いち。
虐待の表現があります。
なにがきっかけでそうなったのかは、よくわからない。ごはんをこぼしただとか、トイレの使い方が悪いとか、返事の声が小さいとか、それとも単に彼女の機嫌が悪かったとか、大抵そんなことで起きる日常のこと。
どんなきっかけだろうが、ヤられることにはかわりがないのだ。
ただ、その日はお酒も入っていたらしく、いつもより水に浸けられている時間が長かったのだ。
私はお風呂に顔を浸けられながら、さすがに苦しくてこの事態を克服できないかと小さな脳みそで考えた。
背中まで押されて、肺の空気が漏れでたときに電気が走るように思い出したのだ。
(…あ、たぶん、風魔法でできる! )
私は目を閉じて記憶の蓋を開ける。
頭のなかにマナの光が産まれ、それから血液のように身体をマナが巡るのを感じた。乾いたスポンジが水を吸うように、マナがこの小さな身体に浸透していく。
(口と鼻の周りに空気の層を作れば……! 無詠唱は苦手だったけど、面積が小さいから簡単な術式で行けるはず……)
それは前世の記憶からしたら"魔法"というにも規模が小さいものであったが、おかげで命を繋ぐことが出来たのだ。
小さく呼吸を行うと、マナで作られた風が肺を膨らませる。苦しさが軽減してほっとする。
ザバァァァァァァ……
髪の毛を乱暴に引っ張り、水から私を出した彼女は不機嫌そうに言うのだ。
「なあんだ、生きてんじゃん。動かなくなったから死んだと思ったのに。」
どうやらこの世界に、魔法はないらしい。
だとすると、私はこの世界唯一の魔法使いかもしれない。
今の私は彼女にアイラと呼ばれている。たぶん六歳前であろう。彼女が「らんどせる」の「しーえむ」を見ながら「こんなに高いのお前には買わないからな? 」と言うのが最近の口癖だからだ。
私は外に出た記憶がないから「てれび」という通信系魔道具からの情報しかないが、六歳になると「らんどせる」という高級カバンを持って「しょうがっこう」というところに行かなくてはならないらしいのだ。
魔法のない世界でなにを学ぶのかは、私にはよくわからない。商人のように働いている様子もないから、商業学園のように計算などはないだろうと思う。
2部屋しかない狭い家だし使用人も居ないが、魔道具が多いことから、彼女は位の低い貴族なのかもしれない。だから彼女の子供であるアイラは学校に行かなくてはならないのだろう。「しょうがっこう」とは、前世の貴族学園のようにマナーや社交を学ぶところなのだろうか。彼女からの情報が少な過ぎて、十分な予測は出来ないが、まあ同じ人間の世界なんだから当たらずとも遠くないだろうと思う。
前世でも魔術学園には10歳から行っていたが、こちらの世界が早くから学校に行くのは家庭教師を雇うというシステムがないからかもしれない。
しかし例えば五歳だとしても、アイラの身体は小さすぎる。少し前までしていた「どらま」の子供の演者が五歳だったが、もっとふっくらしたほっぺたと柔らかそうな手の甲をしていたように思う。
明らかに前世と比べて食事量が少ないが、これは世界の違いではなく、彼女が育児放棄をしているからだということはさすがに分かっている。
前世の、自分の名前は思い出せないけど、私の父様と母様は食事の度に「美味しいかい? 」「たくさん用意したからもっと食べなさい」と声をかけてくれたのは覚えている。優しい声色と、目尻の下がった両親たち。今のアイラくらいの年頃だったころは、鏡に写る私は真ん丸なほっぺたをしていて、父様や母様だけでなくふたりの兄様と三人の姉様につつかれて摘ままれていたことを思い出す。
「ちょっと食べさせすぎかしら?」
「小さいうちだけだよ。年頃になったらほっそりするだろうし、こんなにもパンみたいなふっくらした子を手放せないよ!」
文字通りぎゅうぎゅうと抱きしめて溺愛してくる前世の家族を思い出して、胸がきゅうんと切なくなる。もう、会えないのだろうか。焼きたてのパンよりも温かな優しい本当の家族たち。
いっぱい食べさせられて、ぽっちゃりめだったから年頃になったときのダイエットは大変だったけど。
魔法爵と呼ばれた両親のもとに産まれて、最高峰である王都の魔術学園で学んだ私は、宮廷魔術師として王城で働いていた。紫の紋章を付けたローブは自分の誇りであった。
気の良い同僚たちと、オールドミスと陰口を叩かれてたけどとても頼りになる上司と、我が国を良くするために魔術を使って仕事をしていた。辺境までの出張もよくあったが、辛さよりもやりがいのほうが強かった。なにより仕事は楽しかった。
残念ながら恋愛とは無縁だったような気がする。……幸せとは男じゃあないってことよ。
城の寮生活で一番苦手だったのは、食事であった。寮母の作る食事がどうしても口に合わず、あれこれと自炊をしたが貴族の娘ゆえに上手く出来ず、結局自宅の料理人に作って貰ったものを収納魔法ストレージ一杯に容れることにした。それを毎日三食、収納から出して食べてたんだったな、と少し笑う。