2.『夜』
月明かりは雲で隠されている。肌寒い夜の風が、町を撫でる様に吹いている。
「……さて、あの壁を越えねばなりませんね」
アルトリウスの眼前には、高さ100メートルの鉄の壁がそびえ立つ。壁の上から何本かのライトが降り注いでいて、その光は辺りをうようよと無作為に照らし、侵入者を必死に探している。そして壁の上にいる警備兵は皆銃を握っている。アルトリウスは壁を一望して呟く。
「正義、借りますよ」
そう言うと彼の右手に大剣が現れる。そしてスーっと息を深く吸い込むと、全身を魔力が駆け巡る。次の瞬間、彼の足元のコンクリートが割れて、その欠片が宙を舞う。瞬きの間に彼の姿はそこから消えていた。時を同じくして壁上の警備兵の一人が、鈍い轟音と、風を切る音を察知した。気になって音のする方を見下ろすと、彼の目に驚くべき光景が映り込んだ。
「おいおいおいおい!なんだアイツ!?」
警備兵が見た者は、100メートルの壁をほぼ垂直に飛んできたアルトリウスの姿だった。警備兵はあっけに取られて固まっている。アルトリウスは「おっと」などといいながら着地した。そして警備兵の方を見やって、その方へゆっくりと歩む。
「貴方一人で良かった」
アルトリウスはそう言うと、左手で警備兵の首を掴み、跡が残るくらい強く握り込む。掴まれている方は叫びたくとも叫ぶ事が出来ない。アルトリウスは深く息を吸い込み、左腕に魔力を集中させる。すると、警備兵から全身の力が抜ける。そして、彼はその場に倒れ込んだ。アルトリウスは彼以外に警備兵がいない事を確認した後、一切の躊躇なく壁の向こう側へ飛び降りる。
―――同時刻、統合捜査局、特殊警務課にて
「あのー、レイ先輩、アルトリウスさんって何者なんすか」
「狩人。ちょっと訳ありの」
そういうとレイ先輩は頬杖を付き、顔で窓の外を眺める。一面にそびえるビルの明かりも、次第に消えゆく時間帯だ。
「アルトリウスはね、私の先輩だったんだ。私は書類仕事やってて、アルトリウスは戦闘員だったから、働く現場は違ったんだけどね」
レイは遠い過去を見据えるようなもの悲しい眼差しで、目下の大通りを見つめる。
「……正義のひとだったの。あの頃はカッコよかったな」
「今は違うんすか?」
「……うん。今のアルトリウスはすごく冷たくて、無関心で、大切な何かが壊れちゃってる。誰とも関わりを持たないし、たぶん他人が......私が死んでも何も感じないんだと思う」
「で、でも、先輩はアルトリウスさんと関わりがあるじゃないすか?きっと……」
レイは軽く首を横に振る。
「私がしつこく会いに行かなければ、アルトリウスと私の繋がりはすぐに切れちゃう。だって私が繋ぎ止めてるだけで、向こうはきっと切れても良いと思ってる」
ミネにとって、こんなにもか弱そうな先輩は見た事がなかった。切なさを覆い隠すようにささやかに笑みを浮かべているが、その眼差しは彼女の悲哀の心を物語っていた。もう古くなったあの日を懐かしむような、焦がれているような、そんな目だった。ミネはアルトリウスの過去が知りたくなっていた。でも、いつもわがままな先輩が今ばかりは消えてしまいそうだから、ミネは質問を控えた。
「先輩、お腹空いたでしょ。夜食買ってきますけどなんか要ります?」
重たい雰囲気をできるだけかき消すように、ミネは明るく振る舞った。レイはそんなミネの気遣いに少しくすぐったくなった。
「ありがとう」
「なんすか急に」
「……なんでもない。私はコーヒーとたまごサンドがいいな」
「わかりました!ちょっと行ってきます」
レイは今度こそ、心から暖かい笑みをこぼした。




