飲み会
かなり久しぶりの更新です。
人によっては苦手な描写があると思います。閲覧は自己責任でお願いします。
静かなオフィスにカタカタという音だけが響き渡る。
その音は夜の八時になる前にターンという音とともに止んだ。
「ふー。これで月曜日は大丈夫かな?」
うーんと言いながら私は大きく伸びをした。
さて、帰ろうとしたら入り口から男性が入ってきた。課長だ。
「あれ、阿南さん? 今日飲み会じゃなかったっけ?」
「私はいつも飲み会には参加しませんよ。それに今日中に済ませておかないと月曜日には間に合わない仕事があったので。そういう課長こそどうして今時分に?」
課長は確か今日は外回りで直帰のはずだ。
「いや~、月曜日の会議資料で直しておかないといけないところがあったのを忘れていてね。あはは」
課長はどこか抜けている。だから出世もほどほどにしかできないのかもしれない。
課長と同期の人は中には部長になっている人もいる。
まあ、まだ課長になれただけましなのかもしれないけれど……。
私はデスクを粗方片付けると席を立った。
「帰るのかい?」
「少し化粧室に行こうかと」
荷物を置いているのだから帰らないことくらいは分かるだろうに……。
まあ、この人はいつものことだからあまり私は気にしないでおく。
それに、私が化粧室と言ったのも嘘だし。
私は化粧室には向かわず、喫茶スペースに向かった。
ここは社員ならだれでも無料で飲み物が飲むことができるようにドリンクサーバーが設置されている。
ラインナップはさほど多くはないが、コーヒー、紅茶、緑茶、甘いものならココアやオレンジジュースなどがある。
コーヒーを二つ淹れようと思ったが、コーヒーを一つ、あとはココアを一つにした。
それらを持って、私は少し早歩きで戻った。
「おや、早かったね」
入口に私の姿が見えたのか、課長が声をかけてきた。
「ええ、まあ」
素っけなく返すと私は課長のもとに向かった。
「よければどうぞ」
そう言ってココアを差し出した。
「わざわざ淹れに行ってくれたの? ありがとう」
「別に、私がコーヒー飲みたくなったんで、ついでですよ」
コーヒーを啜りながらそう言うと、課長もココアに口を付けた。
「課長は終わりそうですか?」
「う~ん。どうもパソコンが苦手で、うまく変更できなくてね……」
困ったという顔を見せる課長に私は少し小さな溜め息を吐いた。
この人は機械関連はどうも苦手らしい。よく若い子に聞きながら作業をしているところを見る。
仕方なく課長のパソコンを覗くとごちゃごちゃした画面になっていた。
見にくすぎる。これで会議する気か、この人は……。
「……どこをどう直そうとしたんですか?」
「ああ、ここの数字のところなんだけどね」
課長が指さしながら言うそれは明らかにこの画面だけでは直せないものだった。というか、この画面だけで直したら他のところが反映されないからほぼほぼ作り直しだ。
「課長、元のデータありますか?」
「えっ? ああ、もちろんあるよ」
「それ貸してもらえます? そしたらある程度は私が作ります。あと、もう少し見やすい資料に作り替えても大丈夫ですか?」
「構わないけど、阿南さん帰らなくて大丈夫?」
「別に予定は入れてませんでしたし、実際残っていたのだってもともと私の仕事じゃないですよ」
そう、残ってやっていたのは飲み会に参加している人たちの仕上げられなかった仕事だ。
定時近くなって、終わらないと叫んでいたから仕方なく引き受けたのだ。
まあ、それを理由にしたら鬱陶しい飲み会に参加しなくて済むからいいんだけどね。
お酒は好きだけど、会社の飲み会は嫌い。できれば参加したくない。
会社の飲み会はいつもの週の中頃が多いのに、今回はなぜか金曜日だった。
今日はたまたま課長も直帰の日だから、一人で飲むだけだったから残業でもいいやとは思っていたけど……。
課長がこうして会社に戻ってくるとも思わなかったし、想定外だわ。
しっかし、ほぼ作り直しね。この資料。
課長のパソコンを借り、もともと作られて資料を見ると、本当に会議にはあまり向かないようなくらいに見にくい資料だった。
元のデータの数値を直してから会議資料を見やすいように作り直していく。
課長は私が資料を作り替えていくのを口をぽかんと開けながら見ている。
きっとこの人が一人で作ったら何日もかかるだろう作業を私はどんどんと終わらせていく。
けど、データ量が多い。さすがにスライドの枚数は削れなかった。
それでもなるべく見やすいように全ての資料を作り終え、保存をかける。
ふぅと息をつくと隣で拍手が起きた。
「わあ! すごい、すごいよ! すっごく見やすいね! 僕が作ったのと比べると断然こっちの方がいいよ! ありがとう、阿南さん」
きらきらした目でそんなことを言われて悪い気はしない。
思ったより時間がかかってしまって、少しイラっとしていたのもどこへそのといった感じだ。
「別に私は大したことはしてませんよ。それより、これで仕事は終わりですか?」
「お陰様で、これで終わりだよ。本当にありがとう。あっ、これから飲みに行く? なんならこのお礼に奢るよ?」
うきうきとした課長の誘いに悪い気はしなかった。
「いいですね。まだ八時半くらいですし、今からだったら十分飲めますね」
二人で飲みに行く気満々になり、帰る準備をし、部屋から出た。
すると、進行方向と逆側から声をかけられた。
「二人ともお疲れ! 今の時間まで頑張ってたのかい?」
「せ、専務! お疲れ様です」
後ろを見ると恰幅のいい男性が立っていた。
私は慌てて頭を下げて挨拶をした。
「おや、専務も今帰りですか?」
課長はほんわかした笑みでそう尋ねた。
「ああ、仕事が長引いてね。これから飲み会に参加するところだよ。君たちも一緒に行こう」
「えっ、いえ、私はもともと参加しないと伝えていたので、いきなり参加しても迷惑かと……」
参加したくないから残業していたのに、これでは本末転倒だ。
私はやんわりと断ろうとしたが、専務は強い笑みで問題ないと返してきた。
「飲み会は貸し切っているところだし、私の知り合いが経営しているところだから一人や二人増えたところで問題はないよ。それに飲み会は人数が多い方が楽しいからね。さあ、行くよ」
そう言われ、私と課長は会社の飲み会に強制参加となってしまった。
さらば、私の楽しい花金……。
飲み会の会場になっている店は会社からほど近いところだった。
店内に入るともう出来上がっているのか、割と大きな声で騒いでいる人もいた。
「あっ、専務。来られたんですね」
私たちの方を見て、気付いた人が席がどこが空いているのか探し始めた。
専務はお偉いさんの集まっているところに案内され、課長は課長の同期の人たちのいるところに通された。
そして私は、なぜか新人たちのいるテーブルのところに通された。
本当になぜ?
今年の新人はそんなに多くない。そのため、新人の顔は覚えている。
けれど、新人の方はどうだろう……。
私が席に着くと新人たちは気まずそうな顔をしていた。
そりゃ、そうよね。入ってまだ半年も経っていなくて気疲れしているような子たちのところに、こんなおばさんが来たら嫌よね……。
自分で思っていて悲しくなってくる。
だが、飲み会に来たからには私もそれなりに食べたり飲んだりはするつもりだ。落ち込んでいる暇はない。
「阿南さん、飲み物どうする?」
席に案内してくれた熊谷さんが私に尋ねてきた。
「あ~、じゃあ、とりあえず生で」
「了解。頼んでくるから、テーブルにあるものでもつまんどいて。みんな次々頼んで余ってきてるのよ」
熊谷さんは少し困ったように眉を下げてそう言うと、注文通してくるからと言って去っていった。
熊谷さんが言ったように遠慮の塊といったようにお皿の上にちょこちょこと余っている。
「熊谷さんが言ってた通り、食べても大丈夫かしら?」
とりあえず確認してからと思って、新人たちに尋ねると、小さな声でどうぞとだけ返ってきた。
その返事に何とも言えなかったけれど、私はお皿をとにかく自分のところに寄せて次々と食べていった。
少しするとビールが運ばれてきた。
それに口をつけると後ろでバタンという音が響いた。
後ろを振り返ると床に営業部の西岡君が倒れていた。
ああ、お酒弱いのに、また無理に飲まされたのね……。
すでに泥酔状態だというのに営業部の部長の三坂部長が西岡君をゆすり起してお酒をまだ飲まそうとしている。
あのくそ狸爺め。
私はビールをテーブルの上に置き、西岡君のもとに行った。
「三坂部長何してるんですか? 西岡君倒れてるじゃないですか。なのにまだ飲ませるおつもりで?」
仁王立ちでそう声をかけると三坂部長の肩が跳ねた。
「あ、阿南……」
「三坂部長は西岡君がお酒弱いのご存じでないんですか? 同じ営業部なのに」
「え、営業は酒も飲めないとできないんだ。若い女がごちゃごちゃ口を挟むな!」
「アルハラに男尊女卑ですか。そんな風に飲ませて急性アルコール中毒起こったら下手すると人って死ぬんですよ。人殺しでもするおつもりで?」
ごちゃごちゃと口を挟む私が嫌いな三坂部長はいっちょ前に偉そうな口で言ってきたが、そんなの今では古い考えもいいところだ。
私が強めに言うと簡単に押し黙った。ついでに同じテーブルにいたほかの古狸どもにも睨みを利かせた。
「言っておきますけど、一緒になってアルコールを無理やり勧めていたのなら同席者も同罪ですからね」
私の言葉に一瞬古狸どもは黙ったが、三坂部長は顔を真っ赤にして反撃してきた。
「お前は他部署で分からんだろうが、営業は大変なんだ! 酒も飲めん奴が務まるわけがないだろう! だから鍛えてやっているのに口を挟むな!」
ああ、本当に嫌になる。
「は? 何言っているんですか? じゃあ、他の部署は大変じゃないとでも?」
「ぐ……」
「それと、急性アルコール中毒での死亡事件なんて過去に何件も報道されているじゃないですか。ご存じないんですか? それにお酒を嗜めない方でも営業している方々を私は知っていますけど? お酒だけがコミュニケーションツールというわけではないんですよ? もし、これで死亡事故やこれ以上ハラスメントを起こすようなら社の方で設けている委員会や警察に相談させてもらいますよ? 言っておきますが、私は容赦なくそう言ったことはしますからね」
言葉でもう少し叩きのめそうかと思ったが、かなり控えめにはしておいた。
はっきり言って、こんな狸爺にかまっている暇はない。
三坂部長がぐうの音も出なくなったのを確認し、私は西岡君に声かけた。
「西岡君、大丈夫?」
私の声に反応するように西岡君は唸った。
「大丈夫? 気持ち悪くない?」
「……き、気持ち悪い、です……」
かろうじて絞り出された声はそのしんどさを物語っていた。
「立てる? トイレに行こうか?」
私がそう言うと西岡君は這いずろうとしていたが、段差もある為、無理やり立たせ、私の肩に掴まらせた。
はっきり言って自分より十センチ以上背の高い人に肩を貸すのは楽じゃない。
それでも意識がはっきりして、動けるのなら今のうちにアルコールは出してしまった方がいい。
それにもし、ここで吐いて窒息でもしたらその方が大変だ。
私と西岡君はゆっくりとトイレに向かった。
トイレは男女それぞれと男女兼用のものがあった。
「こ、ここで大丈夫です……」
西岡君はそれだけを言うとよろよろと男性用のトイレに入っていった。
さすがにトイレの中で倒れたら大変なので、私はトイレの外で待機だ。
中から盛大に吐く音が聞こえた。
可哀想に。かなりしんどかっただろう。
しばらくすると少しふらついた西岡君が出てきた。
トイレに行く前はそれはもう真っ青な顔をしていたが、今は白くなっている。
「大丈夫?」
「ご心配おかけしました」
もう支えなくても大丈夫と言って西岡君は一人で歩いていたが、やはり足元がふらついている。
会場に戻ると少し広いスペースの開いているところを見つけ西岡君を引っ張ってそこに連れて行った。
私は脱ぎ忘れていたジャケットを脱ぎ、折り畳んだ。
床は座敷とまではいかないが、座面を広く設けてあり、畳でできている。人一人ぐらいは余裕で横になれる。
私は畳んだジャケットをそこに置いた。
「これ枕にしていいから横になんなさい。体も横向けるのよ。上向くとよくないから」
「……すみません」
「しんどいんなら今は気にせず休みなさい」
申し訳なさそうにする西岡君にそう言うと、西岡君は私の言うことにおとなしく従った。
古狸どもが押し黙っていたのはあの一瞬だけのようで、もう騒がしさを取り戻していた。
それとはまた別のところで少し盛り上がっているところがある。
はあ、そこには挨拶に行かないわけにはいかないか。
心の中で溜め息を吐き、私は炭酸の抜けきった自分のビールだけを取りに戻り、すぐにその一角に向かった。
「お疲れ様です。鬼塚常務。挨拶が遅れてすみません」
会話が一瞬途切れた隙に私は鬼塚常務に声をかけた。
鬼塚常務は仕事のできる女性で、会社の中でも逆らえる人は少ない。
仕事に対する姿勢としては他人にも自分にも厳しい。
「あら、阿南。久しぶりね。貴女が飲み会に参加するなんて珍しいわね」
「ええ、まあ。今日は成り行きで参加することになったので……」
苦笑いしか出ないが、必死に口角を上げる。
「挨拶が遅れたって言っていたけど、さっき営業の西岡を介抱していたから仕方ないんじゃない? あの仕事のできない狸爺どもの相手もしていたみたいだし」
鬼塚常務もあの人たちのことは狸呼ばわりらしい。
私は乾いた笑いしか出なかった。
「まあ、とりあえずお疲れ様。乾杯」
鬼塚常務はそう言うとビールの入ったジョッキを私の前に差し出した。
私は自分のジョッキをすぐさま常務のジョッキより低い位置に持っていき、重ねた。
常務がビールを飲むのを確認し、私も気の抜けきった自分のビールを一口飲んだ。
「それにしても、遅れてから専務と一緒に来るとはね。残業していたのかしら?」
「あっ、はい。少し……」
「でも、それって自分の仕事じゃなかったんじゃないの?」
常務はにこやかな笑みを浮かべて、優しげな声で聞いてくるがかなり怖い。
「えっと……」
「それに羽鳥君も今日一緒に来てたわよね? 彼は今日直帰じゃなかった? いつも飲み会に参加する彼が今日は参加できないって聞いていたんだけど。彼の仕事も手伝っていたのかしら?」
言い当てられすぎて私は何も返せなかった。
そんな私を常務は口角こそ上がったままだが、すっと笑みを消して見据えてきた。
そして、ビールを飲み干し、ジョッキをテーブルに置いた。
コトンという比較的静かな音なのに怖い。
さすがに私は追加のお酒を頼むこともできず、誰か気づいて~と思っても声を上げられなかった。
「阿南、別にね。人の仕事を手伝うなとは言わないわ。でも、貴女が残業してまですることかしら? 確か貴女だいぶと残業してるわよね?」
「あっ、その……」
とにかく何か言わないとと思うけど、そんな言葉しか出なかった。
「人事部からも言われているでしょ? もう少し残業減らせって。それもと、貴女そんなに仕事遅かったかしら? 自分の仕事も終わらせられないほどに」
笑顔の消えた常務が怖すぎて私は小声で善処いたしますとしか返せなかった。
すると、明るい女性の声が私たちの間に入ってきた。
「鬼塚さん、阿南が自分の仕事のペース配分もできないわけないじゃないですか。残業は他の人からの引き受けるからでしょ。まあ、人に押し付けて飲み会参加してる奴らも多いみたいだけどね」
そう言ったのは私が新人の時に指導してくださった佐藤主任だ。
短めの髪により、よりサバサバした感じが引き立てられている。
佐藤主任は『人に押し付けて飲み会参加してる奴ら』といった時に特定の人物を見た。
やっぱりバレているようだ。
「でも阿南。あんた、いい加減人の仕事引き受けるの止めなよ。何かあった時に責任取らされたらたまったもんじゃないじゃない。仕事だって、他に振り分けるのを覚えないと。ちゃんと人を使いなさいよ」
「はい。すみません」
「そうすぐに謝るのも駄目よ。悪くない場合でも責任取らされたり済んだから」
佐藤主任はぷりぷりと怒る。まあ、叱ると言った方が正しいかもしれない。
「かしこまりました」
私のその返事には満足げな顔をした。
「それはそうと阿南。他の部署に行く気ない?」
常務が尋ねてきたそれは異動の打診だ。
「自分はまだ今の部署でも学ぶことは多いかと思うのですが……」
「他の部署でも学ぶことは多いでしょ」
断りにくいことを言ってくる。どうしても私の事を異動させたいようだ。
困っていると佐藤主任が口を挟んできた。
「ダメですよ~。この子まだ人の使い方を覚えてないんですもん。他の部署に行ったらまた一からになるし、そうなると人の使い方なんていつまでも覚えらんないですよ」
「あら、だから人事部はどうかしらと思ったのだけど。新人教育課もあるからやりがいは十分だと思うわよ?」
「やりがいがあるのは分かりますよ? でも、年下に指示するのはできるようになっても、同年代を動かすのはいつまでも覚えらんないですよ」
佐藤主任はそう言って自分のお酒を呷る。
「まあ、そうね。阿南、異動したくなったらいつでも言いなさい。私が口添えしてあげるわ」
常務がにっこりと微笑み、そう述べた。
「ありがとうございます。今は、今の部署で頑張りたいと思います」
「そう、頑張りなさい」
その言葉を聞いて私は一礼をし、自分の元々の席に戻った。
あ~、疲れた~。
どっと疲れが押し寄せてくる。
こんな時は食べて飲むに限るわね。
テーブルの上は私が空にしたお皿はいつの間にか下げられていて、メニューだけが置かれていた。
何を食べようと思い、メニューを眺めた。
すると上から声が降ってきた。
「阿南さん、隣いいかな?」
上を向くと微笑んでいる課長がいた。
「ええ。どうぞ」
私がそう答えると新人たちがいる反対側に座った。
「大変そうだったね」
「そう、ですかね?」
大変なのはどれに対してだろうと思ったが分からなかった。
「何を注文するか決めた?」
「いえ、まだ……。目ぼしいものはいくつかあるんですけどね」
まだメニューに目を通している最中の私に決めたか聞かれても決まっていないのが正直なところだ。
さっき摘まむ程度には食べたが、お腹がきゅぅっという音を立てた。
「これとか阿南さん、いいんじゃない?」
課長が指さしたのは日本酒の飲み比べセットだった。
「いいですね」
それも頼むことに決めた。
「課長は何か頼みます?」
私が尋ねると課長が困ったように眉を下げた。
「う~ん。さっき同期たちにさんざん余り物を押し付けられてそんなにお腹はすいてないんだ……」
「では飲み物はどうします?」
この調子だとお酒もだいぶと飲まされたんじゃないだろうか?
「う~ん。ウーロン茶にしようかな……」
私の予想は当たっているようだ。
「じゃあ、ついでに頼みますよ」
「ありがとう」
その返事を聞いてから私は店員さんを呼び、食べたい物とビールと日本酒の飲み比べセットとウーロン茶、そしてこのテーブルに座っている人数分のお冷を頼んだ。
するとお冷はピッチャーになると言われ、了解した。
ちらりと新人の方を見るとみんな大人しく、あまり喋らず、お酒も飲んでいない。
一人顔色が良くない子がいる。
「新藤さん、大丈夫? あまり顔色が良くなさそうだけど」
私が声を掛けると鈴のような声が返ってきた。
「あっ、少し、飲み過ぎてしまったみたいで……」
新藤さんは大人しく可愛らしい見た目をした女の子だ。声まで可愛らしいとは……。
「気持ち悪くなる前にトイレに行ったらどうかしら? お水も今頼んだから飲んだ方がいいわ」
私の言葉に新藤さんはもじもじとした。
はっきりと言ってくれないからどうしたいのかが分からない。あまり強要するのは良くないだろうけど……。
「何かあった? 言いにくいこと?」
「あっ、その……」
新藤さんは口ごもりながら古狸どもに視線を向けた。
ああ、そういうこと。
「別にあの人たちの事は気にせず行きなさい。向こうが声かけようとしたら何とかしてあげるから」
私がそう言うと新藤さんはすみませんと言って席を立った。
トイレに向かうにはあの古狸どもの近くを通らないといけない。それが嫌だったんだろう。
新藤さんが古狸どもの近くに行くと、古狸の一人が新藤さんに気付き、気色の悪いくらいに鼻の下を伸ばし始めた。
そいつに鋭い眼光を飛ばすと殺気でも感じたのか私の方を見て青ざめた。
他の狸爺どもも私が睨んでいるのに気付いたようで、俯いて黙った。
新藤さんはその隙にその場を急ぎ足で通った。
どうにかなりそうね。
いったん目線を外すと、店員さんが近くに立っていた。
「すみません。注文の品を持ってきたんですが……」
「ああ、ありがとうございます。置けるところにおいてください」
私がそう言うと店員さんはいそいそと並べだした。
「ほら、お水来たからみんなちゃんと飲んで。飲まないと脱水起こすわよ」
世話焼き婆よろしく新人たちにそう言ってグラスを渡していく。
ピッチャーはみんなが取りやすい位置に置いた。
「阿南さん、たくさん頼んだね~」
「そりゃ、今日は昼食べれなかったんでお腹すいてるんですもん」
「えっ、お昼食べられなかったの」
「時間がなかったんです。今日は外回りにも行ってたんで」
外回りがなくてもあまり昼はがっつり食べないから夜にはお腹ペコペコだ。今も少しは摘まんだとはいえ、食べ足りない。
「食べたいのあったら食べてもいいですよ」
私がそう言うと課長は今はいいやと断った。
「そうですか。でも、さすがに頼み過ぎたみたいです」
私が頼んだのは枝豆、揚げ出し豆腐、しし唐の串焼き、ブリ大根、釜めし、そしてフォンダンショコラだ。
「確かにこれは多いかもね」
課長は苦笑する。
「なんで良ければ、デザートに頼んだフォンダンショコラもらっていただいてもいいですか?」
「えっ、いいの?」
私が言うと課長は目を輝かせた。
実を言うと課長が来たから甘いものを頼んだだけで、自分で食べるつもりはなかった。
課長は甘いものが好きでもこういった飲み会では頼まないのは知っていた。
押し付けられたというのなら食べるだろうと思い、頼んだのだ。
「もらってくれるとありがたいです」
「じゃあ、お言葉に甘えていただくよ」
課長はそう言うと嬉しそうに食べ始めた。
私も食べ始めようとしたら服の裾を引っ張られた。
「ん?」
不審に思い、引っ張っている人を見ると新人の堀君だった。
堀君はこっそりと奥を指さしていて、その先には新藤さんがいた。
ああ、戻ってきたのね。
新藤さんは私と目が合うと駆け足で戻ってきた。
私と目が合っている間は古狸どもも新藤さんに気付いても声を掛けられないといった様子だった。
「おかえりなさい」
私が声を掛けると、新藤さんは少し恥ずかしそうにした。
「ありがとうございました」
「あら、お礼を言われることなんかしてないわ」
なんの事かしらといった様子で返してから、私は枝豆に手を伸ばした。
「そう言えば、新人さん勢ぞろいなんだね」
フォンダンショコラを頬張りながら課長はそう言った。
新人はみんな課長にぺこりと頭を下げた。
「そう言えば課長は自己紹介してませんでしたね。私は部署案内の時に取り敢えず名乗りましたけど」
新人は入社してすぐに社内案内で色んな部署を回る。その時に私は案内係を任されたので軽く挨拶はしていた。
だが、課長はその日、他社との会議だったかで不在だった。新人が全員揃っているのを見るのは初めてのようだ。
「そうだね。まともにみんなと顔を合わせたことがなかったからね。初めましてでいいのかな。阿南さんとは同じ部署で課長をしています。羽鳥と言います。よろしくね」
課長は柔和な笑顔を浮かべた。
「そして私は阿南です。特に役職は付いていないけど、色んな部署に顔を出すことがあるから、また会った時はよろしくね」
私がそう言うとみんなよろしくお願いしますと口を揃えて言った。
さあ、挨拶も終わったことだし改めて食べますか!
枝豆を二つほど食べてから揚げ出し豆腐に手を伸ばした。
じゅわりとだしを吸った衣がずっしりとしている。それをはしたないが一口で頬張った。
すると、だしが口いっぱいに広がった。衣のカリッとした食感と中の豆腐のふんわりとした食感が絶妙だ。
「ん~。美味しい~」
私がそう言うと課長が横で美味しそうだな~と零している。
皿を見るともう一つだけ残った揚げ出し豆腐がある。
ちらりと横を見ると課長と目が合った。
「……食べます?」
「いいのかい?」
「いいですよ。他にもたくさん頼んだものがあるんで」
別に独り占めしようってわけじゃない。
残りの揚げ出し豆腐は課長に譲った。
次にブリ大根に手を伸ばした。
大根に箸を入れるとすっと切れた。軟らかく煮こまれた大根を口に入れるとおだしが口の中で香った。
思わず笑みが零れる。
「美味しい?」
私の様子を見て課長が微笑みながらそう聞いてきた。
「ええ。美味しいですよ」
私はそう答えると飲み比べセットの日本酒を一つ手に取り、くいっと飲んだ。
少し辛口の日本酒だが、香りが高くとても美味しかった。あまりお酒に詳しくないが、これは嫌いじゃない。
日本酒を飲みながらぶりにも箸をつける。
軟らかく煮こまれたぶりは脂ものっていて白いご飯が欲しくなった。もちろんお酒との相性も抜群だ。
パクパクと食べていくとすぐ無くなってしまうのが少し悲しい。
最後に釜めしだ。蓋を開けると湯気がふわっと立ち、美味しそうな香りが広がる。
添えられていた小さめのおしゃもじでよそっていく。
口に運ぶと醤油の香ばしさと鶏肉のうまみが広がる。
ああ、至福だ。
あれだけテーブルの上を占めていた料理もぺろりと平らげてしまった。
それでも少し物足りなさがあるのはお酒が残っているせいだろうか。
少しおつまみが欲しいと思っていたらラストオーダーだと言われてしまった。
「じゃあ、ビールとおつまみナッツお願いします」
そんなだらだらと食べていられないだろうと思い、仕方なくそれで終わらせた。
注文の品が来るのを楽しみに待っていると後ろから突かれた。
振り返ると熊谷さんがいた。
「どうかしました?」
私が尋ねると熊谷さんが困ったように眉を下げた。
「みんな頼んだの食べきれてないのよ~。阿南さん、まだ食べれそう?」
そう言われ他のテーブルを見ると唐揚げやフライドポテト、サラダの残骸、その他諸々がテーブルの上に並んでいた。
「……さすがに全部は引き受けませんよ」
私は別に大食らいではない。全部食えと言われても食べれるわけがない。
「ちょっとでも大丈夫! 残すと追加料金請求されるから食べないといけないのよ~」
会社の飲み会は会社が基本支払ってくれるというか、幹事が会社に請求することになる。でも、追加料金や二次会までは面倒を見てくれない。
今回は熊谷さんが幹事だったんだろう。もし追加で掛かるのなら参加していた人人数で割って、各自に請求することになる。
今日のメンツを見ていたら請求しにくい人はかなりいる。
話せば普通に払ってはくれるだろうが、話を持ち出すこと自体躊躇われるような人もいる。
それなら少しでも協力した方がいいだろう。
「本当は細川君に任せようとしたんだけど、断られちゃったのよ」
熊谷さんがそう嘆いた。
細川君はその苗字とは裏腹にかなりのわがままボディの持ち主だ。本人も食べる事は大好きで飲み会にはよく参加しているらしい。
「確か細川君、去年の健康診断引っ掛かったとか言ってなかった?」
「そう、それで油もんはちょっとって言われちゃったのよ~」
ああ、そういうこと。
「じゃあ、唐揚げとポテトは引き受けるから、あとの残骸は細川君に頼んで。それでいけそう?」
「大丈夫! ありがとう!」
熊谷さんはそう言って唐揚げとポテトを私の目の前に持ってきた。
思ったより量あるわね……。
言ったからには仕方ないと思い、食べていく。
その間に頼んだビールとおつまみナッツも来た。
「阿南さん、食べれそう?」
「まあ、思ったより多いですけど多分食べれますよ」
心配そうに聞いてくる課長を他所に私は食べ進めていく。
冷めてしまった唐揚げは少し硬く、油がくどい。ポテトもふにゃふにゃであまり美味しいとは言えなかった。
それでも黙々と食べていくと、時間までには食べきれた。
ああ、お腹いっぱいだわ。
腹八分目までで留めたかったが、さすがにできなかった。
ウエストが少しきつくなったスカートが恨めしい。
「阿南さ~ん。本当にありがとう」
どうやら食べ残しはなかったようで、追加料金はなかったようだ。熊谷さんが感謝してくる。
「さすがにもう食べれないけどね」
胃の中が油で埋め尽くされたんじゃないかと思う。これ以上食べたら確実に吐くだろう。
好き勝手飲んで食べてができればいいんだろうけど、それができないのならなおさら会社の飲み会は参加したくない。
重くなった胃を擦りながら店を見渡した。
するとまだ西岡君が横になっていた。
「西岡君、もう店でないといけない時間よ。起きれる?」
声を掛けると西岡君は唸りながら起き上がった。
その隙に私は折りたたんでいたジャケットを回収し、羽織った。
そして、私は肩を貸し、西岡君と一緒に店を出た。
外ではみんな「お疲れさまでした~」と言って、二次会に行く人と帰る人とで分かれ始めていた。
「細川君!」
私が細川君を呼ぶとのそのそとこっちに来てくれた。
「どうしたんスか?」
「細川君って帰る?」
「帰りますよ」
「じゃあ、西岡君お願いしていい? 私逆方面だから送ってあげられないのよ」
「ああ、大丈夫っスよ」
細川君はそう言うと私と入れ替わり、西岡君に肩を貸した。
「じゃあ、よろしくね」
「ウっス」
細川君はそう言って西岡君を連れて駅へと向かった。
「阿南さんはみんなの家の位置を覚えてるのかい?」
課長が驚いた顔をしている。
「まさか。そんなはずないですよ。西岡君は新人の時に私が面倒見ていたから知ってるのと、細川君は同期なんでたまに話すことがあるからたまたま覚えてただけですよ」
あの二人は割と家が近い。その所為かたまに飲みに行くこともあるらしい。
正確には飲みではなく食べに行くんだろうけど。
「阿南さんは優しいね」
「そんなことはないですよ」
私はただお節介なだけだ。そのうち余計なお世話と言われそうだ。
「今日は予定と変わってしまったね。仕事のお礼はまた今度でいいかな?」
そう言われて、奢ってくれるという話が出たのを思い出した。
「ああ、いつでもいいですよ」
「じゃあ、どこか行きたいところがあったらそこで奢らせてもらおうかな」
「その時は高い物でも頼んじゃいましょうかね」
ニヤッと笑うと課長は少し驚いた顔をしていたがすぐに微笑んだ。
「それは怖いねぇ。給料日でも破産してしまいそうだ」
冗談交じりで言う課長に思わず笑ってしまった。
「課長も言いますね。でも安心してください。私の胃はブラックホールじゃありませんので」
「ふふふ。そうだね。じゃあ、また今度」
「ええ。また今度」
互いに手を振って帰路に就いた。
ああ、もう次の花金が待ち遠しい!