100円で希望を見出す私は
これで鬱展開は終わりです
電話のベルが7回鳴ってやっと意識が覚醒した。私は急いで受話器を取った。
「すみません。お客様…チェックアウトの時刻になりますが…」
「ごめんなさい。あと1時間延長させてください」
「延長は構いませんが、延長10分ごとに1000円かかりますよ」
声色からして中年女性だ。女1人でラブホに泊まって延長する私を不審がっている。当たり前だ。
「大丈夫です。ちゃんと料金払いますから」そう言って私は受話器を置き浴室に向かった。
泡風呂機能があったので、まずお湯が入っていない状態で泡風呂モードをオンにし、ノズルに入っている水を吹き出させ、浴槽全体にシャワーで熱湯をかけた。
1分くらいしたら浴槽に栓をし蛇口を捻った。
私は服を脱ぎ、浴槽に湯が全く溜まっていない状態で浴槽に入り体育座りをした。
ラブホの浴槽は5〜6分でお湯が溜まるだろう。水圧も強いし。お湯が貯まる間にスマホいじったら一生動けなくなりそうだし。
私は浴槽で体育座りをしながら、蛇口から勢いよく流れるお湯をボーと見つめた。
「疲れた…」そう呟いたら浴室中に響き渡った。
お湯が太ももの位置くらいまで溜まった。
このホテルを出たら帰るんだ。全部忘れて飛行機に乗って家に帰るんだ。そして仕事に行ってお金を稼いで、ボーナスでお父さんにシャワーヘッドを買ってお母さんには食洗機を買って楽させるんだ。娘は立派になったよ。もう大丈夫だよって。
お湯が肩くらいのところまで溜まったので、蛇口に手をかけようとしたが不思議と手が止まった。
このままお風呂の中で溺死とかどうだろう。
私はそう思うやいなや尻を浴槽に滑らせ膝を折りたたみ仰向けの状態で顔を沈めた。
耳からパチュンと音がなり、鼻は奥がツンと痛くなった。膝が意思とは反してガクガクと痙攣しているのがわかる。
当たり前だが苦しい。
生の苦しみは死に近づくことだが、死の苦しみは生に近づくことだ。
死んだ心が生に近づいて苦しい。
元気な身体が死に近づいて苦しい。
相反する苦しみが重なり破裂する。子供が吹いた出来損ないのシャボン玉が重なってすぐに破裂するように。
「はぁ…はぁ…」
私は湯船から出て浴室で息を整えてから、何事もなかったかのようにシャンプーをし、トリートメントをした。身体は適当にボディーソープを塗りたくってお湯で流した。
浴室を出て、ゴワゴワの硬いタオルで体を拭き取り昨日と同じ服を着た。歯を軽く磨いたあと、ラブホでしか見たことない謎メーカーの水を飲み干した。
コートを着てホテルの部屋入り口前の精算機でお金を支払おうと、チェックアウトの画面を押した。
「やっす…」
7,100円だった。恐るべし北海道。関東だったら安くても1万5千円だぞ。
私はお財布から5千円札1枚と千円札2枚を入れた。そして小銭を取り出そうとしたが、一円玉と五円玉しかなかった。あー最悪…お札も万札しかないし。
そう思って不意にコートのポケットに手を入れた。
「アカリ…」
ポケットの中には、あの日の100円玉が入っていた。
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『100円あげる!これでアイスコーヒーは飲めますよね』
あの日、喫茶店でアカリはお金のない青年に100円をあげようとした。一杯のアイスコーヒーを飲ませてあげるために。でも青年は違った。
『じゃあ千円ちょうだいよ。俺はアイスモカとサンドイッチが本当は食べたいんだ。』
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青年に優しさを踏み躙られたアカリは、その矛先を私に向けた。
『手を差し伸べない傍観者のメルがいつも羨ましくて妬ましかったよ』
アカリの一言は鉛のように私の体を重たくさせた。私は側から見たら傍観者なのか。
小学生の時も…大学生の時も…。小学生の時のレイプ事件も被害者は私なのに皆が主役になろうとした。だからその座を皆に渡した。保健室の先生も警察も裁判官も先生も皆、悲劇のヒロインに関わる従事者という役割を楽しく演じてるようにしか見えなかった。模倣犯を産むことになった漫画の作者も主役だった。私1人置いてけぼりだった。
そう考えたら私はアカリの指摘したとおり傍観者なのかもしれない。
あの時、アカリの100円を拾わなかった男は今何をしているのだろうか。
傍観者の私は考える。
コオリは被害者をこれ以上産まないためにレイプされに行った。アカリは山崎を追い込むために命を捨てた。
じゃあ…私は何ができる。
私はどうやったら戦える。
戦える?
戦う…。
そうか私はちゃんと自分の意思で戦いたいんだ。警察や親や世間に促されず、自分の意思で決めて戦いたいんだ。
小学生の時にレイプされてから、色々な人から「辛い経験をしたけど、これからは前を向いて生きて」ってテンプレのように言われた。言わなきゃ罰金取られるのかと思うくらい言われた。
あの時は前に進むってなに?
どこが前だよ?って何度も思った。
でも…今やっと分かった。アカリが死んで分かった。
私が顔を上げて生きてればそこが前なんだ。被害に遭った記憶を思い出して泣き苦しむのも、なんとも無かったって思い込んで淫らな性を楽しむのも、普通の人生を普通に生きるのも、私が決めて進んだ道ならそれが前なんだ。私は今までちゃんと前を向いて生きてきたんだ。
だから今、私は戦いたい。
私の目の前にある道はヤマザキと戦うという道だ。
そう思ったら答えは一つだった。
『精算が完了しました。またのご利用お待ちしています』
ホテルを出ると、あくびをフワァとしている男がいた。
「おはよー奥村さん。寝不足?」
「当たり前ですよ。相方が逃亡したので一日中探していました」
「コオリを探さなきゃね」
「そうですよぉ星浦さん…作戦会議です」そう言って奥村一葉はニッコリ笑った。
鉛のように重たかったコートが軽くなっていた。
メルは小学生の時に被害に遭ってから、メルが1番最初にその被害を打ち明けたのは保健室の先生でした。「絶対に内緒にしてね」と保健室の先生に話したのに、次の日には警察や校長が家に来て、親は泣き崩れてメルは絶望しました。約束を破られたショックから辛いことがあっても誰にも話しちゃいけないんだとメルの心に刻まれました。それでもメルは大学生になってから、心を開いた男、ヤマザキに被害を打ち明けました。そしてレイプされ二度絶望することになったのです。




