最寄り駅の『階段』話 ~階段を上ると、そこは無人駅だった~
「次は、○○駅に止まります。お出口は右側です。
The next station is ○○. The doors on the right side will open.Please…」
車内アナウンスではっと目が覚めた。どうやら酒の飲みすぎでうつらうつらしていたらしい。
得意先の課長は人はいいのだが、自称九州男児で、とにかく芋焼酎を飲ませる。そして酔いつぶして初めていい飲み会をした、と満足をする性癖だ。
今回の飲み会もご多分に漏れず、そんな飲み会になった。そのためか、店から出てからここにつくまでの記憶があいまいだ。
よく地元の駅まで真っ直ぐ帰ってこれたな、と自分の帰巣本能に感謝しかない。
まあ、ずっと通ってきた駅だからなのだろうけど。
都心から電車を2回乗り継いで、1時間弱かかる郊外の駅だ。かつてベッドタウンとして栄えたが、今や高齢化や残された中年の息子や娘が住む場所と変わっている。典型的な時代に取り残された駅とその周辺の町、といえる。
引っ越してきたときにあれだけピカピカ輝いて見えた我が家も、月日が経つにつれて経年劣化の進んだ単なる中古住宅と変わっていた。
今は両親も亡くなり、すっかりかび臭くなった家には私一人が住んでいる。だからこの駅も何十年と使ってきた古なじみなのである。めったなことでは間違えないであろう。
しかも、目の前にはちょうど階段がある号車に乗れていたようだ。
習慣というのはすごいものである。最近つとに感じていなかった自己効力感を何となく覚えつつ、私は電車を降りた。
すると耳に入ってきたのは、ざーーーっという大粒の雨粒が駅の屋根をたたく音。
ホームから外を見ると、東口階段から降りた人が、外に出る際に傘を差している。その真っ赤な色が目に眩しい。
今日の天気予報は一日晴れって言ってたじゃないか。くそ、傘がない。
雨があまりにひどいようだったら駅前のコンビニでビニール傘を買っていこう。
あ、明日の朝食がないから買っていこう。
あれ、財布にお金まだ残っていたっけ…
酒の残ったまとまらない思考と、千鳥足。
階段から転げ落ちないように、手すりにしっかりつかまってから一歩一歩段差を進む。
夏場の蒸した空気の中で、なぜかヒンヤリとしている手すりの冷たさが意識を少しはっきりとさせてくれた。
◇
ふと、異変に気が付いたのは階段を昇り切った直後だった。
誰もいないのだ。改札に。
終電間際だから乗客がいないのはまだ納得できるが、駅員すらいない。完全に無人だ。
「エスカレーターを上る際は、手すりにおつかまりください…」という無機質なアナウンスが繰り返し流れているが、人の声はおろか、足音すら一切聞こえない。
窓口をのぞいてみても、駅員すらいない。
おかしい、少し怖くなってきた私は、早くここから離れようと考えて、足早に自動改札を通りぬけたて、いつものように自宅に向かって東口階段を降りた。
外は一面滝のような雨が降っていた。
少し前でも視界が遮られて見えない。コンビニの明かりすら見えない。
まさか誰もいないなんてないよな…そう考え、
数歩外に出て、雨に濡れるのも構わず周りを見回す。
雨で見えづらいが車のヘッドライドが見えない。
ざーっという雨音しか聞こえない。排気音もない。
人の気配がまるでない。
ちょっと落ち着くため、また東口階段に戻る。
すると、すでに終電が行ってしまったせいか、さっきまで開いていたはずの東口階段にはシャッターが下りていた。
シャッターが下りる音は、雨音で聞こえなかったのだろうか。シャッターが閉じる時間が短くないか。酔っていて気が付かなかったのだろうか。
その前にたたずみ、私は考えを整理しようとする。
考えれば考えるほど、世界から自分一人が切り出されたような気になってくる。
駅員もいなかった。いつもは駅前にとまっているバスや迎えの車もなかった。
これはいつもとは確かに違う。ここには本当に誰もいないのだろうか。
嫌な汗が出てきて、鼓動が早まる。酔いが一気にさめた。思わず頭を抱え込んでしまう。
いや、落ち着け。よく考えろ。駅から降りた後、本当に私は誰も見なかったのか??
そうだ!!そういえば、電車から降りた時に、赤い傘をさしている人をたしかに見た。
よかった、私以外にもこの辺りは人がいるじゃないか!
そう思って安心して、顔を上げたら、
目の前に、赤い傘を差した女が立っていた。
◇
ぞっと鳥肌がたった。
女は肌が異常なまでに白く、和風美人という感じだ。20代ぐらいだろうか。
明るい日の下でリラックスしてみたらさぞかし眼福だったであろう。
ただ、この状況ではそれらは不安をあおるだけの要素でしかない。
いくら雨音に遮られるとはいえ、こんな近づかれて気が付かないなんてことありえるのだろうか。
「あの、ちょっといいですか。突然話しかけてしまってすいません」
女は突然話しかけてきた。
「え、ええ…大丈夫です」
「ありがとうございます。あのですね、急に変なこと言ってしまってすいませんが、ここ、おかしいと思いませんでしたか。誰もいないし」
「は、はい。それでちょっと今混乱してしまっていて…」
「驚かないでくださいね。唐突で荒唐無稽な話に聞こえるかもしれませんが、実は、ここはあなたの元居た現実世界ではありません。生きている人が来てはいけない、俗にいう死後の世界なんです。そして死んだ人の魂が、この駅から外に出ていくんです。馬鹿みたいに聞こえるかもしれませんが、本当なんです」
「え…死後の世界…?普通に電車から降りて来れましたが…?あの、これってなんかのどっきりだったりしますか。だとしたらいやだなぁ。カメラとかあったりするんですか?」
「違います。本当に危ないんです。あなたがここにきてしまった理由は、上ってはいけない階段を上ってしまったことです。変なところに階段があると思いませんでしたか?おかしいと思いませんでした?ここ、あなたが普段使われているはずの駅なんですよね?」
女は少し目つきを厳しくして、叱るように言ってくる。
たしかに、乗った号車までは覚えていなかったし、『目の前に階段があってラッキー』としか思わないで、何も考えず上ってしまった。
けれど、普通、いつも使っている駅に階段が1つ増えているなんて、だれが意識するだろうか?
たとえ酔っていなくても、スマホをいじったり音楽を聴きながら、無意識に階段を上っている人は多いと思うし、ましてそれが死後の世界に続いているなんて誰が想像できるであろう。何も責められる要素はないはずだ…なんて言い訳じみたことをつい考えてしまう。
唐突にあのヒンヤリとした手すりの感触を思い出してしまい、思わず手のひらを服にこすりつける。
「臨死体験をした人の中には、階段を上って死後の世界に向かった、という人が多いこと、あなたは聞いたことがありませんか?階段というのは、あなたの元の世界と死後の世界をつなぐ概念のようなものです。本来は生きている人は上れないどころか、目にすることもないはずなんですが…」
「そんな荒唐無稽な話ってありますか??まだどっきり番組だって言ったほうがリアリティがある。私知ってるんですよ!同じようなどっきりがあったの」
「しかし現にここ、明らかにおかしいですよね。駅から降りて、私以外の人を見ましたか?改札に誰もいなかったはずです。駅員ですら。これってあり得ないですよね」
「いやだから、そういう設定のどっきりなのでは…」
「あなたはどっきりどっきり何度も口にしますけど、本当にどっきりってあり得ますか??よく考えてみてください。この状況ですよ」
そう言って女は手を横に広げて、あたりを指さすようにする。
「お気づきになりましたか。そうなんです。大雨なんですよ今。
先が見通せない、雨音がこれだけうるさい。
仮にどっきりだったとして、この状況下で撮影しますかね?」
◇
たしかにそうだ。雨の音で音声は遮られるだろうし、見通しも悪く映像もとれない。こんな状況では、撮影も何もないだろう。
「…おっしゃる通りかもしれません。えっと、ていうことは本当に…」
「はい。本当に。何ならスマホを出してみてもらったらわかりやすいかもしませんよ」
鞄からスマホをだしてみてみる。
圏外だ。ありえない!ここは十分電波が届く場所で、こんなことは一度も起きたことがない。
「このまま駅から離れていたら、あなたはもう元の場所には二度と戻れないまま、ずっとこの世界をさまよい続けることになったでしょう。
さっきあなたの姿をここから見て、正直見間違いかと思いましたが、ここで待っていてよかったです。こうやってアドバイスができるわけですし」
「アドバイス…?え、私どうすればいいんですか元の世界に帰れるのですか?え、怖い怖い。本当に怖いちょっと待ってどうしようどうしよう」
「落ち着いてよく聞いてください。アドバイスは2つあります。1つ目は、始発電車が朝の4時半に来ます。その電車が来るまではここから絶対に離れないでください」
「…その流れだと、そうして電車がきたらここから脱出ですか?」
「はい、そういうことになります。そうしないと、ここに永遠に閉じ込められてしまいますので、必ず始発電車に乗るようにしてください
二つ目。絶対に声をかけられても、ここから離れてはいけません」
「…ホラーにありがちな奴ですね」
「ここには元の世界にはいない、価値観も倫理観も何もかもが異なったものが存在します。魑魅魍魎の類です。雨で見えないだけで、外にはあなたの想像もつかない死後の世界が広がっています。
そいつらは、元の世界の色合いが強い、この駅には入ってこれません。だからあなたをその世界に引きずりこもうとしてきます。
いいですね。どんな言葉をかけられても、その口車にのって、絶対に外に出てはいけません」
「…わかりました。それで、あなたは一緒にいてくれるんですよね」
「そうしたいのはやまやまなのですが、すいません。ここでこうやってあなたと話しているだけで限界が来てしまい、ほら、お分かりになりますかね…」
そう言って女は私に腕を見せてくる。
見ると、先のほうからどんどん体が透けていっている。なんだこれは。
「あとちょっとで…私は元の世界に…戻ってしまうと思います。
今の私は思念だけ…を飛ばしている体ですので、残念ながら…あなたのそばにいてあげることはできません。
なので…あなたは一人で始発電車まで耐えなければいけません。
声をかけられても、絶対にここから外には出ないで…いいですね」
「いかないでください!!私一人だと怖くて無理ですよ!!」
「そうも。…言って…られません…」
どんどん女の体が薄くなっていく。
それに伴って声も切れ切れにしか聞こえなくなっていく。
「待ってください!待ってください!おいていかないでください!お願いですから!!助けてください!!」
「すいません…それは無理…なんです…最後に…何か確認しておきたいことは…ありませんか」
とっさに私は思いついたことを聞く。
「声って何なんですか??どんな声をかけられるんですか??」
「それは…あなたが…今一番聞きたい人の…」
それだけ言って女はふっと消えてしまった。
◇
時計を見ると3時を回ったところだ。あの女が消えてから、3時間ほどが経過した。
ずっと緊張して目をみはり耳をそばだてていたが、雨の音しか聞こえないし視界は悪いままだ。
今のところ何も起こらない。
ただでさえここ数日の仕事の疲れと、飲み会での気疲れがあるのに、加えてこの緊張感で、頭がくらくらしてきた。
何の嘘っぱちだ、詐欺だ、とか思ったりするが、その都度、すっと姿が薄れて消えた女の姿を思い出す。あれは現実世界では起こりえない。やはりここは死後の世界なのだろうか。
そこまで考えて、別の可能性も思いつく。
女自身がいわゆる魑魅魍魎の類で、ここが現実世界なのでは、という逆のパターンだ。
ただし、それも『無人の駅』という要素を考えると、断定はできない。
この駅をもう数十年使っているが、いまだかつて、駅員と乗客が一切いない無人の駅は見たことがない。たまたまのタイミングだったということはできなくもないが、そう思ってふらふらと外に出てしまうのはハイリスクだ。
やはり、ここは朝の始発電車を待って、とりあえず乗ってみるのが正しい行動だろう。
仮にここが現実世界だとしても、乗ることを選んだところでリスクは低い。ただ一駅分往復すればここにまた戻ってこれる。
それでもし女の言ったことが本当だったら、それで元の世界に戻れるという大きなメリットがある。
そんなことを眠気覚ましにつらつらと考えていた時のことだった。
雨の中、ぼんやりとした人影が浮かんでいた。
そして、雨音にかき消されることなく、その声は不思議とクリアに聞こえてきた。
「かずちゃん…聞こえる?かずちゃん。お母さんだよ」
死んだ母親の声だ。
◇
私の母は、いわゆる教育ママというやつだった。
小学校3年生ぐらいから中学の受験勉強を私に半ば強要し、第一志望の中高一貫校に合格した後も、高いお金を出して塾に通わされ、中間試験や期末試験の結果はいつも報告をさせられていた。
口癖は「あなたの今後の選択肢を広げてあげたいの」。母自身、それを本気で子供のためと信じていたし、私も最善の行動だと思っていた。
大学に進学するまでは。
大学も第一志望に合格し、目の前にはたくさんの選択肢が広がっていた。
海外に飛び出すことだってできたし、起業を目指した同級生も多かった。霞が関でキャリア官僚になる道だってあったし、当然大きな組織の中で出世していくことだって可能だった。
だが、それには大きな決断と、どれか一つの選択肢を選ぶ必要があった。
そして、そこで初めて、私は今まで選択肢を増やす行動はしていたけれども、『選ぶ』行為をしてこなかったことに気が付いた。
そもそも、選択肢とは選ぶ前提であることを理解できていなかったのだ。
全くあほな話だ。手段と目的が逆転していた。
選択肢を作るのは、そもそもどういう人生を送りたいか、目的があって初めて有効な手段で、増やすこと自体は目的ではなかったのだ。
しかも、「今後の選択肢を広げる」とは見方を変えると、選択をその時点ではせず、後回しにしていたということもある。
結局、大学生活の中で、これからの人生に必須となる選択肢を選び取る決断ができなかった。
そうして私は、人生の選択をしないまま大学を卒業し、流されるまま選んだ会社に通い、結婚や一人暮らしなど大きな選択肢を選ばず、生きてきた。いまだに子供のころから生活していた居住空間を脱していないのもそのためだろう。
社会人になってからは、周りの環境に合わせて、器用に立ち回ることで社会を渡っていけることに味をしめ、自分の意志で大きな選択をせずに済むポジションについている。
それは楽だ。とても楽な道だ。
その反面、たまにとてつもない自己嫌悪に陥ることもある。
早い話、私はすっかりビビっていたのだ。
そんな自分に苛立ちと無力感を覚えていたのだ。
そもそも、私はどう生きていきたいのだろうか。
私にはその根本に立ち返る思考がすっかりできなくなっていた。
◇
そんな中だった。父か突然の病気で亡くなり、続いて母が病に倒れた。死病だった。
闘病中に母は、私にこんな言葉を投げかけてきた。
「かずちゃん。ごめんね。私が、選択肢を広げて、って言い続けた結果、あなたは選択肢増やすことを頑張りすぎて、本当の自分の人生を送る時間を短くしてしまったかもしれない。最近になってようやく、あなたの暗い顔を見て、気がつけたの」
「ただ、無責任なことを言うようだけど、そういう人生も、それはあなたの人なの…私はもうこの病で死ぬでしょう。自分の体のことだし、よくわかるの。だから心残りは、あなたの人生をどのようによりよくできるお手伝いができるか、ということだけ。私に残された時間はわずかかもしれないけど…」
その話をした翌日、容体が急変して、母は帰らぬ人となってしまった。
母は、私の人生の師として前への進み方の一つの例を示してくれたと同時に、足を引っ張った張本人でもあると私は思っている。
私がこういう人生を選んでしまったのは、私の自業自得とはいえ、当然母の教育方針もある。
私が母に持っている感情はとても複雑で、愛憎入り混じったものだ。
それは今もなお整理できていない。
だからさっき女が言っていた「あなたが今一番聞きたい人の」声は、母だということも何となくわかっていた。
◇
「かずちゃん、落ち着いて聞いてね。ここは人間がいちゃいけない死後の世界なの。それは死んだはずの私が声をかけていることからもわかると思う」
声やイントネーション、トーンなどは死ぬ直前の母そのままだった。
母としか思えない。だが、あの女の助言もある。偽物という可能性もあるのではないか。
「…本当に母さんなの?」
「…疑う気持ちは当然あると思うわ。あなたに姿を見せてあげたいけど、その駅にはこれ以上近づけないし、あいにくこの雨で、あなたからはぼんやりとしか私の姿が見えていないかもしれない。母さんが母さんだって、どう証明すればいいのでしょうね…でも信じてもらうしか私にはできないの」
これだけでは本物か偽物か、判断がつかない。
そこで私は、ホラーの定番ともいえる、『二人にしかわからないこと』を聞いて、本当に本人なのか確認してみることにした。
「母さん、わかった。じゃあ、私と母さんの二人にしかわからないことを聞くよ。それで答えられたら、私は母さんを信じることにする」
「ええ、わかったわ」
「私と母さんが初めて行った遊園地、どこだったか憶えている?」
「もちろん覚えているわよ。近所にある遊園地に行ったじゃない」
これは本当だ。遊園地は確かにあった。
ただ、ジェットコースターで大事故があったけど隠蔽されたとか、マジックミラーの部屋から出てこれなくなった人がいたとか、変な噂がたって、今はもう閉園してしまっているけれども。
私は、念のためもう一つ質問を重ねることにした。
「その時に、母さんが最初に乗ろうとしたアトラクションは何だったけ?」
「……もちろん覚えているわよ。母さんの好きだったジェットコースターよ」
「……そうだね。母さんは、あの遊園地に行くたびに乗っていたよね。
…でもね、あの時は、あの日は、たまたま故障していたはずなんだ。
だから、初めて行ったときは、母さんは当然ジェットコースターになんか乗っていないよ。母さんがすごくがっかりしていたことを今でもよく覚えている」
「…そうだったかしら。すっかり昔のことで忘れてしまったわ」
「母さん、母さんが死ぬ直前にたくさん思い出話をしたよね。その時にこの話も出てたよ。
だからはっきりと覚えていないとおかしな話なんだ。
お前は、だれだ」
「……………………チッ」
舌打ちを一つして人影は離れていった。
冷汗がどっと出た。気が張っていたのだろう。本当に魑魅魍魎は存在して、母の声をつかって私を駅の外に出させようとしたのだ。
どうやって母の声が使えたか、どうして母のアトラクションの好みを知っていたか、原理はわからないが、仮設は立てることができる。
今の情報から推察できること、それは、魑魅魍魎は、声も真似できるし、大まかな好みや記憶は何らかの形で会得できるということ。
一方で細かい情報、例えば過去の1日に起きた出来事などは、とっさに出てこないのではないだろうかということ。
なんせ、ここにいる存在は『価値や倫理観が全く違う』
だから、思い出を大事にするという感覚が理解できていないのも無理はない。
つまり、今後母の声が聞こえた時は、特定の思い出深い1日を切り出して、その時の行動や心理を聞いてみればいい。
それに正確に答えられたとしたら、それは本物の母である可能性が高いといえる。
その後、何度も母さんを名乗る声が聞こえてきたが、
正確な回答を出してくるものはいなかった。
◇
もうすぐあの女が言っていた4時半になる。少しずつ終わりが見えてきた。
…そんな時だった。また、母を名乗る声が聞こえていた。
「かずちゃん…聞こえる?かずちゃん。お母さんだよ」
「またか、いい加減にしてくれ!!!
もうすぐ4時半になって、始発電車が来るって言うのに!!この魍魎め」
「…悲しいけど、そう思うわよね。お話しするのは久ぶりだしね。
でも、私は本物のお母さんよ。どうか信じて」
「そう言って来たやつは、全部魑魅魍魎だった!お前の何を信じろというんだ!!
そこまで言うなら証拠を出せ証拠を!!」
「証拠…そうだ、かずちゃんが小学校に行った塾覚えてる?
あの塾でかずちゃん成績が今一つ伸びずにこっそり泣いていたじゃない。
私は何とかしたくて、かずちゃんをもっと見てあげるようにって、塾の先生に直談判に言ったことがあったのよ。かずちゃんは知らないだろうけど」
「えっ…」
ふと、小学校のころ通っていた塾で、ある日を境に、急に先生が私にマンツーマン指導をしてきたことを思い出した。
当時は、何か私の中に可能性を見つけてくれたのだろうか、と嬉しさと周りへの優越感があったが、そんな背景があったなんて。母ならやりかねない。そう思うとあの時の先生の微妙な顔も理解できる。
正直、私の人生をまた操っていたのかよ、と苛立ちは覚える。だが、この声は、私の知らないことを知っているし、そこに整合性もある。なんでそういうことをしたか、背景の思いを含めてしっかりと語れている。
つまり、この母は、本当に母なのかもしれない。
そう考えていると、私の背後から、ギギギギギ、というシャッターの開く音が聞こえてきた。
そうか、始発電車が間もなく来るんだ。
「わかった。もしかしたらお前は本当に私の母さんなのかもしれない。そうだとしたら、色々と話したいこともあるけど…でも、あいにく時間もないんだ。もうすぐ始発電車が来てしまうんだ。もうここには正直居たくないんだよ!」
「そうよね。それも無理ないことだと思うわ。だから、母さんもあなたに伝えたいことを端的にいうね。
かずちゃん、今言っていた始発電車、絶対に乗ってはだめよ。
ここよりもっとひどいところに連れていかれるわ」
◇
この時間になって、なんでこんなことを言うんだ!あの女が帰れるって言ってたのに…
いや、帰れる?
そう考えて、自分の思考の穴に気が付いて、思わず無意識に声をあげてしまう。
私は『あの女が魑魅魍魎で、この世界は現実である』パターン、『あの女は魑魅魍魎じゃなくて、この世界は死後の世界である』パターンは考えていた。
しかし、『女が本当のことを言っている』か『嘘を言っている』か、根本に立ち返った思考ができていなかった。
また、選択肢ばかり考えて、そもそもを考えない私の悪癖が出てしまったようだ。大事なのは、どういう行動をとれば無事帰れるか、であって、ここがどこで、女がだれかなんてはっきり言ってどうでもよかったのだ。
そんな私の様子を見ているのだろうか、少し間を開けた後、母を名乗る声は話を続ける。
「かずちゃん、よく聞いて。階段から降りるだけでいいの。だってこの世界には階段を上ったから来てしまったのでしょう。だから、階段から降りるだけで十分なの」
「確かに…でもそうやって考えると、電車は本物なんじゃない?」
「最初に来る電車だけは、また別の世界、もっとひどい世界に連れていかれる電車なの。始発電車なんてうそっぱち。次に来る電車が本当の始発電車だわ」
…どう判断すればいいか難しい。
階段の部分は確かに納得できる。けれどもそのあとの電車云々は、明らかに後付けな気がする。階段、電車、そんなに違う世界に連れていかれてしまう手段がたくさんあってたまるか、と思う。
ただ、そうは言ってももうすぐ電車が来てしまう。
焦りや、ここにきて真逆のことを言われ、私の混乱はピークを迎えていた。
「…わからないよ。母さん。私にはもうわからない。何が本当で何が嘘なのか。私はどうすればいいのか…でも、このままだと始発電車に乗るか乗らないかの判断もできなくなってしまう。だから、とりあえずホームには今から行くよ…」
「かずちゃん…ううん、そうだよね。母さんがあなたにしていたことを考えると、母さんの言っていること自体を信じられなくなる気持ちもよくわかるわ。かずちゃんにはそれだけのことをしてきてしまったんだろうって、やっと理解できたもの。ごめんね。かずちゃん。あなたをそんなに苦しめていたんだよね」
「…」
「でも、最後でいい。母さんの言うことを信じてほしいの」
「…仮にあなたが本当の母さんだとしたら、言いたいこともたくさんある。でも、その言葉だけは信じたいよ」
「…ありがとう。私にはこれ以上できることは何もないわ。これから、あなた自身で自分の道を、最善の選択しなさい。自分の意志で。もうこれ以上後悔しないように。私は正しい道が選べると信じているわ」
その会話を最後に、すっと人影は雨の中に消えた。
◇
結局、私はどうすればいいのだろうか。無人の駅を抜け、階段を降り、ホームにたたずんでみたものの、まだ答えは出ない。
情報量は多かった。しかし結局、どれが正しいのかの判断はつかなかった。
あの女の言ってることが嘘で、最後の母さんらしきものが言っていることが本当なのかもしれないし、逆もあるかもしれない。
ホームから周りの景色を見回しても、現実世界なのかそうじゃないのか、全くわからない。
こんな中、私は自分で自分の道を選ばなければいけないのだろうか。
選択をする行為、それは私にとっては鬼門だ。今まで避けてきたのに、ここで生き死にに関わる大きな選択をすることになってしまうなんて…こんなことなら、もっとたくさん選んでくればよかった。これは何かの罰なんだろうか。逃げ続けた自分への。
突然、電車の到着を伝えるアナウンスがホームに流れる。それとともに、向こうから電車の明かりが見えてきた。
どうやら始発電車、もしくは別の世界に連れていかれてしまう電車が来てしまったようだ。スマホを出してみると、確かに4時半ピッタリになっている。
目の前を通過する車体を見てみても、いつも乗っている路線にありふれた系統にしか見えない。例えば赤い血が付いていたりとか、わかりやすいものは何もない。運転手がいたかどうかは、明かりに遮られて見えなかった。
キーという耳障りな音を立てて電車は止まり、ドアが自動で開く。見える範囲では、誰も乗っていないが、明かりはきちんとついており、違和感はない。
そうこうしているうちに、乗車を促すメロディーが流れ始め、乗るか乗らないか、今すぐ決めなければならない。
でもどうすればいいんだ…選択をしたくない…いったいどうすれば!!
極限状態に追い込まれていたからだろうか、それとも脳が生存本能を全開にしていたからだろうか。その瞬間、すごくクリアな思考が下りてきた。
それに伴い、とっさに、今までの情報の中での、大きな『矛盾』に気が付いた。
おかしい。今までの話を考えると、どう考えてもあの部分だけ話が一致しない。
つまり、そこに嘘の部分がある。必然的に、本当がどれかも理解できた。
咄嗟にそれに気が付たから、私は選択をすることができた。できたのだ。
だから、この選択が間違っていても、後悔はない。
◇
「で、目が覚めるとここにいたというわけですか」
目の前で白衣を着た医者が尋ねてくる。その表情を見て、私は今まで語っていたことが全く信じられていないことを理解した。決して嘘はついていないのに。
「確かに、この業界で仕事をしていると、そういう不思議な話に出くわすことも一度や二度ではないです。ただ、あなたのように鮮明な内容の話は初めて聞きました。客観的にみると、あなたは電車の中で急性アルコール中毒で倒れて、そのまま意識不明の重体。2日ほど昏睡して、ようやく目が覚めたというわけです。だから、夢や妄想の類であろうとは思いますが」
「そう思われますよね…」
「それと、いくらお客さんから勧められたとはいえ、そのせいで命の危機にさらされては、元も子もありません。もっと自重しないと」
そう言われて、私は何とも言えずベッドで横になったまま曖昧に笑う。
「ただ、今のお話を聞いていると、最終的にあなたは選択ができたということですね。未来があいまいな中、自分の意志できちんと自分の道を勝ち取った。例えそれが夢だろうと、その行為をとれたこと自体が素晴らしいことじゃないですか」
「ありがとうございます。そう言って頂けると嬉しいです」
「…それで、一つ個人的に聞いてみたいことがあります。お話としては面白かったですしね。つまり…あなたは結局始発電車に乗ったんですか、乗らなかったんですか?直前で気が付いた矛盾って何だったんですか?」
たとえ妄想だと思っていても、このお医者さんはオチが気になるらしい。
私は少し得意げに答える。
「まず、あの瞬間、最初にホームから見た、赤い傘を差した女の姿を思い出したんですよ。雨でよくは見えなかったのですが、赤い傘をさしていることだけは見えていました。それで、東口階段を下りたところにいたあの女が赤い傘をさしているのを見て、『あ、これは同一人物だ』って思ったんです」
「そうみたいですね」
「ただ、そこに矛盾が生じるんです。女の話したこと、それは『上ってはいけない階段を上ったため、私は死後の世界に来てしまった』でした。そして『それを見たからこうして待っていた』とも言っていました。そのロジックを逆にいうと、『ホームにいた時は、まだ現実世界だった』と言えますよね」
「ふむふむ。その通りですね」
「そう考えると、あの時ホームから見た赤い傘の女は、あの女なわけがないんです。なぜなら、私はまだ現実世界にいたわけですから、あの女が見えるわけがないですし、あの女も私を『見て』待っていたなんてことはありえないんです」
「…なるほど。その女が言っていたのは、あなたは階段を上って死後の世界に来た、ということで、それはつまり、階段を上る前は現実世界にいたといえる、ということですね。だから、上る前に見えた景色は、現実世界の景色であって、その時点で死後の世界が見えているのはおかしいと」
「その通りです。そう考えたら、あの女の言っているそもそもの前提が崩れて、『ああ、あの女は嘘をついていたんだな』って確信できたんです」
「なるほど。つまりは始発電車には、乗らなかったんですね」
「はい。乗りませんでした。そして、次の電車に乗った瞬間、目の前が真っ白になり、気が付くとこの病室で横になっていました。今思うと、最後に私の元を訪れた声は、本物の母だったんでしょうね。もっと文句を言ってやればよかった」
ははは、と乾いた声で私は笑う。
母にはきちんと「ありがとう、さよなら」と伝えたかった。
「それはそれは…。ただ、『現実世界からは死後の世界が見通せない』という前提が間違っていたら、とは思わなかったんですか?」
「その場合は、潔く別の世界に連れていかれようと思っていました」
「…」
「先生、私今回のことでよくわかったんです。選択肢を選ぶって決して複雑ではないって。判断を先送りするなんて逃げることをせずに、情報収集をきちんとして、あるべき道を考える。そして必要なのは、結果の責任を取る、それだけでよかったんですね。今までいろいろと難しく考えすぎていたようです」
「そうですか…おっと、こんな時間だ。ついつい話こみ過ぎましたね。それでは、私は次の回診があるので、これで失礼しますね」
病室から出ていく医者の後ろ姿を見ながら、私は今までの人生と違う何かを手に入れられた、と漠然とした満足感を抱いていた。
これからの人生、きっと今回の奇々怪々な経験を活かして、自分なりの人生を歩めるようになるのだろう。
まずは、棚上げしていた婚活でも初めてみようか。
◇
あれから2年がたった。私はその後結婚し、今では子供もいる。
育児の過程で、母がなぜあれだけ子供に選択肢を持たせようと考えていたのか、同じ親という立場に立って初めて理解できたことも多い。
あの日のことは、ぼんやりと覚えているし、もう一度母に会いたくて、わざと同じ時間帯の電車に乗って、見えないはずの階段を探したことも何度かあるが、一度も、あの世界に行けたためしはない。
結局、あの赤い傘を差した女が誰かもわからないままだ。
一つ言えるのは、死後の世界はあって、母はそこにいるということだ。(私の経験があの時医者が言ったみたいに、妄想の類ではなかったとしたら、だが)
だから、私が死んだ後に、しっかりと自分自身の選択と、その後の人生を伝えるべく、今はただ頑張っていこうと考えている。
あと、もう一つ言えることがある。
電車から降りる際、目の前に階段があっても、何も考えずに上ってはいけないということだ。
どんなに酔っていても、スマホをいじっていて前を見ていなくても、階段を上るときは、本当にそこが現実世界の階段なのか、きちんと確認するべきだ。
現実かどうかわからない場合は、手すりにつかまってみるといい。すごくヒンヤリしているから。
そうしないと、あなたも無人の駅に連れてかれるかもしれない。
お読みいただき、ありがとうございました!
駅のホームから階段を上る際は、くれぐれもお気をつけくださいね!!!