もう二度と泣き寝入りしません
「はっ?その女、誰……?」
彼氏が一人暮らしているアパートを訪れ、発した第一声がそれだった。
だって、合鍵を使って入ってみたら見知らぬ女と恋人の大川修斗がベッドに並んでいたんだから。
問い質すまでもなく、浮気しているのは明白。
鼻につく香水の匂いに顔を顰めながら、私は寝室の扉に寄り掛かる。
腹の底から湧き上がる怒りを抑え、相手の女を睨みつけた。
動揺した素振りは……ない。
てことは、私と修斗の関係を知った上で付き合っていたんだ。
『こっちもクズか』と頭の片隅で考える中、相手の女は綺麗に巻かれた茶髪を指で弄る。
心底退屈そうに。
『せっかく、いいところだったのに』とボヤく彼女を他所に、修斗は焦りまくっていた。
「い、いや……これはジャレ合っていただけで……」
「すっぽんぽんで?抱き合いながら?」
「うっ……!それは……」
『いくらなんでも無理があるでしょう』と突き放す私に、修斗は何も言えなくなる。
これはさすがに誤魔化せない、と自分でも分かっているのだろう。
「だ、大体何でいきなり来るんだよ……」
「はぁ?アンタが今朝、『夕飯を作りに来て』って連絡してきたからでしょ!月末で金欠だからって!」
「うっ……で、でも合鍵を勝手に使うのは……」
「インタホーンを押しても出てこなかったのは、どこのどなた?」
「……」
論点をズラすどころか返り討ちに遭い、修斗は押し黙る。
もう大学四年生になったというのに、この体たらく……。
他所の女を連れ込むなら、こっちの予定をキャンセルしとけっつーの。
アンタはいつもいつも詰めが甘いのよ。
まあ、こんな男だと見抜けなかった私も私だけど。
時間も金もルーズなのは知っていたけど、下半身までこの有り様とは……。
悲しいよりも怒りが勝っているからか、妙に達観している私は『とりあえず、別れ話かなぁ』と考える。
さすがに浮気現場を見せられて、付き合い続ける気力はなかった。
『こんな男、さっさと捨てて次に行こう』と思い立ち、私は姿勢を正す。
「分かっていると思うけど、私達これで終わりだから」
「えっ!?それは……!」
「何?文句ある?」
「い、いや……その……」
一応罪悪感があるのか、『やり直してほしい』とは言えないようだ。
ただただ縋るような目をこちらに向けるだけ。
なんとも情けない彼氏の姿に、私はすっかり冷めてしまう。
「とにかく、別れるのは決定事項。これは曲げられない」
「……う、うん。分かった」
私は一度言い出したら聞かないタイプの人間なので、修斗は素直に破局を受け入れた。
『今までありがとう。それと、ごめん』と述べる彼を前に、私は踵を返す────が、あることを思い出して立ち止まった。
『別れる以上、絶対にアレは清算してもらわなきゃ』と思いながら、後ろを振り返る。
「そうだ、一つ言い忘れていたけど────今まで貸した金は全部返してもらうからね」
「えっ……!?」
「当然でしょ、私達もう別れるんだから。そこら辺はきっちりしてもらわないと」
「そ、それはそうだけど……でも、いきなり全部なんて……」
「親に頼むなり、消費者金融から借りるなりすれば?」
もう恋人でもなんでもないので、甘やかすつもりは一切ない。
一の位まできっちり返してもらう。
てか、そもそも貸したままでいられる金額じゃないし……。
「一先ず、七桁は覚悟しておいて。細かい金額については一度計算してから、連絡する」
一応金額はある程度把握しているももの、正確じゃないので通帳などを見直さないといけない。
請求した金額が実際より多くても、少なくても揉めることになるだろうから。
『こういう問題はきちんとしなければ』と思案する中、修斗は半泣きになる。
「ま、待ってくれよ……俺も確かに悪かったけどさ……でも、いきなりこんな……万年金欠なのは、理恵だって知っているだろ?」
「アンタの事情は私に関係ない。あと、気安く名前で呼ばないで。これからは苗字の愛川で、よろしく」
短く切り揃えられた黒髪を手で払い、私は前を向いた。
『さっさとこんなところ出て行ってやる』と決意するものの、グイッと腕を引っ張られる。
嫌々ながらも振り向けば、可哀想なほど震える修斗……いや、大川の姿が目に入った。
金髪ピアスで如何にも柄の悪そうな見た目に反し、小心者の彼は顔面蒼白である。
「ま、マジで無理だって……!親に迷惑は掛けられないし、街金は……ほら、利子とかあるじゃん!だから、返済は……」
「────しゅーくん」
大川の言葉を遮るようにして声を上げたのは、浮気相手だった。
いつの間にか着替えていたらしく、可愛らしいワンピースに身を包んでおり、メイクもうっすら施されている。
『この女、いつの間に……!?』と驚く私を他所に、彼女はテクテクとこちらへやってきた。
かと思えば、大川の隣に並び、何やら耳打ちしている。
「……で……だから……しなくて、大丈夫」
「えっ?でも……瑠璃、それって……」
「大丈夫だから。だって……で……なんでしょう?」
「う、うん……」
「なら、絶対に大丈夫」
大川に瑠璃と呼ばれていた女は、自信満々な様子で胸を張る。
こちらとしては何が大丈夫なのかサッパリ分からないが、まあ……大川の泣き落としに付き合わずに済むなら、それでいい。
『こいつの涙は鬱陶しいからな』とゲンナリしていると、大川が私の腕を離した。
「えっと……もう帰っていいよ」
うん!?何故、上から目線……!?なんか、癪に障るな!
『言われなくても、帰りますけど!?』と叫びそうになるのを抑え、私は無言で玄関へ向かう。
これ以上、揉めるのは御免だったから。
未だに胸の奥で擽る怒りを宥めつつ、私は外へ出て鍵を閉める。
そして、何年も使った合鍵を郵便受けに押し込んだ。
ガシャンと鳴る落下音を聞き流し、やっとの思いで帰路へつく。
────その翌日、私は講義を休んで貸したお金の計算に専念していた。
正直凄く面倒臭かったが、他の人に頼む訳にはいかないためひたすら数字と睨めっこ。
電卓を使っているので作業自体は簡単だが、数年分ともなればさすがに疲れる。
『こんなに貸していたのかよ』という脱力感……いや、自己嫌悪もあって余計に。
はぁ……総額260万円って、馬鹿じゃないの。
いくらなんでも、貸しすぎだって。
「うぅ……だってさ〜!将来は同じ財布になるんだからって、結婚を匂わせられたら出しちゃうじゃん!」
意味もなく自己弁護して、私はテーブルに突っ伏した。
通帳のコピーや計算の際に使ったメモを眺め、過去の記憶を手繰り寄せる。
そもそも、私が大川にここまでお金を貸していたのは────あいつが学費以外仕送りしてもらってない、苦学生だから。
遊興費はもちろん、生活費も自分で賄わないといけないため万年金欠。
なので、『明日の食費が』『家賃が』と泣きつけれると、どうしても放っておけなかった。
昨日の夕飯の件も、そう。
私は実家暮らしで、ある程度お金に余裕があるからさ。
バイトだってしているし、物欲もあまりないため大川にお金を貸しても大して困らなかった。
『将来は結婚するんだし♪』って、浮かれているのもあって返済を催促してこなかったし……。
『別れるという選択肢がまず無かったんだよね』と苦笑いし、私は小さく肩を竦めた。
『我ながら青すぎる……』と過去の自分を恥ずかしく思う中、私はスマホを手に取る。
慣れた手つきで電話帳を開き、大川に通話を掛けると、そっと耳に当てた。
────が、直ぐに『お客様のご希望でお繋ぎ出来ません』という音声が耳を掠める。
「はっ?着信拒否?」
半ば呆然としながらスマホを下ろし、私は画面を覗き込む。
通話相手を間違えているのかと思い、一度入念にチェックするものの、大川の電話番号で間違いなかった。
通信トラブルの可能性も考え、再度掛け直してみるが……やはり繋がらない。
これはもう大川の意思で連絡手段を絶ったとみて、いいだろう。
「嗚呼、もう……!総額計算したら連絡するって、言ったのに!」
『まさかのバックレ!?』と喚きながら、私はライムを開く。
基本、大川も私もチャットが好きじゃないため取り込み中でなければ、電話を使用するのだが……今回はしょうがない。
『フリック入力苦手なんだよ〜〜〜!』と文句を言いつつ文章を打ち込み、相手に送信した。
ついでにライムの文章をコピペして、メールからも送っておいた。
────が、待てど暮らせど返信は来ない。
ライムに関しては、既読すらついてなかった。
今日でもう三日なんですけど〜〜〜!?
瑠璃とか言う女が『大丈夫』って、言い張っていたのはこういうこと!?
バックレれば、問題ないって!?
「そんな訳あるか!」
スマホに向かってそう叫び、私は自室のクローゼットを開ける。
ジーパンやらYシャツやら引っ張り出すと、部屋着を脱ぎ捨てた。
数千円単位の貸し借りならまだしも、数百万単位だよ!?
このまま大人しく、踏み倒される訳ないじゃん!
絶対、回収するって!
『手切れ金だと思って、割り切れる額じゃない!』といきり立ちながら、私は身支度を整える。
と言っても、コンビニに行くようなラフな格好だが。
さすがに元カレのためにオシャレしよう、とは思わなかった。
『まだ未練があると勘違いされても厄介だし』と思案しつつ、私は両親に一声掛けて家を出る。
そして愛車に乗り込むと、大川のアパートへ向かい、インタホーンを鳴らした。
「は〜い」
聞き覚えのある声が耳を掠め、扉は無防備に開け放たれる。
と同時に、私はスルリと中へ入った。
だって、電話やメールのようにまた拒否されたり、スルーされたりしたら困るから。
「こんばんは、大川」
玄関の壁に寄り掛かりながら、私は笑顔で挨拶した。
すると、半裸で出てきた大川は寒さのせいかプルプル震え始める。
「り、理恵……何で……」
目を白黒させる大川は、まるで幽霊でも見たかのような顔で固まった。
あからさまに怯えている様子の彼を前に、私は溜め息を零す。
「アンタが連絡を返さないから、来たの。あと、前も言ったけど名前で呼ばないでくれる?不愉快だから」
『可愛さ余って憎さ百倍』という言葉通り、私は今大川に憎しみしかないため冷たい態度を取る。
出来るだけ意識しないようにしているが、惨めで悔しい気持ちは確かにあるから。
優しくする余裕なんて、一ミリもなかった。
またあの女、来ているみたいだし。
まあ、元カノの私には関係ないんだけど。
玄関の隅っこに並べられた赤いピンヒールを一瞥し、私はスマホを操作する。
『さっさと用事を済ませよう』とライムのトーク画面に切り替え、ソレを大川に見せた。
「はい、これ。もう見ているかもしれないけど、一応口頭でも伝えるね。アンタに貸したお金は、総額260万円。アンタのアパートの近くにあるコンビニ、あるでしょ?あそこで引き出した金額を合算した」
スマホで撮った通帳の写真を見せ、『CDの()にある数字が、店番号ね』と補足。
怯えたように一歩後ろへ下がる大川に、私は容赦なく画面を突きつけた。
「私は基本銀行でしかお金を下ろさないし、あのコンビニで下ろしたお金は全部アンタに渡している。てか、アンタがお金を貸してほしいって言ってきた時しか、あのコンビニに行かないし」
『だから、260万という数字に誤りはない』と言い切り、ライムの画面へ戻る。
「本当はATMの手数料も請求したかったんだけど、そこまで計算したら長くなるし、まけてあげた。感謝してよね」
『私が几帳面なタイプじゃなくて良かったね〜』と言いながら、片手を腰に当てた。
「という訳で、一週間以内に返済よろしく。口座番号はライムに送ってあるから」
「ちょっ……そんな勝手に……」
「もし、返済期限を過ぎても入金を確認出来なかった場合、親御さんに連絡するからね」
「は、はぁ!?親は関係ないだろ!」
バンッと壁を殴りつけ、大川は急に怒り出す。
親に迷惑を掛けたくないと思っているのか、それとも別に理由があるのか……まあ、何にせよどうでもいいが。
「なら、一週間以内に返済することだね。私はお金さえ返してくれれば、それでいいから」
親の金だろうと、アンタの金だろうと金が金であることに変わりはない。
なので、一切情けを掛けるつもりはなかった。
『とにかく、さっさと返済してもらって完全に縁を切りたい』と考える中、大川が少し顔を伏せる。
『もしかして、また泣き落としか?』とゲンナリする私を前に、彼は強く拳を握り締めた。
「……ない」
「はっ?なんて?」
「お、お前に金を借りた覚えはない」
ついにとち狂ってしまったのか、大川は盛大な嘘を吐いた。
『借金から逃れるためにここまでやるのか』と驚く私に、彼は更に言葉を続ける。
「親に言いたいなら、言えよ……!俺はとにかく、借りてないから!周りに白い目で見られるのは、お前なんだからな!」
不安そうに瞳の奥を揺らしながらも、大川は強気な態度を取った。
『なんだか、彼らしくないな』と思っていると、強引に外へ押し出される。
「もう二度とこっちに関わるな!今度は警察に通報する!」
そう言うが早いか、大川は勢いよく玄関の扉を閉めた。
ついでにガチャン!と鍵を掛ける音も聞こえる。
えっ?追い出された?あの大川に?
スマホ片手に呆然と立ち尽くし、私はしばらく放心。
でも、車の走行音を聞いてハッと我に返った。
「なっ……!?アンタ、何を言って……!」
『ふざけているの!?』と喚き、私は玄関の扉を叩く。
────と、ここで鍵の開く音が聞こえた。
『やっぱり、さっきの態度は虚勢だったんだ!』と安堵する中、扉は開く。
そして、出てきたのは大川────じゃなくて、女だった。
チェーンをしているため全身は見えないが、あの茶髪とネイル……浮気相手の瑠璃で間違いない。
何でこいつが出てくる訳……?
まさか、大川のやつビビって女に丸投げしたの!?ヘタレ過ぎない!?
『自分の尻くらい自分で拭けや!』と憤慨する中、瑠璃は紅に彩られた唇で弧を描く。
「あのね、しゅーくんはもう貴方に会うつもりないみたいだから帰ってくれる?」
「はっ?」
「あんまり騒がれると、ご近所迷惑になっちゃうでしょ?」
「……」
至極真っ当なご意見に、私は思わず口を噤んだ。
『日を改めた方がいいか』と考え、一つ息を吐く。
「……分かった。今日のところは帰る」
素直に引き下がる姿勢を見せた私は、クルリと身を翻した。
その瞬間、
「────今まで本当にありがとう」
と、急にお礼を言われた。
『えっ?』と声を漏らす私は、反射的に後ろを振り返る。
すると、そこには勝ち誇った笑みを浮かべる瑠璃の姿が……。
「────働きアリみたいにせっせと貢いでくれて、ご苦労様。おかげで予定より、早く結婚式を挙げられそう」
「!!」
衝撃のあまり言葉も出ない私に、瑠璃はスッと目を細める。
そして左手の薬指に嵌めた指輪をこちらに見せると、『あのお金は私達のために使わせてもらうね』と宣った。
「それじゃあ、さようなら」
最後の最後で『本命は私』と証明出来て満足したのか、さっさと扉を閉める。
私はただその光景を眺めることしか、出来なかった。
浮気相手は……邪魔者は私の方だった?
ギュッと強くスマホを握り締め、私は目を白黒させる。
この瞬間、ようやく────怒りよりも悲しみが勝った。
私には結婚式の話なんて、一切してこなかった……『結婚しようね』とは言い合ってきたけど、本当にそれだけ。
ちゃんとした顔合わせだって、してない。
強いて言うなら大川が高熱を出して大変な時、成り行きでご両親に連絡したくらい。
一気に甦ってくる過去の思い出を前に、私は歯を食いしばる。
自分は金蔓なんかじゃない、と……しっかり愛されていた、と信じたくて必死に根拠を探した。
ま、まだアレが結婚指輪だと決まった訳じゃない……瑠璃が私物を嵌めて、偽った可能性も……。
『早合点は良くない』と自分に言い聞かせ、何とか平静を取り戻す。
目に滲んだ涙を乱暴に拭い、私は家に帰った。
自室のベッドで寛ぎながら、考えを整理する。
瑠璃の暴露は一旦、置いておくとして……一番の問題は大川がきちんと返済してくれるか、どうかだよね。
正直不安しかないけど、『一週間以内に』と期限を設けた手前話し合いは……難しい。
下手したら、『まだ返済期限を過ぎてないのに催促している』って思われるし。
「とりあえず、一週間待ってみるか。あの様子だと、期待は出来ないけど」
────という訳で、ここ一週間は完全に放置した。
直接接触はもちろん、連絡だってしていない。
それを都合よく解釈したのか、相手もまた一切の関わりを絶ってきた。
「0時ジャスト……」
自室のベッドに座り、掛け時計を眺める私は一つ息を吐く。
────今、この時を持って私の提示した返済期限は終わった。
「案の定、入金はなしか」
スマホに入れた銀行アプリを起動し、取引明細を確認する私は一週間前と変わらない数字に肩を落とす。
『バックレたな、あいつ』と思いながら。
「連絡も一切ないし────宣言通り、親御さんに連絡するか」
『このままじゃ、埒が明かない』と判断し、私は以前教えてもらった家電の番号を入力する。
さすがに夜中の電話は非常識かもしれないが、こっちはもう一秒だって待てなかった。
返済のことを思い出す度、瑠璃の暴露が頭にチラつくから。
とにかく、お金を返してもらって全部忘れたい。
プラマイゼロになれば、本命とか結婚とか気にしなくて済むから。
復讐よりもリセットを望む私は、意を決して通話ボタンを押す。
プルルルと鳴るコール音を聞き流しながら、待つこと一分……
『はい』
という女性の声が、聞こえた。
『大川のお母さんかな?』と推測しつつ、私はホッと息を吐き出す。
これで全部終わるのかと思うと、嬉しくて。
『悪夢から覚めたような気分だ』と頬を緩め、私は一度深呼吸した。
「夜分遅くに申し訳ございません。わたくし、愛川と言います。こちら、大川様のお電話でお間違いないでしょうか?」
『はい、そうですが……』
「実は息子さんの件で、お話がありまして……」
『息子?』
怪訝そうな様子で聞き返してくる母親に、私は『はい』と首を縦に振る。
「実は私、修斗さんと最近までお付き合いしていたんです。それで260万円ほどお金を貸していて、返済を……」
『貴方、下の名前は?』
「えっ?」
突然名前の開示を求められ、私は困惑した。
『それって、今必要ある?』と。
でも、いきなりお金の話をされても困るだろうし、最悪詐欺師と間違えられる可能性もあるのでおずおずと答える。
「り、理恵ですけど……」
『やっぱり!────貴方だったのね、修斗のストーカーって!』
「……はい?」
我が意を得たり!と言わんばかりの物言いで言い切る母親に、私はパチパチと瞬きを繰り返した。
ストーカーなんて、生まれてこの方言われたことないから。
『一体、何のことだ?』と眉を顰め、私は必死に思考を回す。
────が、思い当たる節は一切ない。
だって大川を尾行したことはもちろん、しつこく連絡したこともないから。
「あの、すみません。何のことだか、サッパリ……」
『とぼけても無駄よ!息子にちゃんと聞いているんだから!もう別れたのに、元カノが粘着してきて困っているって!ありもしない借金をでっち上げて、返済するか復縁するか迫ってきているそうじゃない!?』
「えっ!?ちょっ……なにそれ!?」
事実からかけ離れた嘘の主張に、私は目を見開いて固まった。
────が、このままだとヤバい元カノ認定されて終わりなので何とか声を振り絞る。
「ち、違います!私は復縁なんて求めてないし、本当にお金を貸していて……!」
『はぁ……嘘ばっかり!言っておきますけどね!息子に限って、借金なんて有り得ませんから!こっちから学費に加えて生活費まで出している上、息子自身もバイトをしているの!それなのに、借金する必要なんてあると思う!?』
「はっ?」
生活費は自己負担って、言ってなかった……?実際は親に出してもらっていたの?
じゃあ、私の貸したお金の行方って本当に……。
瑠璃の暴露が脳裏を過ぎり、私はカタカタと震える。
『働きアリ』という言葉が耳の奥で木霊する中、母親はフンッと鼻を鳴らした。
『分かったら、もう連絡してこないで!今度私や息子に関わったら、ただじゃおきませんよ!』
「えっ?待っ……!」
『結婚も決まって、幸せの絶頂なんだから邪魔しないでちょうだい!』
そう言うが早いか、母親は電話を叩き切る。
ツーツーと鳴るスマホを前に、私は呆然とした。
もう親御さんのところまで結婚の話が回っているのか、と。
ここまで現実を突きつけられれば、さすがに認めるしかない。
私は────大川の金蔓で、遊び相手。都合のいい女そのもの。愛なんて、一欠片もない。
「ははっ……馬鹿みたい。あいつの話を信じて、ホイホイ金を貸して……口ではガミガミ言っているけど、結局あいつに甘くて……困っているって泣きつかれれば、駆けつけて……」
『そんなんだから、カモにされるんだっつーの』と呟き、私はポロポロと大粒の涙を零した。
ひたすら悔しくて、情けなくて、惨めで……胸が苦しい。
単なる浮気なら、まだ耐えられた。でも、金蔓扱いは……さすがに無理だ。
最初から全部嘘だったなんて……悲しすぎる。
残酷すぎる真実を目の当たりにし、私は枕に顔を埋めた。
処理し切れない感情に四苦八苦しながら、ゴロンとベッドに寝転ぶ。
────でも、よく考えてみればおかしなところは沢山あったよね。
恋人同士なのに、デートはもちろん夜のことだってあまりしてこなかった。
というか、避けられていた。
最初は単純に時間がないのかと思っていたけど……金蔓に手間を掛けたくなかったのね。
『バイトで忙しい』『疲れた』と言えば、大人しく引き下がる私はさぞ便利だっただろう。
「こんなことになるくらいなら、理解のある彼女なんて演じなければ良かった」
『下手に大人ぶって損してちゃ世話ない』と肩を竦め、自嘲気味に笑う。
私は手に持ったままのスマホをチラリと見て、少し悩む。
掛け直す……?いや、でも……めちゃくちゃ怒っていたしな。
興奮して、話にならない可能性の方が高い。
そもそも、繋がるかどうかも怪しいしね。
『着信拒否されているかも』という懸念を抱きつつ、私は涙を拭った。
まだまだ心に整理はつかないが、少しスッキリした。
とりあえず、大川の親御さんは宛にならないって判明したし、次の手を考えるか。
────と思い立ち、私は冷静に自分の状況を考える。
「共通の友人が居れば、間に入ってもらうんだけど……残念ながら、居ないんだよね。学科もサークルも違うから。じゃあ、やっぱり大川のアパートに突撃するしか……」
直接対決の四文字が思い浮かび、私は深い溜め息を零す。
もう既に失敗している方法のため、あまり気は進まなかった。
何より、大川の母親の発言が気に掛かる。
単なる脅し文句なら構わないが、もし何かしら手を打ってきたら……それこそ、警察とか弁護士とか。
「────あっ、そうだ!弁護士!」
ガバッと勢いよく起き上がった私は、キラキラと目を輝かせる。
『交渉のプロに頼めば、一発じゃん!』と。
今までそういった職業と無縁の生活だったため、思いつかなかったが、この場合最善の方法だと思う。
交渉次第では、裁判に発展する可能性だってあるので最初からプロを入れた方がいい。
多少の出費は覚悟しないといけないけど、260万もの借金を踏み倒されるよりマシでしょ!
大川の母親だって、弁護士の話なら信じてくれるかもしれないし!
「よし!そうと決まれば、即行動!」
────という宣言のもと、私は朝一で弁護士事務所に駆け込んだ。
応接室でお茶を飲みながら、借金の返済について相談する。
『後出し厳禁』と言われているため、別れた経緯や昨日の電話内容もきちんと説明した。
「なるほど……確かに260万は大金ですね。取り返したいという愛川様のお気持ち、よく分かります。ただ────」
そこで一度言葉を切ると、弁護士の男性は居住まいを正す。
「────お話を聞く限り、借用書は取り交わしていませんよね?」
「は、はい……あくまで恋人同士の貸し借りだと思っていたので、そういった書類は……」
大川の『結婚しよう』という言葉を担保に、貸しまくっていた私は身を縮める。
『今、思えばあんなセリフ何の意味もなかったな』と考えながら。
自分の馬鹿さ加減に嫌気が差す中、弁護士の男性はスッと目を細めた。
「そうですか。では、銀行の振込記録などは?」
「えっと……基本的に現金手渡しだったので、振込記録はありません」
「じゃあ、メールなど文書に残る形でお金に関するやり取りはしましたか?」
「私も大川もあまりチャットをしないタチなので、最後に送ったやつくらいしか……」
スマホを操作して大川とのトーク画面を開く私に、弁護士の男性は渋い顔をする。
「ちなみにご返信は?」
「……ありません」
一応メールボックスの方も確認したが、大川からの返信はなかった。
そろそろとスマホ画面から顔を上げる私の前で、弁護士の男性は悩ましげに眉を顰める。
「そうなると……返済を促すのは、難しいかもしれません。愛川様が大川様に金銭をお貸しした、という証拠が残っていませんので」
「そ、そんな……」
「悔しいかもしれませんが、高い授業料だと思って忘れるしかないかと」
そっと眉尻を下げながら、弁護士の男性は返済を諦めるよう促してきた。
────が、納得出来る筈もなく……私は縋るような目で相手を見つめる。
「どうにか出来ませんか……?」
「私が間に入って説得することは可能ですが、あちらに『借りていない』と言い張られればどうしようもありません。ただ弁護士費用を支払うだけに終わる可能性も……」
『時間とお金の無駄だ』と主張し、弁護士の男性はやんわりと……でも、確実に私の希望を打ち砕いた。
ショックで声も出ない私は、震える手をギュッと握り締める。
下手に気を持たせて、金を巻き上げられるより全然マシだけど……やり切れない。
だって、弁護士でも無理なら本当に打つ手がなくなっちゃうから。
正攻法で取り返すのは、まず不可能だろう。
『最終的に損をするのは自分』という事実を噛み締めながら、私は席を立った。
弁護士の男性をお礼を言って相談料を支払い、帰路につく。
そして、帰宅するなり自室のベッドにダイブした。
結局、無駄足だったな……いや、プロからの見解を聞けただけ、良かったと考えよう。
おかげで、自分の状況や大川の言動の意味を理解出来たから。
「多分、大川は……というか、瑠璃はこうなることを見越した上で余裕そうな態度を取っていたんだろうな。一切接触してこなかったのも、ボロを出さないため……」
『ギャルっぽい見た目に反して、狡猾だな』と呟き、私は溜め息を零す。
完全にしてやられた自分を、詰めが甘すぎる自分を、アホの極みである自分を嘲笑い、天井を見上げた。
「260万……手段を選ばず捨て身で取り返すか、泣き寝入りするか」
まあ、そんなの考えるまでもないけど。
だって、260万というお金は犯罪まがいのことをしてまで取り返す額じゃないから。
『人生を賭ける価値はない』とバッサリ切り捨て、私はようやく腹を決める。
正直まだ悔しい気持ちは残っているものの、これから就職活動だってあるのにいつまでもウジウジしていられない。
弁護士の言う通り、高い授業料だと思って割り切ろう。
────そう決意してから、約半年。
無事大学を卒業して働き出した私は、毎日大忙しだった。
だから、もう大川のことなんて忘れていたのに────ある日、届いた一通のメールのせいで変わってしまう。
『おかげさまで私達、結婚出来ました〜!
今、と〜っても幸せです♡
働きアリさん……じゃなくて、愛川さんからはいっぱいご祝儀(笑)を頂いたので、特別に結婚式の写真をお送りします♡
良かったら、ホーム画にしてね!』
という文面と共に、一枚の画像が……。
震える手でソレをタップすると、晴れ姿の瑠璃と大川が目に入った。
二人ともニコニコと笑っており、実に幸せそう。
今の私とは、大違いである。
「式のお金って……あの260万から、だよね」
画像の端から端まで確認し、私は『これくらいなら、相場くらいで……』と脳内の算盤を弾く。
やめておけばいいのに……大川のSNSアカウントを探し出し、色々計算した。
さすがにこの規模だと、260万より高くなっちゃうけど、大川と瑠璃の個人貯金を叩けば充分可能。
もしかしたら、両親からの援助もあったかもしれないし……。
「ははっ……社会人一年目で、結婚ですか。しかも、他人の金で……いいご身分だね!」
バンッとスマホを床に叩きつけ、私は顔を歪める。
『気にするな』『全部スルーしろ』と自分に言い聞かせるものの、再燃した怒りは止まらない。
一番憎い人達の幸せを手助けした、という事実が許せなくて歯軋りした。
「もう……!やっと忘れられたのに……!何で連絡してくる訳……!?幸せアピールとか、必要ないっつーの!」
抑え切れない怒りを拳に込め、枕にぶつける。
単なる八つ当たりであることは分かっているが、こうでもしないとメールに返信しそうだったから……。
瑠璃の性格的にどんな罵詈雑言を浴びせても、きっとビクともしない。
むしろ、『お〜!ピキってる、ピキってる♪』と喜ぶ筈。
あの女の玩具になることだけは、絶対御免だった。
あ〜〜〜!!!!!悔しい、悔しい、悔しい、悔しい!!!!!
「復讐したい……!!!!!」
腹の底から出た本音に、私はクシャリと顔を顰めた。
だって、現状ではどう頑張っても無理で……むしろ、返り討ちになるかもしれない。
『藪蛇』という単語が脳裏を過ぎり、私は膝から崩れ落ちた。
時間さえ巻き戻れば……もう二度とこんな失敗はしないのに!きっちり、復讐するのに……!
「お願いだから、付き合っていた頃に戻ってよ……!」
『やられっぱなしなんて、嫌だ!』と心の底から願い、私は復讐の機会を欲した。
その瞬間────メールの受信音が耳を掠める。
また瑠璃から……!?
『まだ私をコケにしたいの!?』と苛立ちながらスマホを手に取り、通知を確認。
「あれ……?瑠璃じゃない……?」
全く見覚えのないアドレスを見やり、私は首を傾げた。
『詐欺メール?』と疑うものの、一先ずメールを開く。
すると────『逆行しませんか?』という文面が、目に飛び込んできた。
あまりにもタイミングの良すぎる内容に、私は思わず笑ってしまう。
「逆行、ね〜。もし、本当に出来るならしたいけど」
気が抜けて少し冷静になった私は、ベッドに腰を下ろした。
詐欺らしさの欠片もない文章を読み進め、おもむろに返信画面へ移る。
逆行なんて出来ないのは、分かっている。
誰かのイタズラに踊らされているだけだってことも……。
でも、ちょっとの間夢を見るくらい良いでしょ?
別に誰にも迷惑を掛けていないんだから。
「今だけ……今だけ、逆行出来るかもしれない可能性に縋らせて」
誰に言うでもなくそう呟くと、私は逆行したい日付けを入力した。
あとは送信ボタンを押すだけである。
実に簡単な手順……だからこそ、逆行なんて不可能だと悟ってしまう。
「短い間だったけど、いい夢を見させてくれてありがとう」
メールの送り主に感謝しながら、私は意を決して返信した。
その途端────視界が霞み、とてつもない目眩を覚える。
なに、これ……?私、死ぬの……?
意識が遠のいていく感覚を覚えつつ、私は心の中で『きゅ、救急車……』と呟いた。
────が、スマホを操作出来るほどの力は残っておらず……家族に発見されることを待つしかない。
『お母さん、頼むから異常に気づいて!』と願う中、頭の中は真っ白になった。
かと思えば、一気に意識はクリアになる。ついでに視界も。
「あ、あれ……?私……」
困惑気味に目を白黒させながら、私は辺りを見回す。
そして、直ぐに異常を察知した。
だって────さっきまでの場所や服装じゃないから。
ここ、どこ?私、家の中に居たよね?病院ならまだしも、外ってどういうこと?
それに、この服は半年前に捨てた筈……って、まさか────
とある可能性に気づき、私は慌ててスマホの電源を入れる。
と同時に、目を剥いた。
「やっぱり────逆行している……」
スマホに表示された日付けをまじまじと見つめ、私は呆然とする。
俄かには信じ難い事実を前に、ひたすら立ち尽くした。
「……なんだか、狐に化かされたような気分ね」
ようやく発した第一声がお礼ではなく感想のあたり、実に私らしい。
『うん、我ながら捻くれている』と苦笑いしながら、小さく肩を竦めた。
お礼は復讐の後でたっぷりするよ。
どうせ、ここで何をしたってメールの送り主には届かないだろうし。
今はとりあえず────大川と瑠璃を地獄に叩き落とすことだけ、考える。
せっかく過去に戻れたんだから、きっちり復讐しないとね。
『借金の返済だけで終わるつもりはない』と奮起し、私は手始めにライムのトーク画面を開く。
その目的はもちろん────夕飯の予定をキャンセルするため。
というのも、逆行した日時が浮気現場に居合わせる日の三十分前だから。
つまり、現段階ではまだ大川の浮気……いや、本命の存在を知らないということになる。
あくまで表面上の話だが。
出来ることなら、今すぐアパートに乗り込んで大川と瑠璃の顔面を殴り飛ばしたいところだけど……そんなことをして、不利になるのはこっち。
借金の返済はおろか、更に慰謝料だって取られるかもしれない。
だから、今は証拠固めに勤しまないと。
『焦るな』と自分に言い聞かせ、私はスマホのキーボードを打つ。
『ごめん、遅番の子が病欠で代わりに出ることになった。
申し訳ないけど、夕飯は適当に済ませて』
といった文章をチャットで送り、私は直ぐに踵を返した。
『浮気現場へ乗り込む前に逆行して、良かった〜』と心底思いながら大通りに出て、タクシーを拾う。
そして自宅に帰ると、早速作戦を練り始めた。
弁護士との会話内容を振り返る限り、大事なのは『私が大川にお金を貸した』という物的証拠・記録が残っていること。
そのためには借用書を書かせるか、銀行振込で記録を残すか、チャットやメールでお金の話をするかしないといけない。
ただし、ここで肝となるのが────
「────大川や瑠璃にこちらの狙いを悟られないこと」
ボソッとそう呟き、私は借金関係のネット記事と睨めっこした。
せっかくやり直すチャンスが出来たとはいえ、証拠のない状況を考えると、どうも厳しい。
『本気で借金を取り返そうとしている』とバレれば、当然あっちは警戒するだろう。
証拠を残さないようにするのはもちろん、破局だって視野に入れる筈。
だって、前回はこの時期に別れても問題なさそうだったから。
少なくとも、社会人一年目で結婚式を挙げられる経済状況ではあった。
つまり、お金のために私と付き合い続ける必要はそこまでないってこと。
まあ、引っ張れるだけ引っ張りたいとは思っているだろうけど。
「なら、あいつらの貯金もとい元金を減らすしかないな〜。そしたら、こっちも強気で出られるし」
『多少無理してでも繋ぎ止めたい相手』になるため、私は必死に知恵を絞る。
目下の問題はどうやって、あいつらにお金を使わせるか。
まず、大川自身に使わせるのは無理。
あいつ、物を大切にする習慣が身についていて物欲もあんまないから。
そりゃあ、人並み程度には使うけど……でも、数十万単位の買い物をホイホイするタイプじゃない。
となると、やっぱ瑠璃かな?
あの女、見るからに派手でブランド物もいくつか持っていたから。
と言っても、対面したのは二回だけで……その時、たまたまブランド物を持っていた線もあるけど。
「まあ、物は試しだよね」
誰に言うでもなくそう呟くと、私は翌日の深夜大川のアパートへ。
名目は『昨日、行けなかったお詫び』とし、帰る時あるものをうっかり忘れてきた。
さすがにこんな方法じゃ、上手くいかないかな〜。
いや、でも……私のことを心底見下している瑠璃なら、乗ってきてくれるかも。
マウントの意味も込めて。
『頼む〜!この手に引っ掛かってくれ〜!』と願いながら、私は一週間ほど何事もなく過ごす。
ソワソワとした気分のまま連絡を待ち、大川からの呼び出しに歓喜した。
『やっと、あの成果を確認出来る!』と。
もちろん、失敗している可能性も充分あるけど。
まあ、その時はまた別の手を打つからいいよ。
『期待し過ぎないようにしよう』と自分に言い聞かせつつ、私は大川のアパートを訪れた。
以前より香水臭い室内を前に、私はキョロキョロと辺りを見回す。
そして、ついに見つけた────ブランド物のカタログを。
「あっ、ないと思ったらこんなところに〜。修斗の家に置き忘れていたのか〜」
大根役者より酷い演技を発揮する私は、『慣れないことはするもんじゃないな』と内心苦笑い。
でも、大川に気にした様子はないため構わずカタログを手に取る。
と同時に、大川がハッとしたように目を見開いた。
おっと〜?これはビンゴか〜?
『私に見られちゃ不味いのかね?』と内心ほくそ笑みながら、カタログのページをパラパラ捲る。
その間、大川は落ち着かない様子でじっとこちらを凝視していた。
まるで、イタズラがバレそうになって焦っている小学生みたいに。
「あれ?こんなところに印が……」
角が折られたページの商品にいくつか丸がつけられており、私は『何で?』と首を傾げる。
パチパチと瞬きを繰り返し、不思議がる私はおもむろに視線を上げた。
「もしかして、修斗これ見た?」
「あっ、うん……勝手にごめん」
ダラダラと冷や汗を垂れ流し俯く大川に、私はニッコリと微笑む。
「いいよ、いいよ。カタログ自体はどうせ、無料だし。それより────この財布とバッグ、どうするの?印があるってことは、買う予定なんだよね?」
「そ、そう……かも?」
「誰かへのプレゼント?」
「えっと……」
こちらからの容赦ない質問攻めに、大川は言葉を詰まらせた。
言い訳を探すように視線をさまよわせ、『あの……その……』と言い淀む。
まあ、答えられないでしょうね。
だって、プレゼントする相手は────本命彼女だろうから。
誤魔化すにしても、カタログにある製品は全て女物だから『自分用』とは口が裂けても言えない。
かと言って、『理恵へのプレゼント』なんて言ったら出費が嵩む。
まさに八方塞がりの状況。
心情的にはこのまま大川の出方を見たいところだが、今ボロを出されても厄介なので……
「あっ、分かった────お母さん用でしょ!」
私は助け船を出すことにした。
ニコニコと笑いながら『お誕生日、近いの?』と言い、鈍感な女を演じる。
すると、大川はホッとしたような表情を浮かべた。
「そ、そうなんだよ!いつも、迷惑を掛けているからその感謝の意味も込めてプレゼントしようかなって!」
「そっか、そっか〜!お母さん思いなんだね〜!いいと思う!このカタログは修斗にあげるよ〜!あっ、ついでにこれも!さっき貰ってきたカタログなんだけど、お母さんのプレゼント用にどうぞ〜!」
『選択肢はたくさんあった方がいいでしょ!』と述べ、バッグから追加のカタログを出す。
親切の押し売りに興じる私は、『たくさん悩んでね(たくさん散財してね)』とソレを手渡した。
「あ、ありがとう……」
若干頬を引き攣らせつつ、大川はカタログを受け取る。
瑠璃に見つかったらまた何か強請られるので、警戒しているのだろう。
『これ、どうしよう……』と悩む彼を前に、私はさっさとキッチンへ引っ込んだ。
『お夕飯、作っちゃうね〜』なんて言いながら。
あはははっ!まんまと引っ掛かってやんの〜!
やりやすくて、助かるわ〜!
『こうも簡単にこちらの策略に嵌るとは』と頬を緩め、ルンルン気分で調理を始める。
『別れる男のために手料理なんて』と当初は思っていたものの、今は全く気にならなかった。
瑠璃って、狡猾そうに見えて実は大胆というか豪快というか。
他人にマウントを取るためなら、何でもするよね〜。
前回だって、わざわざ結婚式の写真を送り付けてきたし。
今回も多分、『金蔓は貰えないであろう、ブランド物をプレゼントされる私!』に酔っているんだろうな〜。
まあ、単純にブランド物が欲しいというのもあるでしょうけど。
「さて────これでようやく、次の段階に移れるぞ」
下処理の終わった魚を前に、私はゆるりと口角を上げる。
これからのことを思うと、楽しくてしょうがなかったから。
この調子だと、上手く行けば今週中に『お金を貸してほしい』って泣きついてくる筈。
チャンスはその時ね。
『それまでに演技はどうにかした方がいいかも』と思案しつつ、その日は手料理を振舞って終わった。
────そして、ワクワクした気分のまま日常生活を送ること三日。
ついに大川から、泣きの電話が。
用件は言うまでもなく、お金。
『待ってましたー!』と叫びたくなるのを抑えながら、私は出来るだけ落ち着いた声色で答えた。
『いつも通り』を心掛けて直ぐに通話を切り、大川のアパートへ向かう。
あっちは絶賛お金に困っている筈。
これなら、強気に出ても問題ないだろう。
少なくとも、直ぐに『じゃあ、もういいよ!別れる!』とはならないと思う。
「キーワードは『信頼』……」
アパートの階段を登り、私は今回の作戦をおさらいする。
『ここさえ乗り切れば、あとは楽だ』と自分に言い聞かせ、大川の部屋のインターホンを鳴らした。
『は〜い!』と言って出ててくる大川に挨拶し、私は中へ足を踏み入れる。
換気しているのか、今日は香水の匂いが一切しなかった。
きっと、今捨てられたら困るから隠蔽工作に力を入れているんだろうな。
『ここ数日でどんだけ散財したんだよ』と内心苦笑しつつ、リビングに行った。
お金の受け渡しは、いつもそこで行っているから。
以前の記憶を頼りに、大川と向かい合いようにして座布団へ座る。
私はバッグの中からお金の入った封筒を取り出すと、テーブルの上に置いた。
────自分側に寄せる形で。
そのため、大川は中身を確認したくても手が出せない。
「あ、あの……理恵……」
おずおずといった様子で控えめに声を掛け、大川は『お金を渡してほしい』とアピールした。
────が、私は敢えてソレをスルー。
じっと封筒を見つめたままたっぷり一分ほど押し黙り、一つ息を吐く。
今回はいつもと何か違うぞ、と分からせるために。
よしよし、焦っている焦っている。
この状況じゃ、瑠璃に助けを求めるのも無理だろうし、一気に畳み掛けちゃいますか。
オロオロと視線をさまよわせる大川の姿に、私は『しめしめ』と思いながら表情を引き締めた。
出来る限りシリアスな雰囲気を漂わせ、重々しく口を開く。
「あのね、修斗。今まで何も言わず、お金を貸してきたけど────そろそろ、限界」
「えっ?」
反射的に顔を上げる大川に、私は困ったような……でも、どこか泣きそうな表情を見せる。
「修斗の生活が大変なのも分かるし、助けになってあげたいけど、この状態はお互いのために良くないと思う」
「い、いきなりなんだよ……」
「『いきなり』じゃない。ずっと前から、考えていた。だって、修斗────今まで一度もお金を返してくれたこと、ないでしょ?」
「そ、それは……」
バツの悪そうな顔で俯く大川は、口を噤んだ。
対応を決め兼ねているだろう彼の前で、私は優しくこう言う。
「正直、私達の関係って何なのかな?って思う。恋人らしいことはあまりしてないし、会うのもお金を貸す時と家事の手伝いを任された時だけ。今までは修斗の『結婚しよう』って言葉を信じてきたけど、いい加減不安になってきた。だから────」
そこで一度言葉を切ると、私は真っ直ぐに前を見据えた。
「────私達の未来のために選択してほしい。ご両親に私を婚約者として紹介するか、この借用書にサインするか……もし、どちらも無理なら潔く別れましょう。それがお互いのためよ」
兼ねてから準備しておいた書類をテーブルの上に出し、私は決断を迫る。
ギョッとしたように肩を震わせる大川に、内心ほくそ笑むものの……何とか取り繕った。
泣き笑いに近い表情を心掛けつつ、弱い自分を演出する。
物事を円滑に進めるために。
「私の信頼を取り戻してほしいんだ。このままだと、まるで都合のいい女みたいに思えて苦しいから……」
「っ……!」
良心の呵責とやらは一応あるのか、大川は申し訳なさそうに身を縮める。
瑠璃と違って、私から金を巻き上げていることに多少なりとも罪悪感があるらしい。
それでも、結果的に人の心を利用している訳だから、情けを掛けるつもりはないが。
『絶対に容赦しない』と心に決めている私は、そっと下を向いた。
「ご両親に紹介してくれれば、修斗の『結婚する』という言葉を信じられるし、借用書にサインしてくれれば『返済する意思がある=都合のいい女じゃない』って確信出来る」
まあ、私としては法的措置も取れる後者を選んでほしいけど……前者でも、別に構わない。
紹介の席で鈍感女子を装いながら、『ご両親も苦労してきたんですよね』『息子さんの生活は私がきちんと支えますから』と誘い受けして、色々暴露するつもりだから。
大川の母親は息子の滅茶苦茶な言い分を鵜呑みにする節があるけど、何の根回しもされていない状態であれば多少耳を傾けてくれるだろう。
そこで大川がボロを出してくれたら、完璧なんだけど……高望みはしないようにしておこう。
証拠があれば、問題ないし。
バッグに仕込んでおいたボイスレコーダーを見つめ、私は『上手く録れているかな〜』とぼんやり考える。
────と、ここで大川がようやく顔を上げた。
「こ、これからはもっとちゃんとする。だから……」
「もう言葉で納得出来る段階じゃないの。きちんと態度で示してほしい。そのための方法が、今挙げた二つ」
「なら、せめて時間を……」
「無理。今、ここで決めて。なあなあにしたくないから」
大川の意見を尽く却下し、私は演技をやめる。
ここまで来たら、あとはもう大川に決断させるだけだから。
瑠璃に相談なんて、絶対にさせない。
『さあ、自分で選択しろ!』と心の中で叫ぶ中、大川は観念したように肩を落とした。
かと思えば、背筋を伸ばす。
「分かった────借用書にサインする」
そう言って、大川はテーブルにある書類を自分の方へ引き寄せた。
『印鑑とペンを用意すればいいのか?』と問う彼に、私は慌てて書類の内容を説明する。
さすがに借金の総額や返済の取り決めなどを知らせずに、サインさせるのは気が引けたため。
何より、こういうのはしっかり内容を理解して書いてもらうことが重要だから。
後から詐欺だの何だのって、イチャモンを付けられても嫌だし。
『ちゃんとこの内容で合意を得てますよ〜』という証拠を残さなければ。
ボイスレコーダーの存在を念頭に起きながら、私は借用書を取り交わす。
もちろん、二通。
「じゃあ、こっちは修斗の方で保管して」
「分かった」
「あと、これ。今回、頼まれていた分」
借用書をバッグへ仕舞い、私は代わりに封筒を差し出す。
別れる男にまたお金を貸すなんて癪だが、仕方ない。
これは未来への投資だと思って、割り切ろう。
どうせ、戻ってくるお金だしね。
借用書の合計金額に今回の分も組み込んでいるため、私は『少しの間、手放すだけ』と考える。
『ありがとう』と言って受け取る大川にコクリと頷き、私はバッグを持って立ち上がった。
「あっ!あと、これからは毎回借用書を取り交わすから。少なくとも、結婚して同じ財布になるまでは」
───という宣言のもと、私はお金を貸す度に借用書を作成した。
瑠璃とどういう話し合いがされたのかは分からないが、大川はきちんとサインしてくれている。
恐らく、貯金を優先することにしたのだろう。
想定外の出費のせいで、予定が狂ってしまったから。
まあ、こちらから返済を催促することはないし、『好かれているうちは大丈夫』と楽観視しているのかも。
でも、そうなると別れる時に問題が生じる訳で……。
彼らはきっと、どうやって穏便に関係を切るべきか悩んでいる筈だ。
前回と違って、こちらには借用書という切り札がある。
下手に拗れれば、痛手を負うのはあっち。
だから────大学卒業の二ヶ月前に別れてあげた。私自ら。
無論、浮気のことなど知らない体で。
借金返済の話も一切出さずに、『またデートをドタキャンなんて、最低!』とヒステリックに喚き散らし、破局を突きつけたのだ。
「あっちからすれば、まさに棚からぼたもちの展開だっただろうな〜」
何一つ揉めることなく別れた経緯を思い出し、私はケラケラと笑う。
まあ、大川本人は借金のことについて何か言いたそうにしていたが。
きっと、『返済しなくてもいい』という言質を取りたかったのだろう。
でも、下手に話して藪蛇にでもなれば目も当てられないため、口を噤んだ。
なんとも、小心者の大川らしい対応である。
「あの時、話題に出していればこんなことにはならなかったのかもしれないのにね〜」
スマホ画面に表示した大川のSNSの投稿を眺め、私はニヤリと笑った。
『ずっとこの時を待っていた』と上機嫌になり、スーツのラペルを軽く引っ張る。
────今日で大学を卒業してから、ちょうど一ヶ月。
ようやく、大川と瑠璃が結婚式を挙げた。
私を刺激しないためか、前回のような幸せアピールメールはないものの、結婚報告はSNSで行っているようだ。
誰が見ているか、分からないのに……。
ホント、無防備だな〜。
他人の恨みを買っている自覚、あるのかな〜?
って、今回は何もされてないんだっけ?表面上は。
『裏ではボロくそ言っているんだろうな』と思いつつ、私は会社の給湯室から出る。
そして、いつものように仕事をこなし、帰宅した。
待ちに待った復讐に胸躍らせながら就寝し、私は翌日を迎える。
ちょっとお高めの服に身を包み、ばっちりメイクすると、愛車に乗り込んだ。
目的地はもちろん────大川の就職した会社。
いや〜、今日が休みで良かった〜!
そうじゃなきゃ、こんなに早く動けなかっただろうし〜!
『ラッキー』と呟き、私はルンルンで車を運転する。
天が味方しているのか、今日は一度も信号に捕まることなく目的地へ辿り着けた。
来客用の駐車場に車を停め、建物の中に入る私は受付へ向かう。
「あの、すみません」
「はい、どうされましたか」
笑顔で応対しくれる受付嬢に、私は少しばかり申し訳なくなる。
間接的にとはいえ、修羅場に巻き込んでしまうから。
でも、物的損害は出ないと思うので許してほしい。
「私、こちらで働いている大川修斗の元カノの愛川理恵と申します」
「えっ?あっ、はい……それでえっと、ご用件は?」
案の定戸惑った様子を見せる受付嬢は、『元カノ……?』と目を白黒させる。
そんな彼女を前に、私は困ったように笑った。
「実は修斗にお金のことで、ちょっと話があって……ほら、あの人ってそういうことにルーズでしょう?だから、私から話さないと何も進まなくて……」
「は、はあ……?では、とりあえず大川を呼び出しますので少々お待ちください」
「はい、よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げる私に、受付嬢は軽く会釈してから内線電話を手に取る。
そこからどこかへ電話を掛けると、こちらに向き直った。
「申し訳ございません。今、確認してみたら大川は今日休みでして、その……」
「あっ、そうなんですね。では、出社してきたらこちらのメモを渡して頂けますか?私の連絡先が書いてありますので」
予め用意しておいたメモを手渡し、私は『ご迷惑をお掛けして、すみません』と謝る。
『いえいえ』と恐縮する受付嬢に、私は再度頭を下げ、この場を去った。
欠勤なのは、想定済み。むしろ、そうであることを願って来たんだから。
「新婚の新入社員のもとに、元カノから連絡……しかも、お金絡みとなれば物議を醸すよね〜」
『今頃、噂の的になっている筈〜』と浮かれながら帰宅し、私は連絡を待つ。
────が、新婚旅行の真っ最中なのか一週間ほど時間を置いてから電話が掛かってきた。
『さすがに待ちくたびれたよ〜』とゲンナリしつつボイスレコーダーのスイッチを押し、私は電話に出る。
「もしも……」
『理恵!何で会社に来たんだ!?』
音割れするほど大きな声で怒鳴り散らし、大川は『皆にヒソヒソされているんだぞ!』と喚く。
どうやら、私の作戦は上手くいっているらしい。
「『何で』って……修斗の職場に行かないと、連絡を取れないからだよ。別れる時、お互いの連絡先を消したでしょ?」
『うっ……!そ、それは……そうだけど……』
「一応アパートにも行ってみたんだけど、引っ越した後だったしさ」
『はぁ……分かった。会社のことは、もういい』
仕方ないと判断したのか、大川は一先ず納得する姿勢を見せた。
『それより、用件はなんだ?』
さっさと本題へ入るよう促してくる大川に、私はゆるりと口角を上げる。
でも、あちらに気取られないよう至って普通に話した。
「あー……ちょっと言いづらいんだけどさ────そろそろ、お金を返してほしい」
『はっ?』
突然の催促に、大川はたっぷり一分ほど押し黙った。
かと思えば、慌てた様子で捲し立てる。
『な、何で今更……!?もう別れてから、三ヶ月も経つのに……!』
「それは────」
────アンタが結婚するのを待っていたからだよ。
とは言えず、別の言葉を口にする。
「大川が自らの意思で返してくれるのを、待っていたからだよ」
『……』
“返してくれるのを待っていた健気な私”を演出したからか、大川は再び押し黙った。
『きっと、罪悪感に押し潰されそうになっているだろうな』と思いつつ、私は言葉を続ける。
「本当はもうちょっと待つ予定だったんだけど、大川が結婚したって聞いてさ。社会人一年目で式を挙げられるほどお金に余裕があるなら、今のうちに返してもらおうと思って。ほら、子供が産まれたらより返済しづらくなるでしょ?だから、奥さんも働けるうちに二人三脚で……ねっ?」
『共働きの今こそ、返済のチャンス』と主張し、私は大川を説得する。
────が、あちらは黙ったまま。
『私が諦めるまで放置する寸法か』と呆れる中、大川はようやく反応を見せた。
『ごめん、理恵……返済は出来ない。結婚式と新婚旅行の費用で、貯金はもうすっからかんなんだ。だから……』
「そっか。なら、しょうがないね」
『!!』
電話越しでも分かるほど歓喜している大川に、私は思わず声を上げて笑いそうになる。
でも、既のところで何とか耐えて、次の……いや、続きのセリフを発した。
「────じゃあ、親御さんに返済をお願いしようか」
『えっ……!?』
反射的に大きな声を出す大川に、私は容赦なく追い討ちを掛けていく。
「本人の力で返済出来ないなら、家族を頼るしかないでしょ?社会人にもなって恥ずかしいと思うかもしれないけど、大丈夫。親御さんには、ちゃんと説明するから」
────しっかり生活費を貰っているくせに、『家賃が』『食費が』と言って私にお金をたかってました、って。
と言いたくなるのを必死に堪え、私は『何とか説得してみせるよ』と述べた。
────が、そう簡単に納得する筈もなく……大川はグダグダと文句を言う。
『それは……でも……親に迷惑を掛けちまうし……』
「じゃあ、一人で返済出来るの?」
『……出来ないけど、だからって親に頼るのは……』
こっちが『もういいよ』と言うのを待っているのか、大川は煮え切らない態度を取り続ける。
いつまでも主張がハッキリしない彼に、私は最後通牒を突きつけることにした。
「う〜ん……親御さんもダメって、なると────裁判するしかないけど、どうする?」
『!!』
返済の目処が立たない以上、当事者同士の話し合いは無駄だ。
さっきのようにグダグダになってしまうから。
『こういう時のための裁判制度よ』なんて思いつつ、私は絶句したままの大川へ声を掛ける。
「まあ、とりあえず直接会って話し合おう。電話じゃ、埒が明かないし。あっ!もちろん、親御さんや奥さんも含めてね。家族に隠し事は不味いでしょ」
『元カノと二人で会うのもどうかと思うし』と述べ、私は面会の日時を指定した。
『はい』と頷くことしか出来ない大川に目を細め、私はニッコリ笑う。
「言っておくけど、時間に遅れたり連れてくるメンバーを間違えたりしたら速攻で帰るから。それだけは肝に銘じておいて」
最後にしっかり釘を刺してから、私は通話を切った。
『これで変な気は起こさないだろう』と考えつつ、借用書のコピーを手に取る。
ちなみに原本は貸金庫の中だ。
万が一、紛失でもしたら大変だから。
感情的に動いて、後悔するのはもう懲り懲り。
あの日の二の舞だけは、絶対御免。
前回の失敗を振り返り、私は入念に面会の準備をする。
────そして、迎えた当日。
私は僅かな緊張と不安を覚えながら、予約したレストランの個室へ足を運んだ。
『遅刻厳禁』を言い渡したからか、そこには既に大川達の姿が。
妻の瑠璃はもちろん、ご両親まで勢揃いだ。
『ちゃんとこっちの要求を聞いてくれたみたいね』と思いつつ、私はスッと目を細める。
どういう説明が成されたのかは分からないけど、大川のご両親は訝しげ。
そりゃあ、お金の関係する問題だからね。
これはしょうがない。
ただ、瑠璃の方はちょっと不服そう。
『何で今更?』と言わんばかりの態度ね。
『ここでは、一応初対面なんだけど』と苦笑を漏らし、嘆息すると私は席についた。
料理が運ばれてくるのを待ってから、話を切り出す。
「本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。私は以前修斗と交際していた、愛川理恵と申します。修斗から既に聞いているでしょうが、今回は借金の話をするため、このような場を設けました」
『修斗一人では返済出来ないそうなので』と補足しつつ、私はお茶を飲む。
皆の反応をじっくり観察する時間を稼ぐために。
大川は顔面蒼白。
ご両親はそんな息子と私を交互に見て、困惑。
瑠璃は先程と変わらず、不貞腐れた態度。
まあ、概ね予想通りかな。
コクンと喉を動かしお茶を飲み込むと、私はバッグから借用書のコピーを取り出した。
「本題へ移る前にまず、『修斗にお金を貸した』という証明をしますね。いきなり、返済の話をされても納得いかないでしょうし」
疑念が振り払えない様子の両親を見やり、私はニッコリと微笑む。
『後で揚げ足を取られても嫌だし、ちゃんと説明しよう』と考え、書類の文面をあちらに公開した。
「まず、私が修斗に貸したお金は総額────310万円」
「「!?」」
まさかの七桁の借金に、ご両親は口をあんぐり。
所詮は学生時代のお金の貸し借りなので、多くても六桁前半と考えていたのだろう。
ちなみに前回の260万より高くなっているのは、瑠璃の散財分。
あと、単純に交際期間が延びたから。
後半はぶっちゃけ、こっちもキツかったけどね。
マジでお金なかったもん。
でも、後できっちり返してもらうからと自分に言い聞かせて、お年玉貯金を崩したんだよ。
『苦渋の決断だった』と思い返しながら、私は二十枚以上ある借用書のコピーを両親に手渡した。
書類の内容を一つ一つ確認していく彼らの横で、大川はただプルプル震えているだけ……。
そんな時、真っ先に動きを見せたのは────
「あの〜、失礼ですが……この書類のサインって、本物ですか?」
────妻の瑠璃だった。
おずおずといった様子で片手を挙げる彼女は、控えめにこちらを見つめる。
「しゅーくんの筆跡と大分、違うように見受けられますが……ほら、ここのハネとか」
両親に渡した書類を横から覗き込み、瑠璃はおかしな部分を指さす。
『あと、こことここも』と次々指摘していく彼女に、両親は目を剥いた。
「確かにこれは……」
「息子の字では、ありませんね」
「ですよね!だから、この書類は無効だと思います!」
両親の賛同を得て、瑠璃は強気に出る。
『騙されませんよ!』と言い切り、ギュッと手を握り締めた。
『私、しゅーくんを守るために頑張ります!』と意気込む彼女に、両親は感動。
対する私は────込み上げてくる笑いを堪えるのに必死だった。
うんうん、そうよね。狡猾なアンタなら、そうくると思っていた。
大川も、サインに毎回時間を掛けていたし。
まあ、さすがに印鑑は偽造のしようがなかったみたいだけど。
でも、残念。
この程度の筆跡の違い、障害にもならない。
だって、こっちにはコレがあるから。
『無駄な努力だったね〜』と嘲笑いながら、私はノートパソコンを引っ張り出す。
それをテーブルの上に置き、スリープ状態を解除すると、あるファイルをクリックした。
その途端、
『分かった。借用書にサインする』
レストランの個室に録音された音声が、響き渡る。
ちなみにこれは借用書を初めて取り交わした時に録ったもの。
お金を貸す度、ボイスレコーダーを起動していたため証拠音声はまだまだある。
「こ、これ……」
「さすがに家族の声くらいは判別出来ますよね?瑠璃さん」
サァーッと青ざめる彼女に、私は『悪足掻きご苦労様』と心の中で言ってのける。
本当は大声で煽り散らかしたいところだが、ここはグッと我慢だ。
どんなに有利な立場でも、それを活かすための知性と理性がなければ台無しになる。
人を騙し、利用することに抵抗のない人間を相手にするなら尚更。
「修斗には悪いけど、万が一のことを考えてやり取りは全て録音させてもらいました」
『筆跡に関しては私もちょっと気に掛かったもので』と述べると、瑠璃が軽くこちらを睨む。
まさか、そこまで考えているとは思わなかったらしい。
「つ、作り物でしょ、そんなの……編集ソフトで簡単に出来るじゃない」
取り乱しているせいか、ついに敬語を使わなくなった瑠璃に、私はニッコリと微笑む。
「いいえ、ボイスレコーダーを使ってしっかり録音したものなのでそれはありません」
「なら、何でパソコンを……」
「再生の手間などを考えた結果です。それに大事な証拠に何かあったら、大変ですので」
「っ……!」
「それでも信じられないようであれば、専門の機関に頼んで調べて頂いても構いませんよ」
『こちらにやましい事は何もありませんので』と言い切り、スッと目を細めた。
悔しそうに歯切りする瑠璃を前に、私は内心ニヤニヤが止まらない。
『ざまぁみろ!』と叫びたくなるのを必死に堪える中、大川が顔を上げる。
「……ぷ、プライバシーの侵害だ」
愛する妻を庇うためか、大川はついに発言した。
────が、こんなの想定内。痛くも痒くもなかった。
「そう思うなら、裁判でもなんでも起こせばいい。その時はこの録音音声を全て第三者に聞いてもらうことになるけどね」
「っ……!そ、それは……でも……」
「きょ、脅迫ですか……?警察に訴えますよ……!」
口篭ってオロオロする大川と、苦し紛れに反論する瑠璃。
もうその泥船は沈み切っているのに、まだ縋ろうとするなんて実に愚かだ。
さっさと降参してくれないかな?そろそろ、次の話に移りたいんだけど。
『時間の無駄だなぁ』なんてぼんやり考えながら、私は一つ息を吐く。
そして、二人の主張を捻じ曲げようとした瞬間────
「もうやめなさい、二人とも!」
「そうよ、みっともない真似はやめて!」
────と、大川の両親が大声を上げた。
どうやら、二人の悪足掻きに付き合い切れなかったらしい。
ビクッと肩を震わせる大川と瑠璃を一瞥し、両親はこちらに向き直る。
「愛川さん、貴方の話が真実であることはよく分かりました。お金はきちんとお返しします。ただ、一ついいですか?」
「何でしょう?」
「何故、そんな大金を息子に?」
『おいそれと貸せる金額ではないでしょう』と述べ、両親はじっとこちらを見つめる。
恐らく、『貸さない選択肢もあった筈』と言いたいのだろう。
『貸したこちらも悪い展開に持っていきたいのかな?』と思案しつつ、私はおもむろに両手を組んだ。
「……正直、ご両親には言いにくいのですが」
「構いません。ハッキリと言ってください」
「分かりました。では、遠慮なく」
どのような理由でも受け止める姿勢の両親に目を細め、私はチラリと大川に視線を向ける。
案の定とでも言うべきか、彼は真っ青になっていた。
産まれたての子鹿のように震えて蹲る彼を前に、私は言葉を紡ぐ。
「大まかに言うと、修斗の生活費のためですね」
「はい……?生活費?」
「それは一体……?」
想定外の言葉に面食らったかのように、両親は目を白黒させた。
思考と感情が追いつかない様子の彼らに、私は淡々と説明していく。
「細かい内訳で言うと、家賃・水道光熱費・食費・雑費でしょうか?」
「えっ……えっ?私達はちゃんと生活費も送っていた筈ですが……」
『家賃も合わせて毎月十三万ほど……』と述べる大川の母親に、私は大きく目を見開いた。
「えっ!?そうだったんですか!?修斗からは『学費分の仕送りしか貰っていない。だから、バイトで生活費を賄っている』と聞いていて……!だから、『足りない分は彼女の私が出してあげなくちゃ』って……!」
「なん、だと……?」
ピクッと眉を動かし、額に青筋を立てる大川の父親は険しい顔付きで息子を睨みつける。
『お前、そんな嘘をついていたのか!』と言わんばかりに。
「修斗、一体自分が何をしたのか分かって……」
「落ち着いて、お父さん。ここではお店に迷惑も掛かるし、そういうのは後にしましょう」
今にも大川に殴り掛かりそうな父親を引き止め、母親は『まず返済の話を終わらせよう』と促した。
納得したように頷く父親を一瞥し、彼女はふと息子に目を向ける。
「それより────修斗、貴方そんな大金何に使ったの?」
生活費は両親で払っていると判明した。
ならば、毎月借りていたお金はどこへ消えたのか。
まあ、至極当然の疑問だろう。
『さて、大川はなんて答えるかな?』と見守っていると、彼は
「……結婚式の費用」
と、ボソリと呟いた。
どうやら、もう誤魔化す気力さえ残っていないらしい。
完全に意気消沈した様子の彼を前に、父親は再び激昂する。
「結婚式の費用って……!まさか、お前瑠璃さんと婚約している最中に愛川さんと付き合ったのか!」
まさかの二股疑惑に、父親は堪らず大川を殴り飛ばす。
ガタンッと勢いよく椅子から転げ落ちる彼を前に、父親は目を吊り上げた。
「ふざけるな!お前とは、もう絶縁だ!」
「お、お父さん……!」
「うるさい!お前は黙っていろ!」
慌てて止めに入る母親を振り払い、父親は席を立つ。
血走った目で大川を睨みつつ傍まで近寄ると、胸ぐらを掴み上げた。
早くも二発目を繰り出そうとする父親の前で、大川は滂沱の涙を流す。
「だって!式の費用を自分で出せるようになるまでは結婚させないって言うから!」
「それはお前達のことを思って……!」
「そうよ!大した経済基盤もなく結婚なんて苦労するに決まっているから、条件を出したんじゃない!瑠璃さんは専業主婦希望だって、言うし……!」
大川の父親と母親は、『自立のために必要なことだと思ったんだ!』と主張する。
恐らく、バイトして稼いだり節約したりすることでお金の有難味を理解してほしかったのだろう。
大川も瑠璃も金銭感覚がズレているから。
散財癖のある瑠璃はさておき、大川は一見質素に見えるけどね。
でも、それは物欲がないからお金を使わないってだけ。
ほしいものを見つけたら、結構衝動買いするタイプ。
だから、ご両親は“お金を計画的に活用すること”を覚えてほしかったんじゃないかな?
大川の性格からあれこれ推測し、私は『いい親御さんじゃない』と感心する。
でも、本人はそうじゃないようで……苛立たしげに髪を掻き毟っていた。
「うるさい、うるさい、うるさい!大体、理恵に貢がせようって提案してきたのは────瑠璃だろ!」
勢い余ってとんでもないことを暴露した大川は、妻を矢面に立たせる。
『自分だけ責められるなんて、おかしい!』とでも言うように。
『あーあ、これ泥沼だよ』と達観しつつ、私はスッと目を細めた。
やっぱり、瑠璃の発案だったか。
まあ、そんな気はしていたよ。だって、大川は小心者だし。
とてもじゃないけど、一人で非行に走れるようなタイプじゃない。
それこそ、誰かに唆されたり頼み込まれたりしないと……。
などと推察する中、瑠璃はヒクヒクと頬を引き攣らせる。
「ちょ、ちょっとこっちに罪を擦り付けてこないでよ……私は関係な……」
「嘘つくな!」
大川一人に泥を被せようとする瑠璃に、彼は怒号を上げた。
かと思えば、ポケットの中からスマホを取り出し、ライムのトーク画面を我々に見せる。
そこには、
『働きアリの理恵ちゃん、今月もありがと〜(笑)このお金は私達の未来のために使わせてもらうね♡』
と、バッチリ書かれていた。
会話の流れから察するに、その月借りたお金を報告した後、送られてきたメッセージらしい。
他にも、『マジでいつもいつもご苦労様〜!』とか『早めの御祝儀、頂きました〜!』とか色々ある。
うわぁ……この女、本当に性格悪いな。
私も人のこと言えないけど、さすがにこれは……。
怒りよりも衝撃が勝り、私はまじまじとトーク画面を見つめた。
『私、こんなに貶されていたのか』と半ば感心していると、瑠璃が大川のスマホを叩き落とす。
「勝手に見せないでよ!プライバシーの侵害!」
「お前が嘘をつかなければ、いいだけの話だろ!」
「っ……!お、夫なら最後まで妻を庇いなさいよ!」
「俺が殴られているのに何もしない女なんか、庇う必要ないだろ!」
人目も憚らず夫婦喧嘩を始める瑠璃と大川は、『そっちが悪い……!』と責任を押し付け合う。
新婚にも拘わらず、早速二人の間に亀裂が入ったようだ。
「大体、俺は最初から反対だったんだ!人を騙して、お金を取るなんて……!」
「なっ……!?今更、何言ってんのよ……!付き合った後は案外ノリノリだったじゃない!家事を丸投げ出来て、超楽〜って!」
「ああ、そうだな!だって、理恵の家事はお前と違って完璧だったし!飯も美味い!」
「はぁ!?私がこの女に劣っているって、言うの!?」
これでもかというほど開き直る大川に、瑠璃は目を吊り上げた。
プライドを傷つけられて怒ったのか、顔を真っ赤にしている。
「こんなプライドの塊みたいな女より、私の方がいいって言っていたじゃない!」
「そう言わないと、お前が不機嫌になるからだろ!そっちの提案で二股を始めたのに、無駄に張り合うし!」
「それは……!私も不安で……!」
勢いが削がれた様子で、瑠璃は明らかに声のトーンを落とした。
────が、大川は気にせず捲し立てる。
「なら、こんなの提案しなければ良かっただろ!」
「っ……!」
「いつも、『私のしゅーくんを貸してあげるんだから、このくらい貰って当然〜』とか言っておきながら、今更なんだよ!?『ターゲットは愛川理恵にしよう』って、言い出したのもお前だし!」
『全部お前が発端だろ!』と怒鳴りつけ、大川は肩で息をする。
感情を派手にぶちまけて多少スッキリしたのか、それとも言うことがなくなったのか、口を閉ざした。
すると、今度は瑠璃が本音を吐き出す。
「私は……そうするのが一番だと思っただけ!この女をターゲットに選んだのも、実家住みでバイトしているから!多少お金に余裕ありそうだなって思って……おまけにプライドも高いし!これなら、ちょっと困ったフリをすれば姉御肌を気取って貢いでくれるかなって思ったの!」
『自分は間違っていない!』と証明するためか、合理的な考えだったと主張した。
まあ、被害者の私からすれば到底納得出来るものじゃないが……。
でも、一応理屈は理解出来る。
『正直、ふざけんなとしか思えないけど』と辟易する中、瑠璃は僅かに身を乗り出した。
「出来るだけ、しゅーくんに負担の掛からない女を選んだつもり!実際、めちゃくちゃ尽くしてくれたでしょ!?この手の女は扱いやすいから、凄く便利なんだよ!本当、働きアリって感じ!」
『あははっ!』と明るい声で笑い飛ばし、瑠璃は口角を上げる。
────が、声も表情も微かに引き攣っていた。
何とか取り繕ろうと必死な彼女は、沈黙を避けるように尚も喋り続ける。
「でも、やっぱりちょっと不安だったからそういう態度を取っちゃった……!ごめんね!私らしくなかった!こんな女にしゅーくんを取られる訳ないのにね!私ったら、何でこんなに……」
ドジを踏んだぶりっ子のように振る舞う瑠璃に、大川の母親がズンズンと近づいていく。
そして────思い切り頬を叩いた。
「人を馬鹿にするのも、いい加減にしなさい」
背筋が凍るような冷たい声で叱り、母親は厳しい表情を浮かべる。
すると、父親も我に返り険しい顔つきで大川を睨みつけた。
「修斗、お前もだ。人様の心を弄んだ自覚を持ちなさい。たとえ、瑠璃さんにお願いされた事だとしても、やったのはお前だ。それを肝に銘じておけ」
低く唸るような声で静かに言い放つと、父親は大川を無理やり立たせた。
母親もそれに習うように瑠璃を起立させ、こちらへ向き直る。
「愛川さん。今回の件、誠に申し訳ございませんでした」
母親の言葉を合図に、大川家一同は頭を下げた。
と言っても、ちゃんと謝罪しているのは両親だけだが。
大川と瑠璃は頭を押さえつけられて、仕方なくお辞儀しているだけ。
ここまで来て、自主的に詫びる姿勢すら見せないとは……。
逆に感心するよ。
もう怒る気力すら湧いてこず、私は『はぁ……』と深い溜め息を零す。
『もう社会人なのに何やってんの……』と呆れていると、大川の父親が少し顔を上げた。
「借りたお金は、必ずお返しします。もちろん、慰謝料も……こいつらのやったことは、詐欺と変わりませんから。刑事告訴されても、おかしくない事案です」
「そうですね。額も額ですし、被害届を出せば警察が動くかもしれません」
言外に『前科を付けることも出来る』と主張すると、大川と瑠璃は肩を震わせた。
どうやら、事の重大さをようやく理解したらしい。
「り、理恵……!ごめん……!ごめんなさい!」
「暴言とか、お金とか色々すみませんでした……!」
崩れ落ちるようにして床に座り込み、二人は土下座を披露した。
『許してください……!』と懇願してくる彼らに、私はやれやれと頭を振る。
正直、前科をつけられるならつけたいところだけど……そんな余裕はない。
私も新社会人だからね。
覚えなきゃいけない仕事や築き上げなきゃいけないキャリアが、沢山ある。
それにあまり追い詰めすぎると、逆恨みされるかもしれないし。
金だけふんだくっておさらば、が現実的かな〜。
最終手段として裁判を起こす気はあったものの、最善の道は示談。
なので、私は不本意ながら彼らの願いを叶えることに。
「借金の返済と慰謝料、それに接見禁止を約束してくださるのであれば訴えません」
被害届は出さない意向を示すと、大川と瑠璃は目を輝かせた。
────こちらの思惑など、知らずに。
借金の返済については借用書の通りにするけど、慰謝料と接見禁止は別だよ〜。
かなりの額をふっかけるつもりだし、こちらに接触したら罰金というシステムを設ける予定。
詐欺まがいの行為を許してあげるんだから、これくらいは呑んでもらわないとね〜。
借金返済+α程度で終わらせるつもりのない私は、内心ニヤニヤ。
『金で地獄を見るがいい』と思いながら、席を立った。
「それじゃあ、詳しいことはまた後日」
そう言い残して、今日は退散。
その二週間後────きっちり弁護士を用意してから、公証役場で顔を合わせた。
そこであれこれ取り決め、私と大川家の問題は無事解決。
と言っても、あちらはまだ修羅場の真っ只中だろうが。
なんせ、借金返済と慰謝料で総額八桁だからね〜。
大川の両親が代わりに支払ってくれたとはいえ、これで終わりじゃない。
生前贈与として扱うには大きすぎる金額だし、老後の問題もあるので大川と瑠璃はこれから両親にお金を返していくしかないだろう。
まず、瑠璃の専業主婦願望は間違いなく潰えた筈。
パートかフルタイムかは分からないけど、働いているのは確実と見た。
「両親が払って、大川達はノーダメージだったらどうしようかと思ったけど、その心配はなさそう」
『良かった、良かった』と浮かれながら、私は自室のベッドに寝転ぶ。
スマホの画面に表示された貯金残高を眺め、ゆるゆると頬を緩めた。
嗚呼、0がこんなに……!幸せ!
『お金って、素敵!』と目を輝かせ、私はスマホの画面に頬擦りする。
弁護士さんの誘導で、『双方今後、本件にまつわる裁判を起こしたり、慰謝料を請求したりしない』という文書を交わしたから、録音の件はチャラになったし♪
まあ、あっちは『裁判を起こさない』という言葉に釘付けで、全く気づいていないだろうけど。
『弁護士さんグッジョブ!』と心の中で叫びながら、私はゴロゴロとベッドの上を転がった。
嬉しすぎて、体を動かしてないと落ち着かないから。
「私の手で大川と瑠璃の新婚生活を壊したんだよね」
自身の手のひらをじっと見つめ、私は『やり切った』という達成感に見舞われる。
大川の両親を思うと、やはり少し申し訳ない気持ちになるが……後悔はない。
たとえ、また逆行することになっても同じ道を辿るだろう。
「────って、もう出来ないんだけどね」
『はぁ……』と溜め息を零す私は、自身のメールボックスを開いた。
逆行した日から今日までメールは全て保存しているが、そこに『逆行しませんか?』という謎メールは一つもない。
これじゃあ、お礼も言えないじゃん。
せっかく、もぎ取った慰謝料で一緒に豪遊でもしようかと思ったのに。
『残念』と肩を落とし、私はムクリと起き上がる。
そして冷蔵庫から缶ビールを取ってくると、テーブルの前に座った。
メールボックスを表示したままのスマホをティッシュ箱に立て掛け、向かい合う。
「まあ、気が向いたら連絡してきてよ。その時は一杯奢るからさ」
メールの送り主に向かってそう言い、私はビールを開けた。
ブッシュといういい音に気を良くしながら、『かんぱーい』とスマホに軽くビールをぶつける。
さあ、これを飲んでさっさと寝なきゃ。
明日から、また仕事だ〜。
なんてボヤきながら、私はビールを煽った。