妖精の森に落ちた人の子
『魔法とは、神秘である』
そう説いた人物がいた。かの人物は世界最高の魔法使いにして、人ならざるものと伝えられる。そも、魔法使いになることそのものが人を捨てる行為ではあるが、かの人物をその魔法使い達は『アレは人に非ず』と口を揃えて評価する。
人に非ず――即ち人外。人という種を逸脱した存在である。生まれながらにして人外だったのか、それとも後から成ったのかは誰も知らない。
しかし、かの人物が説いたこの言葉は、正しく魔法の在り方を示していた。旧態依然とした魔法学を一新し、古き魔法を解明し、新たなる魔法をもたらして世の中を変えた。その功績を以て、優れた魔導師の中でも高位の者である証として、卿の称号を与えられたのだ。
かの人物こそ“隠匿卿”……オーガスト・ヴル・フリードリヒ。千年の時を生きた魔導師にして、世界への在り方を証明した者。魔法使いの指導者たる魔導師の一角を担う、賢者である。
――――――
暖かな風が吹く。それは森を駆け抜け、そこに住まう住人を優しく包み込む。しかし、包み込まれるのは人ではない。常に光が差し、木漏れ日が生命を育む世界の裏側は、通常の生命体では耐えられないからだ。
住まう住人らは生物に非ず。命という概念を持たない種にして、永劫の時を在り続けるもの。存在そのものが魔法とまで評される幻想生命――妖精である。
死を知らない妖精らは無邪気に笑い、無邪気に悪戯をし、世界の表と裏を行き来する。時折ふらっと人の世界に迷いでては気の向くままに行動し、魔法使いと契約を交わすこともある。その全ては妖精の気まぐれ、妖精の遊びだから。
だからこそ、その森に落ちてきた赤ん坊を妖精達は不思議に思った。『どうして人間がいるんだろう?』と。
生まれて間もない赤ん坊だということは妖精でもすぐに分かる。それが繊細で、すぐ死んでしまうようなか弱い生き物であることも。しかし親が見当たらない。チェンジリングでもない。では何故……?
誰も答えを知らない。知り得るはずもない。
有り得ない場所に有り得ない生き物。そして無邪気な妖精の一人がこう言った。『私達で育てましょう! きっと面白いわ』と。妖精は気まぐれで残酷、わがままで自由。そして、面白そうな物事に関わらずにはいられない。
きっと面白いのなら面白いのだろう。楽しいのだろう。
妖精は無邪気に笑う。これは遊びだ、人間の育児を真似した遊びなのだ。きっと楽しいに違いない。可愛らしく笑い続ける妖精につられ、赤ん坊も笑う。その様子を見て妖精達は更に笑う。ほら、楽しいでしょう? 面白いでしょう? だから育ててみましょう……無邪気に、無邪気に笑い微笑んだ。
『人って不便なのね』
『飛べないのね』
『立って歩くのも出来ないなんて、すごく可愛いわ』
色んな妖精がいる。たくさんの妖精がいる。
飛べるのが当たり前な妖精は、よちよちと移動する赤ん坊に飛び方を教えた。
『ほら、目を開けて。きっと綺麗だわ』
『泳ぐのよ、会話するの』
水の中でも息をする妖精は、水中でも地上と同じように行動できる方法を教えた。
『ほうら、読んでみなさい。覚えてみなさい。人の言葉は楽しいわ』
人の社会に慣れ親しんだ妖精が文字を教え、言葉を教える。
『見てみて綺麗よ、可愛いよ』
裁縫が得意な妖精が衣を作り、愛を知る妖精が存分に甘えさせ、恐ろしい妖精が恐怖を教える。
妖精達は思い思いの方法で赤ん坊を育て、遊びだったことを忘れるほど熱中した。
妖精の森に人はいない。しかし、妖精達の愛を注がれ、妖精に育てられた魔法使いがいる。
彼が世に出て人々に知られるのはまだまだ先の未来だが、妖精にとっては瞬きのような一瞬である。そして、妖精の価値観で育てられた魔法使いがそのズレを知るのも、同じく先の未来である。
……年月が過ぎる。人の暦なぞ理解しない妖精は、季節が何回巡ったかで年月を数える。
魔法使いの少年は、五歳になった。
「なあ、リギル」
『なあに?』
「俺が人間の世界に旅立つ時も、一緒に来てくれるかい?」
『何言っているの? 当たり前じゃない』
木漏れ日の差す森の中、少年と少女が宙を飛ぶ。
少女の名はリギル。麗しき風の妖精と穏やかなる海の妖精との間に生まれた狂風の妖精であり、少年に空の飛び方を教えた妖精でもある。
少年の名はリアム。妖精に育てられた人の子にして、神秘をその身に宿し、気まぐれな愛を一身に受けた魔法使い。
『ルーも、ルーも行く! 抜け駆けずるーい!』
そんな声とともに水面が揺れると、半透明な水の妖精がリアム目掛けて飛び出した。
『ちょ、私が一緒に行くのよ!』
『ルーも行くもん!』
そしてリギルと取っ組み合いになると、宙を激しく舞いながら喧嘩する。リアムはいつものことかと枝に腰を下ろし、影から這い出る恐怖の妖精とともに二人が帰ってくるまでのんびり過ごす。
常に日が差す妖精の森に時間の概念は殆ど無いと言っても過言ではないため、どれだけ待とうがリアムの時間では数分程度の出来事だ。
少し経ち、恐怖の妖精が呆れながら実体を取ると、ついでに風を避け方を教えてやると飛び出した。リアムも彼に続いて飛び出す。
恐怖の妖精は二つの姿を持つ。一つは不明瞭な影、もう一つは恐ろしき獣の姿である。甲斐甲斐しくリアムに物事を教えている彼は狼の姿を好んで取る。なぜなら、闇に紛れて獲物を狩る狼は、人にとって恐怖の対象だからである。
『自然には魔力がある。どれだけ優しかろうが荒れようが、自然である以上風も同じだ。その形を読めば避けられるはずだ』
「分かったよ、爺」
『ふん、爺などと呼ぶな。呼ぶのなら、恐ろしきハイデルシュスタインと呼べ』
「長いんだよ、名前が」
他愛ない会話をしているが、二人は狂風が吹き荒れる空中にいる。しばらくするとリアムが近くにいると気づいたリギルとルーが、その隣の恐ろしきハイデルシュスタインにも気づいて喧嘩をやめる。
『ハ、ハイデルシュスタイン……取って食べないよね……?』
『小さな水の妖精など、腹の足しにもならん。幼き狂風の妖精もだ。……まあ、スパイスにはなるだろうがな』
『『ひいいいいっ!』』
「爺、脅かしすぎだって」
……夜。首から『私はリギルとルーを脅しました』と看板をぶら下げてしょんぼりと佇む姿は滑稽である。通りがかった他の妖精がくすくす笑ったり、リギルとルーがお腹を抱えて大笑いするほど。
無論、これをしたのはリアムでも、ましてやリギルとルーでもない。
『…………調子に乗った。気を付ける』
『それだけ?』
『………………悪かった』
パシッ、パシッと布はたきを鳴らし、無表情のまま彼を叱るのは家事妖精。シルキーと人に呼ばれる妖精の一人であり、リアムに人の習慣を教えた母のような存在である。そしてリアムと一緒に過ごしたリギルとルーにとっても、彼女は恐ろしい母である。
その恐ろしさは恐怖の妖精が萎縮するほどである。
『リギルもルーも生まれたばかり。千年生きたハイデルシュスタインが脅せば怖がるの当たり前』
『し、しかしリアムは――』
『リアムと一緒にしない。リアムは妖精より早く成長する』
『うぐ……』
さて、これだけ絞られるハイデルシュスタインだが、実はこの日だけの話ではない。リアムらの母たるシルキーの目の届かぬ場所で偉ぶっては、告げ口されるたびに叱られるのだ。
恐ろしきハイデルシュスタインと人に語り継がれる妖精の、間抜けな一面である。
「母さん、今日はもうそのぐらいでいいんじゃない? 爺だって悪気があったわけじゃないんだし」
『……そう。じゃあご飯にする。リアムの好物用意した』
最後にガッとハイデルシュスタインの頭を布はたきで叩き、母たるシルキーは三人を連れて家へと入る。ハイデルシュスタインは涙目になった。
リアムの住む家は木の洞の空間にある。木の洞を入口とした別空間が家であり、家事妖精であるシルキーが好みそうなお洒落な内装である。
『リアム、一緒に寝よ!』
『何言ってるの! リアムは私と寝るのよ!』
「……いや、一人で寝るよ」
『『ええー!』』
食事をし、眠気に襲われる頃。喧嘩しつつも息ぴったりな二人は、やはり仲がいいのではないか? とリアムは感じる。風と水は相性がいいからだ。
そして実際に、リアムが寝入ると二人は彼を挟むようにベッドに潜り込む。寝食を必要としない妖精だが、リアムと共に過ごす内に人の習慣が染み付いたのだ。
それから更に年月が経つ。
人の子であるリアムはすくすくと育ち、ゆっくり成長するはずの妖精リギルとルーも、リアムに合わせるかのように育っていく。
リアムは成長するにつれ人の世界への憧れを強くし、リギルとルーは見た目に気を使うようになった。
『「……に、にやう?」』
「リギル、発音できてないよ」
『うー、人の言葉は苦手なのよ!』
「ちゃんと練習する。じゃないと、人間がいる街で俺とはぐれたら困っちゃうよ」
『!? ……「わ、わかっ、た、わ」』
リギルは母譲りの綺麗な若草色と、父譲りの雪色が混じった髪を揺らし、人間の少女が着る可愛らしいドレスに身を包んでいる。布を被っただけの以前とは大違いだが、羞恥心を覚えれば服を着るのは至極当然である。
そして彼女の尖った耳はピクピクと動き、堂々とした様子とは真逆で、実は恥ずかしがっているなとリアムは考える。
『「どう? どう? 話せてる?」』
「うん、ちゃんと話せているよルー」
人間の言葉の発音が苦手なリギルとは違い、ルーは水を吸うスポンジのように言葉を覚えた。その様子にリギルはぐぬぬと悔しがり、ルーはこっそりドヤ顔をする。
するの、なんの前触れもなく青年の姿をした妖精がリアムの背後に出現した。
『――ふむ、じきに一〇歳か。人の子の成長は早いな』
「グリンデルバルド……どうも」
『やあどうも。「それにしても面白いことをしている」ね。人の言葉の練習は、「まだ幼い二人には」早いんじゃ「ないかな?」』
グリンデルバルドと呼ばれた男は、人間の言葉を完璧に話せる数少ない妖精である。燕尾服に身を包み、紳士的な笑顔を絶やさない。
多少意地悪な面もあるが、リアムはそれも人間らしさなのだろうと捉えている。
それから、ふたことみこと会話を交わすと彼は瞬く間に姿を消して、三人の前からいなくなる。
「……何年かぶりに会ったと思ったら、すぐにいなくなるね」
『グリンデルバルドは放浪する妖精だから仕方ないのよ』
「発音」
『あっ……「わじゃと、ざ、やいの、よ?」』
リアムが指摘すると耳を垂らし、俯きながらもあざとい顔で言い訳をするリギルに、彼は思わず可愛いと思った。
素直に口に出さずに顔を逸らすのは、彼が人の子である証明か、もしくは純情だからか。