第10話 苦行、難行ありといえど その2
第10話
苦行、難行有りといえど その2
山中深雪の嫁いだ先は、この地域でも中堅規模の稲作を中心とした農家だった。
この地方でいえばどこにでも見かける中間層の農民であり、裕福でも貧困でもなく、
極々平均的な生活を営んでいた。
婿である" 誠一 "はとても優しい男で働き者、舅の" 義一 "は寡黙であるが人柄がよ
く嫁としての立場を影日向なくいつも擁護してくれていた。
ただ姑である義母は、深雪が嫁いできた僅か3年後脳梗塞に倒れ、それ以降は寝たき
りとなっていた。
悲劇の始まりである。
男二人と嫁一人で農作業と姑の介護をする毎日になった。
いずれも働き者の3人で切り回すことにそれぞれそれほど苦痛は感じていなかった。
姑が倒れる前、嫁姑間の隔たりは無いとは言えなかったが、極ありふれた程度の
ものだったという。
倒れ寝たきりになったことが環境を一変させた。
農家の長男、愛息子の嫁、自分以外の女が家の中にいるだけでも面白くない。
働き者でよく可愛がられる女であれば有るほど憎らしくなる。
理屈は通用しない、感情なのだ、長年育ててきた息子を他の女に取られたという潜在
意識が自分でさえも理解の出来ない嫉妬心を生んでいた。
嫉妬心はその敵方が” 出来る人 ”であればあるほど憎悪が高まってゆく。
自分自身も若い時は” よく働く嫁 "として重宝がられていた、周りの農家からは羨ま
しがられていたといってもいい、頭の良い、よく気が利く嫁だったと老女は思う。
だから気が回る頭が邪魔して表立っての嫌がらせこそ出来ない、そのジレンマに苛ま
れ心中いつも穏やかではなかった。
あくまで自分こそが本妻であり、そしてこの家の女主人なのだ、この嫁はあくまで息子
の愛人と思い込む老女の性だった。
寝たきりの老女は半年も経たないうちに我儘放題を言うようになった。
才女といわれた人間が寝たきりとなるとかえって大変である。
自分を押さえ込んでいた理性、知性が崩壊した途端、想像すら出来ない本性が現れた。
我儘な本性は一人にされることを極端に嫌った、四六時中介護者にあれこれ命令し、
こき使うことで、すでに動けない自分自身を慰めているようだった。
見舞客が訪れた時だけ正気が戻り、優しく寂しい寝たきりのおばあちゃんを演じる。
(どれだけ私は悲しいか)を見舞客に訴える、息子や嫁が全然気が利かないからどれだ
け寝たきりの病人は苦労をしているかを綿々繰りかえす、その雄弁さは舌を巻く様だっ
た。
見舞客は必ずといって良いほど、嫁に小言の一つを言って帰る。
「忙しいんはわかるけど〜、も少し面胴みてあげて、な。」
病人の部屋に戻ると”ニンマリ "と微笑む顔がある、虚偽を信じて嫁に小言を言った客
の存在がこの老女の溜飲を下げていた。
病床で女主人が通用しなくなると、いつのまにか悲劇のヒロインに変身していった。
あくまでも主人公は” 私 ”でないといけないのだ。
嫁として介護者が一人24時間張り付くことで当面老女の満足が得られるようだった。
しかたなく農作業は男2人だけでするようになった、広い田畑、人手が2人減ったこ
とは先々の収入減と疲労蓄積を意味していた。
一日中不平不満をわめき散らす病人は、1年も経たずにアルツハイマーをも合併して人
間の体を持った” 獣 ”の如く吼えまくるようになった、オムツを外した時にわざわざ
大便をし、夜な夜なわめく罵詈雑言、頭の良かった人間だけに言葉の暴力は壮絶であっ
た。人が寝ることが気に入らないのだ、夜通し吼えた老女は疲れて朝には眠りにつく。
寝ている間だけが深雪にとって悪魔から開放される唯一の安寧の時間、それさえも洗濯
や家事で忙殺されないと一家が立ち行かない、疲労困ぱいの毎日毎晩。
ただこの時点ではまだ誠一と義一の優しさが彼女を支えていた。
介護老人ホームに預けようかと思ったが、公的ホームは2百人以上の空き待ちの状態で
私営のホームでは月25万以上費用が掛かる、年間300万円強、とても今の状態で支払い
可能な金額ではなかった。
農機具、機械のローンもまだまだ長く、収入減は重くのしかかり一家の行く先に暗雲が
立ち込めていた。
その冬の初雪はめずらしく大雪だった、この地方の雪は水分が多く屋根に重く積もった
雪は早めに下ろさないと家がもたない。
専門の雪下ろし業者に問い合わせたが、季節外れの大雪のため何日も待たないと順番が
こない、日増しに少しづつ積みあがる重雪、家はきしみ音が聞こえてきた。
雪下ろしの費用は出面一人当たり35000円、この家屋に必要な人数3人で10万を
越えてしまう。しかたなく節約も兼ねて誠一が屋根に上がった。
慣れない事はするものではない、この節約がこの家にまた大きな悲劇を生んだ。
誠一が屋根から滑落したのだ。
救急車で運ばれた大学病院で3ヶ月の入院を余儀なくされ、深雪は病院と病人宅の往復
を余儀なくされた。
退院の日に大よその想像をしていた深雪だったが医師の言葉に" 絶望 "した。
自分の全ての希望や夢が音を発てるように崩れ落ちていった。
若手の担当医は臆面もなくおぞましいこと言い放った。
「お気の毒ですが、ご主人は二度と立つ事は出来ないでしょう、体温管理さえも自身で
はできません、現在の医学で出来る範囲の事はしました、あとはお身内の方で頑張って
いただくしかありません。入院加療を続けてもこれ以上の快方は見込めません。ご自宅
で療養された方が費用的にも........でもなんとか命は助けることが出来てよ
かったと思います。」
誠一の体は頚椎を2番から5番まで骨折、脊髄損傷、一命こそ取り止めたものの、首以
下、左手の一部を除く全身不随、言語障害、一部意識障害も合併していた。
滑落時に頭から落ち、首から脊髄にかけて屋根下のトラクターに強打したらしい。
命は助かったと言うが、不幸中の幸いと言うようり、一家にとって逆に不幸中の不幸で
あった。