【10】巨大猫
動物の、威嚇。
そして、獲物を獲る瞬間の、低い唸り声。
本能で分かった。
殺される。
このまま……殺される。
嫌だ。
嫌だ、死にたくない。
「あ──あっ! !」
私は叫んだ。
何を叫んだか分からない程に。
ただ大声で、狂乱したように叫んだ。
恥ずかしいけどそれしか出来なかった。
誰にも言えない。見せられない崩れた、ぐちゃぐちゃな顔で、叫んで走っていた。
私は、逃げた。
汚い顔を晒しながら、涙も止めずに、馬鹿みたいに。
喉をガラガラにしながら叫んで逃げていた。
角を何個か曲がり入口から跳び出した時に、転んだ。
泥みたいな地面に顔から転んで──すり傷は負ってない。
でも、私は。
逃げた。
でも、逃げなきゃ、殺されていたから。
無理だ。あんなの。ライオンみたいなものだ。
仕方ない。銃があっても、勝てない。
一般人がライフル持っても熊に勝てないのと同じだ。
無理。無理だよ。こんなの。
震えながら、四輪駆動を見た。
唇を噛んで汚い顔で、涙のままで。
シェフちゃんなら──許してくれるよ。
絶対、許してくれるから。
『無理しないで』
ありありと、声が頭に蘇った。
そう、無理しないでって言ってた。
そうだ。──きっと、治るから、そう言ったんだ。
薬なんて使わなくても。
怪我で菌が入っても自然治癒出来ることがあるって聞いた。
だから、シェフちゃんも、そう。
『隊長殿!』
そう、いつもみたいに、可愛い声で。
明日になったら、笑ってる。シェフちゃんは、そういう子じゃないか。
『隊長殿、大好きでありますよ!』
そう、花が咲いたみたいに笑ってくれる。
『だーめ、であります』
そう、冗談めかして笑ってくれる。
それで。いつも通りに、美味しい料理を作ってくれる。
いつも通りの明日が。いつも通りの。
『お泊り会みたいなことやってみたかったので。』
『満足そうな顔、好きでありますよ』
『なんだか父のように見えたので』
──嫌だ。
あの小刻みに揺れる小さな肩を。小さな指を。
失うのは。嫌だ。
乱れた呼吸で、肩を震わせていた。
『隊長殿は本当に凄いでありますね!』
銃を。撃つ時は。
呼吸を全て吐き切る。
そうすると、照準が定まる。
『生きてるでありますよ。隊長殿も』
きっと。生きる時もそう。
大きく吸ったら。
全て吐くだけ。
そうしたら。定まる。
私は。
『隊長殿!』
私は。
『ここがどこか分からなくて。どこに行けばいいか、分からないのであります。私は、怖いであります』
──あのカプセル。
シェフちゃんの隣で眠っていた筈の妹は、もう助からなかった。
それを知って、シェフちゃんは、泣き崩れた。
だから。私は。どうにかしようと思ったんだ。
『なら。……書置きの通りに行ってみないか。
ここにいるよりかは、きっと、お父さんも見つかるかもしれない』
『……でも、私。怖いであります。こんな、世界で。誰も居ない世界で』
『誰も居ない訳じゃない。──私が、一緒に居るよ』
怯えた顔に、光が差した気がした。
だから、私は。続けた。勇ましい言葉をなるべく連ねて。
『私についてくれば──なんとかなる。
車も運転出来るし、キミを……救える。と、思う、かも、しれない。
いや、ごめん、これは自信過剰過ぎて──』
そして彼女は、ふふっと笑った。
『まるで何かの漫画の隊長みたいであります』
『そうかな』
『そうであります。──ね、隊長殿』
微笑みながら涙を流した、あの笑顔を見た日から。
私は。
彼女にとって、隊長なんだ。
だから。
「私が──!」
隊長だ。あの子の笑顔を守る為に。
私が、隊長になるんだ。
獣よりも、獣のように。
叫んだ。
恥も外聞もなく、叫んでいた。
ただ、逃げた時の叫びとは違う。
違うのは、決意だ。
乱れた呼吸は、全て捨てていた。
肺の中を全て空にすれば、自然と体が軽くなっていた。
巨大猫は、追ってきていた。
獰猛だ。
きっと逃げていても追ってきて殺されていた。
大丈夫じゃない。恐ろしい。
でも、呼吸を捨てる。
指の先から瞳の動きすら自分で操作するように。
支配下に置く。銃を構える。
照準器は無いが、目視で撃つ。
向かってくる獣なら──それで十全。
雷のように鳴る。
真っ赤な血が視界を汚した。
ただ、それでも巨大猫は走ってくる。鬼気迫る顔で、牙を光らせて──飛び掛かってきた。
私は押し倒される。唾が掛かった。
その口には間一髪で銃を滑り込ませている。
銃が軋む。
銃は左腕と地面で支えているから、いかに巨大猫でも力任せにはいかないだろう。
だから自由になった右腕でナイフを抜いて──これで、終わらせる。
ただ。その瞬間だけ。
本当に自然に言葉が出た。
「ごめん」
皮膚を裂く感触は──もう経験したくないくらいに嫌だった。
ゴムチューブを無数に裂くような、この感覚。
生き物の、熱い、熱い血が──私に溢れた。




