昔、男ありけり
目の前で、彼女が死んだ。
闇の中で蠢いている巨大な物の怪は、彼女の上半身を噛みちぎり、ぐちゃりという嫌な音と噎せ返るような鉄の匂いと共に嗤っている。頭が白く染まっていくのを感じた。目の前で起きていることはおよそ現実では有り得ない虚構であるはずなのに、刺すような冬の寒さと浅い呼吸音、そして化け物の喉の奥に消えていった彼女の悲鳴がやけに耳に残っている。
「……あ……」
何かを、言おうとした。しかしそれは掠れて声にならなかった。震えて思うように動かない足を必死に動かし、一歩踏み出そうとする。恐怖のせいでぼやける視界の向こう側で、ゆらりとそれは動いた。まるでこちらなど眼中にないとばかりに背を向けた物の怪は、低い唸りを上げながら離れていく。その声はまるでこちらを嘲笑っているように聞こえた。一瞬だけ見えた化け物の瞳は爛々と赤く光っていて、自分の知っている生き物ではないその凶悪な色に背筋が凍る。肉の塊を踏み潰す不快な音が段々と遠ざかった。訪れる沈黙。聞こえるものといえば虫の鳴き声、風の音、そして遠くから近づいてくる数人の男達の話し声のみ。
ふと、そこで視線を足元に移した。人が立ち寄らないせいで伸び放題の草がきらきらと輝いてる。よく見れば、露で濡れたそれが僅かな月明かりで反射しているだけであった。ごく普通の人間であれば、そんなことは常識で言うまでもないことだったかもしれない。しかし彼女は、特別、だった。あれは真珠なの? と無垢な声音で問いかけてきた彼女の温もりも感触も、全て手に残っている。のろのろと顔を上げれば、そこには変わり果てた彼女の残骸が散らばっていた。暗闇のせいで見えにくいが、鈍い色をした血がどろりと流れていて、見るも無惨な彼女の死体には早くも虫が群がり始めていた。痛いほどに心臓が脈をうつ。夢ならば早く醒めてくれ、と拳を強く握り締めるが、掌に走る鈍痛がこれは現実であると知らしめる。話し声がもうすぐそこまで迫っていた。しかしあれほど逃れたいと思っていたにも関わらず、今は震えて立ち竦むことしか出来ない。もう、共に逃避行をしていた彼女は居ないのだ。その先に苦悩があるとは覚悟していたが、目的を失ってしまった今逃げる方向も分からない。
「……《白玉か何ぞと、人の問ひし時》」
未だに掠れて引っかかりながらも、小さく、自分にしか聞こえないほどの声量で彼は詠い始めた。結局それしか出来ないのだ。逃げている時も、彼女が目の前で喰われた時も、自分には歌を詠むことしか出来ない。そうして発動させた歌詠によって、周囲に季節外れの蛍のような白い光が漂い始める。
「《露と答へて消えなましものを》」
きらりきらりと空に揺れる光に気付いたのか、慌ただしい足音が近づいてきた。しかし、この後自分がどうなるかなどどうでもいい問題のように思えた。闇夜を照らす月を見上げ、彼は──在原業平は、頬に流れる涙を光らせる。そのまま、自らを追ってきた男達に腕を捕まれ拘束されるまで、彼は黙ったまま立ち竦んでいた。
その心余りてことば足らず。しぼめる花の色なくて、にほひ残れるが如し。彼のことをそう評したのは一体誰だったか。
在原業平はその日から探し始めた。この世界の根源であり全ての力をもたらす、絶大な存在である《本意》を。そうして彼は決意した。必ず彼女を黄泉の国から救ってみせると。それが例え……この世の禁忌を犯す行為であるとしても。