作業を行う。結果次第で、先輩に残りの事実を伝えるかどうかを判断する」


 窓の外で、帝都の午後がゆっくりと傾いていた。だが今、ユキは一人ではない。この書庫の中に、ユキと同じ方向を見てくれる人間がいる。

第十話をお読みいただきありがとうございます。


エミルだけが気づいた——台帳のインクの色が違うことに。

司書の観察眼が、物語を動かし始めます。


次回、「記録の隙間」を実践する時が来ます。

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