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衝撃の虎太郎と我が身

 そこでコンコンコンと上品にドアをノックされ、相手も誰だか見当がつかないのに、つい反射的に返事をしてしまうのは躾られた社畜である。


「──あ、はいっ」


「──失礼致します」


 メイド服を着た女性がタライを持って入ってきた。ラノベによくある洗顔用なのだろうか。


「ええと、ちょっと訊いてみてもいいかな?」


「はい、何なりと仰せ下さいませ」


 恐る恐る、あまりにも日常では基本的すぎる事を、虎彦は訊いてみる。


「……この国の名前と、今が何年何月何日か言ってみてくれる?」


「お坊ちゃま、突然何を仰るのですか?どこかお具合が悪いのですか?」


 メイドさんらしき女性が、信じられないといった表情で目を見開いた。


 これはまずいと、慌てて言い訳を絞り出す。


「いや、あのさ、……昨夜はその、夢見が悪くて。本当に夢から醒めたか確かめたいっていうか……」


 本音では、ここを夢の世界ではないかと思うものの、そこに踏み込めないのは長いものに巻かれて生きてきたせいだろう。


 メイドさんは、悲しげな瞳で虎彦に向かい、口もとを手で覆った。


「お労しい……遅くまで起きていらしたのですもの、疲れから悪夢に苛まれたのでございましょう……」


 え、この世界でも過労なの俺。こき使われてんの。


 こんな恵まれていそうな容貌や部屋、そしてお世話までされて、それでも元が社畜ならば何をどう生きても社畜なのか。


 それはともかく、メイドさんは一応得心がいったようだ。そこに乗って聞き出すことにする。


「そ、そうそう、きっとそう。──で、教えてもらえる?」


「エタニアス王国、西暦二千十五年年の七月十日でございます」


「……は?あ……はい……え?」


 ──エタニアスって、乙女ゲームの舞台になってる国じゃないか嘘だろ?それで何で西暦が使われてんだ?しかも現代だぞ、ありえないだろ


 それだけではない、日記に書いてある内容を信じれば、アナスタジアがグランドールと出会って二か月経っている。


 魔力暴走したグランドールを、アナスタジアが聖なる力で中和して救った。これでグランドールはアナスタジアに惹かれていってしまう、チープな設定なのだ。


「──お坊ちゃま、洗顔をお済ませ下さいませ。朝の紅茶にはアカシアの蜂蜜を添えさせて頂きます。疲れには甘いものでございましょう」


「あ、うん……ありがとう?」


 ──ええ……何が何だか分からない……虎太郎も一緒だし、激情で夢にまで出たのかな。そうだよ、これは無駄にリアリティのある夢だ。


 洗顔をベッドで済ませる。健康五体満足なアラサー男性ならば、普通は起きて洗面台で済ませるものだ。さらにはベッドに上半身を起こした状態で、朝の紅茶とやらまで飲む事になる。


 意味不明な世界に放り込まれ、がちごちに固まっていて紅茶も何か甘くて美味しいかもとしか分からない。


「──さ、朝のお着替えをなされませ」


「うん、……はい」


 ──改めて見ても、別人みたいな美人だなあ。


 鏡をガン見ながら、言われるままに身支度をする。見たところ制服らしい、高級感はあっても装飾はない。


 すると、メイドさんが何かにたいそう驚いた。


「お坊ちゃま……華奢で女顔なご自分がお嫌だと、厭わしく思われて姿見を封じていらしたのに……」


「えっ」


 まあ、確かに男性としては可愛すぎるし骨が細い。


「あ、あのさ。そこは心境の変化だよ。目を逸らしてても現実は変わらないだろ?現実と向き合わないと変われないから、その」


 何となく、それっぽい事を述べる。すると、メイドさんは感極まった様子で声を上げた。


「ご立派でございます、お坊ちゃま……!」


「あ、ありがとう」


 あまりにも感動されてしまい、何だか落ち着かない気持ちになっていると、またもドアが控えめにノックされた。


「──お坊ちゃま、朝のお支度のところに失礼致します」


 そこに、執事らしい服装を着こなした初老の男性まで来て、うやうやしく封書を渡してくる。


「……手紙?こんな朝?らしいのに誰だろう……」


 開いて読むと、「抑制剤を切らしてしまった、至急納品を頼む」と素っ気なくしたためられており、何とグランドールの名前が書かれていた。


 抑制剤。遅くまで起きていた過労らしい自分。パズルのピースがひとつずつ、はまってゆく。


 ──え、グランドールは魔力暴走を抑制剤で抑えてたとか?


 グランドールの魔力量は膨大なもので、彼を悩ませている程だ。その抑制剤とやらを使っているのなら色々と納得も出来る。


 ──そこで、虎太郎がクククッと鳴いて走り出した。


「え、虎太郎さん?待て、どこ行くんだ、迷子になるって!脱走イタチになったら野生じゃ生きていけないんだって!」


 ……広大な屋敷での、フェレット虎太郎との追いかけっこが始まった。


「こ、虎太郎……頼む、虎太郎!ハウス!こっちおいで、虎太郎さん、おいでってば……!」


 虎太郎は迷わず走り抜け、追いかけているうちに息を切らす。


 ──え、夢なのに息が苦しくなる?リアル強すぎない?


 疑問が生まれるが、追いかけるしかない。すると、虎太郎が奥まった部屋に入った。何でドアが開いてるんだ。


 謎めいた部屋に、虎太郎を追って入る。そこは薄暗くて不気味だった。


「わ……薬くさい……薬草?青くさいし」


 ここで、夢で匂いまで感じるだなんておかしいと、なぜいい加減気づかないのか。


「何か……棚にやたら瓶が並んでるな。机には……理科の実験で使いそうな器具がたくさんある」


 そこは、研究部屋のような部屋だった。


「瓶の中身は……漢方薬にありそうな物ばかりだ」


 そこで思い出す、抑制剤というキーワード。


 ──この体の持ち主が、抑制剤を調剤してグランドールに渡してた?


 気づくのが遅い虎彦である。


「夢でも、おかしな世界だよな……あっ、虎太郎!」


 虎太郎が部屋の中の木箱を引っ掻き、匂いを嗅いでいる。フェレットは箱とか本当に好きだなと思いつつ止めに入る。


 それもそうだ、木箱には変な小瓶がきっちりとみっちりと収められているのだから。


「危ないもの誤飲したらどうすんだ、こら」


 抱き上げると、唐突に虎太郎が喋った。


「こんな苦そうなの誰が口にするもんか、僕が好きなのはチキンとヤギミルクだって知ってるくせに」


「は?虎太郎?お前、虎太郎だよな?」


 小さな男の子みたいな声で、虎太郎が丸い目を輝かせながら──にわかには信じがたい事を話した。


「うん。パパ、僕ね、虎太郎で神様のお使い!」


「は?神様の?」


 日本は八百万の神の国だ。しかし、フェレットを話せるようにする神様なんて聞いた事もない。


「僕ね、異世界を現実世界に持ってきた神様のお使いなんだよ!ここは異世界でもあるけど、現実世界でもあるんだあ」


 意気揚々と教えてくれる虎太郎だが、内容がおかしすぎて脳がバグを起こしている。


「訳分からん。え、お前特別なフェレットなのか?神って、もしかして俺憤死して転生とか?」


 転生、漫画やラノベで珍しくない設定だ。


 しかしまだ頭が追いつかない。虎太郎が喋るし、やはり夢のようにも思える。


「パパ生きてるよ、社畜パパは寝んねしてるの」


 社畜パパ、虎太郎に社畜なんて言われるとアラサーまで社畜してきた自分が可哀想になる。


 ──それは、ともかくだ。問題は本体が寝ている事だ。


「寝んねって……生きてるのは、まあ安心したけど……一人暮らしだぞ?発見してもらえなければ、すなわちアレじゃねえか?」


「大丈夫、ここも向こうも現実だけどね、時間の流れ方違うから、社畜パパは死なないよ!」


 そろそろ社畜というワードから離れて欲しいが、それよりもまずは、この世界について知るべきだと思い直して疑問を口にする。


「……でも、この若そうな姿に転生って事は、何らかのミッションがあるんだよな?」


 乙女ゲームの世界とごちゃ混ぜになっているのなら、この姿に変わっている自分には課せられるものがあるはずだ。


 しかし、虎太郎は僅かに開いた口から舌先を出して、可愛く見つめてくるばかり。


「転生?ミッション?よく分かんない。パパ、好きなの駄目になって悲しんでたから、好きなの助けさせたげるんだよ」


「……助ける……あの鬱エンドを変えるのか?」


「そう!あのね、耳貸して」


 二人きりの部屋で内緒話もおかしなものだが従う。


 そして、主人公はグランドールの為に完全な抑制剤を作ってやるのがグランドールを救う唯一の手段だと知った。


「この姿の持ち主も、そういう抑制剤の研究でもしてたのかな……いや待て、こんなキャラはゲームに出てきてないし公式でも触れてないぞ……」


「何言ってるの?パパがパパとして動く為のニンゲンになってるのに」


「……つまりは、イレギュラー?」


「そんなの分かんない。パパの推しが駄目にならない為には、このパパが必要なの」


 そういえば、振られたグランドールは必ず魔力暴走して、消し炭になるくらい浄化された。


 ──あれを回避するのか。


「パパの推しなんだろ?」


 虎太郎が気持ちを確認させる。ゲームで一喜一憂するところを見ていたのか虎太郎。だいぶ醜態を見られたような気がして羞恥心で爆発しそうだが、心はひとつ。


 ──そうだ、グランドールは尊い最推し。推しの不幸は我が不幸。


 虎彦には、その強い想いがあり、それが社畜生活を支えて守ってきてくれていたのだ。


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