着任
眠気を振り払いつつベッドから起き上がると、目の調子が悪くえらくぼやけた。貸し出しの眼鏡をつけ、顔を洗いに行くと見知らぬ男が鏡に映りようやく化かされていることに気づいたのである。
気が気でないからペンションを出ようとすると人っ子ひとりおらず、見知らぬ集落を駆け回っても一人も見当たらなかった。腹も減ってきたが、よくわからぬ場所で物は食いたくはない。
ただ、人間というのは一度文明とか文化を知ると人がいなくてもそこが社会と思ってしまうらしく、吸い寄せられるように静まり返った建物に侵入し便所に向かった。
便所から廊下に出るとそこは煙りくさい廃校であり、またようやく人影が見えた。それは女学生であるが、誰に餌付けされたか知らぬが生意気に煙草を吸っていた。
「よく見ろ、チョークだ。軍隊帰りの親父みたいな目をしやがってさ」
言葉に詰まったが、幸いなことは得体のしれぬ眼の前のものが舌を出して取って食うようなものではないということがすんなりとわかったことだ。
「生徒は君ひとりかな」
「しばらく一緒にいたやつがいたが、今朝に朝露みたいにとけて消えたよ。気味が悪いさ」
互いに巻き込まれている怪力乱神を知らないためにここから先はあんまり話は進展しなかったが、話の種を使い切ってしまったことはここではすべきことがないので後悔をした。
「そこら辺を歩いてくる」
言葉を発すると彼女は私の腕を骨を意識させるほどに掴んだ、歩いたところでどうなるというのかと訊いてきたがそれは名目でしかなく、そう遠くに行かれるのを怯えてるようであった。ただ、掴む彼女の手には歳に似合わぬ癖があるようで長年続いたセオリーが崩れたようなアンバランスを感じた。
「なに、校舎を回るだけだよ。」
彼女をふりきり中庭に出ると花壇があった。ここで私の逃亡劇は終わったのだが、草が周囲に生しておりいくつか枯れているのがわかる。気の毒だから軽く整えるといささか雑ではあるが手入れされているのがあった。
「これは君のだな?普段からやっていないお嬢さんがやりがちだ。」
「お嬢さんだったならだらける姿すらサマになるんだから、そうならどんなに良かったか。」
「左様かもしれませんな。管理をするならあの蹴ってもびくともしない松なら楽だろうね。松いじり係でもして花壇は暇つぶしに触るよ」