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万象の書庫と末席の司書

帝都アルケイアの中心に聳える帝国図書館「万象の書庫」。その地下に眠る禁書を、誰かが開封した。


末席司書のユキは、Eランクスキル「記録アーカイブ」だけを頼りに、本と台帳に囲まれた静かな日々を過ごしていた。見たものを記録するだけ——そう鑑定された、戦えもしない最弱スキル。


だが、記録するだけのスキルが、「書き換え」を始めた時——帝国の七日間が動き出す。

 私がエミルを殺したのは、彼を救いたかったからだ。



——この記録を読んでいるあなたに、七日間の全てを記す。



 万象の書庫は、いつも朝が早い。


 帝都アルケイアの中心、白亜の尖塔が空を衝く帝国図書館——通称『万象の書庫』。その正門が開くのは太陽が東の山脈を越える刻限よりも二刻も前のことで、末席司書のユキが出仕するのはさらにその半刻前だった。


「……三十七番棚、正常。三十八番棚、正常」


 台帳を抱え、ユキは薄暗い回廊を歩いていた。三十八番棚の角を曲がった時、指先が一冊の蔵書の背表紙に触れた。農業年鑑、帝国暦七百四十二年版。その瞬間——スキル『記録』が、蔵書に刻まれた記憶を映し出した。


 百年以上前の書記官の手が見える。羊皮紙の上を走る鵞ペン。窓から差し込む午後の光。書記官は穏やかな老人で、几帳面に数字を並べながら、時折窓の外の麦畑を見つめていた。豊作の年だった。筆に喜びが滲んでいる。


 幻視は一瞬で消えた。だがユキの胸に、温かいものが残った。蔵書に触れるたびに、何百年も前の人々の営みが指先から流れ込んでくる。スキル『記録』がEランクでも、この恩恵だけは与えてくれた。だからこの地上二層——最も地味で最も人が来ない実用書の階層が、ユキは好きだった。


「おはよう、ユキ。今日も早いね」


 振り返ると、先輩司書のエミルが穏やかな笑みを浮かべて立っていた。三十代半ばの痩身の男で、銀縁の眼鏡の奥に知的な光を湛えている。


「おはようございます、エミル先輩。……三十八番棚の防虫香、あと三日で交換時期です」


「了解。発注しておくよ」


 エミルはユキが入館した初日から面倒を見てくれている数少ない先輩だった。末席司書という肩書は、要するに雑用係のことであり、他の上位司書たちはユキにほとんど関心を払わない。台帳の記入、棚の清掃、資料の運搬。どれも一人で黙々とこなす仕事ばかりだった。


 配属初日のことを、ユキは今でも覚えている。ヘルマン主任に書庫を案内されたが、途中で主任は急用で消え、ユキは地下一層の石段の途中で方角を見失った。ランタンの油も心許なく、冷たい暗がりの中でしゃがんで動けなくなった。一時間——いや、二時間だったかもしれない。


 見つけてくれたのは、エミルだった。


「新人が帰ってこないと思ったら、こんな所にいたのか」


 エミルは怒りもせず、呆れもせず、ただランタンを差し出して言った。


「台帳を持っていれば迷わないよ。この書庫の全ての棚には番号がある。台帳に番号を記録しながら歩けば、自分がどこにいるか、いつでも分かる」


 それはただの実務的な助言だった。だがユキにとっては——この書庫で生きていく方法を教えてもらった瞬間だった。以来、ユキは台帳を肌身離さず持ち歩くようになった。


 それでよかった。ユキは人前で話すのが苦手だったし、この静かな書庫の中で本と台帳に囲まれている時間が、何より落ち着ける場所だった。書庫の空気は古い紙と革装丁の匂いが混ざり合っていて、深く息を吸うとそれだけで気持ちが凪いでいく。


 巡回を終え、ユキは二層の窓辺にある自分の席に戻った。窓の外には帝都の街並みが広がっている。白い石畳の大通りを馬車が行き交い、遠くには宮城の金色の屋根が朝日に輝いていた。


 ——この景色が好きだ。


 ユキはそう思いながら、次の業務に取りかかった。昨日、上位司書のヘルマン主任から指示された修繕報告書の作成である。地下一層の東側通路で雨漏りが発生しており、その被害状況を記録せよ、と。


「地下一層、ですか……」


 ユキは台帳を閉じ、小さなランタンを手に取った。地下階への階段は書庫の最奥にあり、普段はほとんど人が立ち入らない。地下一層には使用頻度の低い古文書が保管されているだけで、地下二層に至っては封鎖されていると聞いている。


 石段を降りると、空気が変わった。地上の乾いた空気とは違う、重く湿った空気が肌にまとわりつく。ランタンの火が揺れ、長い影が壁に踊った。


「東側通路、雨漏りの被害範囲……」


 ユキは台帳を開き、壁の染みの大きさと位置を測りながら記録していった。スキル『記録アーカイブ』が、見たものを正確に記憶に焼きつけていく。染みの形状、色の濃淡、壁材の劣化度合い。目に映ったものが、まるで写し絵のように台帳の上に再現されていく。


 Eランクのスキル。冒険者ギルドの鑑定では「見たものを記録するだけ」という評価だった。戦闘に使えず、生産にも使えない。攻撃力も防御力も上がらず、鑑定士は「実用性なし」と一言で切り捨てた。だからユキは冒険者にも職人にもならず、この書庫に流れ着いた。


 ——でも、この仕事には合っている。棚の微細な変化を見逃さず、記録する。それだけのスキルが、ここでは確かに役に立っていた。


 雨漏りの記録を終えたユキが、来た道を戻ろうとした時だった。


 通路の突き当たりに、見たことのない扉があった。


 古い鉄扉。表面には錆と苔が浮き、長い年月の間、誰も開けなかったことが分かる。だが、その扉が——僅かに開いていた。


 隙間から、何かが光っている。


 ユキの足が止まった。これは地下二層への扉だ。封鎖されているはずの禁書区画。ヘルマン主任が「絶対に近づくな」と言っていた場所。


 戻るべきだ。報告すればいい。扉が開いていたと。それが規則だし、それ以上のことをする義務もない。ユキは末席司書であって、禁書管理官ではないのだから。


 だが、足が動かなかった。


 ——でも。


 スキル『記録』が、勝手に反応していた。視界の隅で文字が明滅する。今まで経験したことのない現象だった。まるで、扉の向こうにある何かが、ユキのスキルに呼びかけているような。


 ユキは自分でも分からないまま、扉に手をかけた。


 重い鉄扉が軋みながら開く。


 その先には、小さな石室があった。壁面に沿って空の棚が並び、中央に置かれた石の台座の上に——鎖で縛られた一冊の本が載っていた。


 本は黒い装丁で、表紙には文字も装飾もない。鎖は七重に巻かれ、台座に溶接されている。これは保管ではなく、封印だった。


 ユキのスキルが、激しく反応した。


 視界がぶれた。文字の残像——いや、文字ではない。映像のようなものが瞬間的に脳裏を走り抜けた。知らない場所。知らない人々。そして、炎。


 気がつくと、ユキの右手が鎖に触れていた。


 鎖が、砕けた。


 音もなく、鉄の環が一つずつほどけ、石の床に落ちていく。ユキの手は震えていたが、止められなかった。まるで体が別の誰かに動かされているように、本の表紙に指が触れた。


 瞬間、視界が白く弾けた。


 頭の中に、膨大な文字が流れ込んできた。歴史。法典。条約。戦争の記録。何百年分もの帝国の記録が、洪水のように押し寄せる。スキル『記録』が暴走しているのか、意識が飲み込まれそうになる。


 そして——本が、勝手に最終ページを開いた。


 そこには、たった一行だけ書かれていた。



 『この書を開いた者が、次の記録者となる』



 ユキの鼻から、一筋の血が流れた。頭の奥が鈍く痛む。本が静かに閉じ、残った鎖がかたりと音を立てた。


 視界が元に戻る。石室は先ほどと変わらない。だが、何かが決定的に変わったことを、ユキは直感していた。


 ——記録者。


 その言葉の意味が、分からなかった。


 ユキは震える手で台帳を拾い上げ、石室を出た。鉄扉を元通りに閉め、階段を上る。一歩ごとに頭痛が薄れていき、地上二層の回廊に戻る頃には、ほとんど普段通りの感覚に戻っていた。


 ただ、台帳を持つ右手だけが、微かに震え続けていた。


「——ユキ」


 自分の席に戻ろうとした時、通路の先にエミルが立っていた。


 その顔が、蒼白だった。


 いつもの穏やかな笑みはなく、銀縁の眼鏡の奥の目が、怯えたように細められている。


「エミル先輩? どうされたんですか」


「……地下に、行ったのか」


 エミルの声は掠れていた。ユキは答えに詰まった。


「修繕報告の記録で、地下一層まで——」


「一層だけか」


 沈黙が落ちた。ユキの心臓が、理由の分からない速さで跳ねた。


 エミルは数秒の間、ユキの顔を凝視していた。それから、何かを飲み込むように喉を動かし、視線を逸らした。


「……いや、何でもない。報告書、できたら見せてくれ」


 エミルは背を向けて歩き去った。その足取りが、僅かに乱れていたことに、ユキのスキルは正確に気づいていた。


 窓の外では、帝都アルケイアの午後が、何事もなかったように流れていた。

お読みいただきありがとうございます。新連載「万象の書庫は燃えない」、第一話をお届けしました。


本作は全十七話完結の物語です。スローライフで「築く」話ではなく、七日間で「崩れていく」話。主人公ユキが手にした力は、使うたびに世界を壊す——そんな構造でお届けします。


次回、書庫で日常を共にしていた同僚の死が、公式記録からひっそりと消えていた。

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