6.5羽
ここは【桜花城】二の丸の執務室。全体的に昔ながらの日本建築の様そうであるとはいえ、東郷美智子や部下が業務を行う部屋だけは洋風で使う者の背丈に合わせた機能的な造りになっている。
東郷美智子はこの街の責任者であると言っても良い。その権利と義務に比例して、仕事量も多くなるのだが、その処理速度は【アーラ・スペランツァ】で手に入れた能力により、異常とも言える速度と精度を誇っている。
山のように積まれた書類に目を通しながら、このまま通して良いものには了承の意を示す印鑑を、不備があるものには該当箇所に赤ペンで指摘していく。
単調ともいえる作業ではあるが、その一つ一つが街の運営に影響を及ぼすのだから、気苦労が絶えない。
事務仕事に精をだし、宰相という役職に就く彼女。しかし、根っからの文官かと言われれば違う。元々は冒険者であり、その時最上位のランクの特位S級であった。ゆえに彼女が残した数々の偉業は本となり、今もなお人々の間で語り継がれている。
彼女の偉業の中で最も有名なのが、大量発生した地竜を撃退し、その内の何頭かを騎竜にしてみせたことだろう。激戦の果てに血を流し、命を削り合った相手に跨って帰還した彼女の姿は人々の心に焼き付いた。しかし、【桜花】の宰相となったのは、その戦闘能力の高さからではなく、その人柄と人望ゆえだ。また、あまりメジャーな話ではないが、重犯罪者を改心させ仲間に引き入れたことこそが彼女の器を示す事となったと学者の間では通説である。
そして、そんな彼女を一言で評するのならば、笑顔。これに尽きる。彼女自身もそうだが、周りにも笑顔が絶えない。それは彼女の人柄が大部分を占める。だが、それだけでなく彼女がこの世界に願ったことも関係している。
彼女は『笑顔あふれる世界』を願った。
曖昧で、不確かなものであるが、それは街の運営にも良い影響を与えている。最も願いの力に頼らずとも、今の彼女の人柄をもってすれば、笑顔であふれる世界を創るのは難しくないだろう。
だが、今の彼女の表情は沈み、浮かないものとなっていた。これには部屋を訪れる者全員が彼女の体調を心配した。その度に「何でもないのよ」、と笑ってごまかしたが、それは見た者を笑顔にするような、本当に楽しそうな笑みではなく、誰かを案じるような物憂げな表情を必死に隠していた。
一時間前のことだ。休憩や新たにやってきた旅人のために、おやつの時間を設けている。そこへ数日前にあった少年、神木隼人がやってきた。
純朴そうな少年で、手と足の太さの違いが気になったが、ごくごく一般的な日本人の少年。彼女のとしては、隼人の垂れ目と腰の低さがお気に入りである。
彼に対しての説明は問題なくすすめられた。だが、ある話題に差し掛かったところで、彼の様子が急変した。
『元の世界に帰れる可能性が低い』、その事実を告げたところ突然倒れてしまった。
おそらく元の世界での生活も彼にとって楽しくかけがえないものだったのだろう。それは願いが叶うことよりも重要だったのだ。
この【アーラ・スぺランツァ】には大きく分けて二種類の人間がいる。
一つは、この世界で願いをかなえるべく、自ら望んできた者。
もう一つは、元の世界から逃げるようにこの世界へときた者。
彼女自身は逃げるようにしてここへ来たのだ。
それを周囲の者に漏らした時は、なかなか信じてもらえなかった。そして、来た理由を聞かれると決まって、「ひ・み・つ。乙女に秘め事はつきものなのよ」、と言って答えなかった。
これまで彼女が出会った者全てがどちらかに分けることが出来たのだが、彼は違うらしい。
戸惑うことはしても、願いが叶うならばと受け入れ納得し、喜ぶ者が殆どだというのに。
「彼は違うのよね。あっちに大切な人がたくさんいるのね。
それは羨ましいとは思うけど、帰れないことを考えると辛いわね」
独白に仕事を補佐する幽鬼のような男が答えた。
「しかし、ここへ来ることも彼が望んだこと。美智子様が必要以上にお気になさることではないかと」
男の赤い瞳がただひたすらに彼女だけを見ていた。彼女は男の他人を思いやる心が彼女にしか向けられないことを知っていた。言うなれば、東郷美智子至上主義。それを嬉しくもあり、同時に寂しくもある。そうなってしまった経緯を知っていたために男に強く言えなかった。
「そんなこと言わないの。それに彼はまだ子供よ? アタシたち大人がちゃんとしなきゃいけないでしょ」
その言葉は自分に対しても向けられていた。
「そうよね、ちゃんと保護してあげなきゃよね。
でも、アタシの立場上彼一人に肩入れすることはできない。となると……」
唇をぺろりと一舐めすると、頭の中で協力してくれそうな人物を思い描いた。
(彼は忙しいでしょうし、あの彼も立場が、彼女は結婚して子供産んだばかり……羨ましいわね……じゃなくて、今の彼女に無理はかけられないわね。あの彼女は婿探しに旅に出てるし、どうしようかしら?)
彼女の幅広い人脈をもってしてもすぐには見つからなかった。というのも彼女の友人たちも事情を抱えていたり、名のある役職についていたりしていて、一個人に肩入れすることは出来ないのだ。その役職故に一定の補助や優遇などは頼めばしてくれるだろう。しかし、それでは今の彼を支えきれないだろうと考えていた。寧ろ、それで満足して最悪のケースを引き起こしかねない。
考える。考えながらも手は止めない。処理すべき事案は山のように残されている。
「そのように思考を止めず、並列して業務をこなせる。日々尊敬の念が絶えませんよ」
男の賞賛に笑って応える。しかし、考えても考えても思考の坩堝に飲み込まれていく。
時折休憩をはさみながら、隼人のことを考えている時だった。一枚の要望書が目に留まった。
この要望書は期間を設けずに提出され続けているもので、定期的に彼女の審査に回される。
彼女はこの要望書を握りしめて、立ち上がった。
「これよ! レヴィ、すぐに彼らを呼んで!」
「かしこまりました」
男はそう言うとその場から消え去った。
「さてと、彼らが来るまでにもう一仕事しなきゃね」
そう口ずさむ彼女の顔には笑顔が戻ってきていた。
――コンコン。
ドアが二度ノックされる。あれから30分もかかっていないが、幽鬼のような男は目的の人物を探し出し、連れてくることに成功したようだ。恐るべき早業である。
「お客様をお連れいたしました」
「ありがとう、どうぞ入ってもらって」
男が連れてきたのは二人。
一人は非常に毛深い男。というよりもゴリラのような出で立ちで、二本足で歩く【狒々族】の男である。森では身を潜められそうな迷彩服を着ているが、ここでは狒々族の特徴として表れていた。そして、その青い瞳には深い知性を覗かせている。
もう一人は、二足歩行型のロボットだ。角ばったデザインではあるが、滑らかに動き、そして、言葉も発することができることから、あえてこのような姿をしていることが分かる。また、このロボットもこの街では人として扱われ、元の世界でも【高知能機人】として人類を補佐する新たな人類として創られた。勿論、人類というからには性別や感情も備わっており、外見からは分からないが、女である。
人種・性別、元の世界でさえも異なる彼らはある目的のために共に行動し、下位A級と呼ばれるこの世界でも最高峰の実力を誇るパーティーである。
彼らが出している要望書は、パーティーの共同の目的であり、特に高知能機人の彼女の願いに深く関わっている。
「ここまでわざわざ来てもらちゃって悪いわね。
呼んだのは貴方たちに頼みたいことがあるからなの」
彼らと美智子は初対面ではなかった。以前、共闘したこともあった。故に話し方も形式ばったものではなかった。お互いにリラックスして話を始めた。
狒々族の男は厄介ごとのにおいに即座に反応しかけるが、幽鬼のような男が差し出した紅茶に機先を制された。
「貴方の予想は正しいわ。面倒をかけるわ。けど、貴方たちにも益のあることよ。
特に貴方にはね」
高知能機人の彼女に微笑んだ。
彼女の目が音もなく動き、美智子を捉える。表情から感情を窺うことはできないが、話を聞く姿勢からどのくらい興味を持っているかが分かった。
「興味を持ってくれて嬉しいわ。
そうね、どこから話そうかしら。と言っても、アタシも話せることはあまりないのだけれどね。
貴方たちも知ってるかもしれないけど、先日新たな旅人が来たわ。そこで貴方たちには彼が独り立ちするまで面倒を見て欲しいのよ。
こちらも出来る限りの補助をするわ。貴方たちが要望書に記載した依頼料も受け取らないわ。
アタシの願いを受けてくれないかしら?」
二つ返事で答えようとする機人を抑えて、狒々族が訊ねた。要望を叶えるどころか、それに対する金も受け取らず、補助もするという旨い話の裏を探ろうとしたのだ。
美智子は事情を素直に話した。こちらとしても隠すつもりはないのだ。
そして、一つずつ語った。
隼人がまだ子供であり、こちらでの常識、戦闘力を持たないこと。そして、元の世界への帰還を強く願っており、それ故に精神状態が不安定であることが予想されること。
この話を聞いて、機人は俄然乗り気に、狒々族もやれやれと肩をすくめている。そして、そっぽを向いて、美智子の願いならば、元から断るつもりはなかった、と漏らした。
そのようなうれしい言葉を聞いて笑みがこぼれた。
「ありがとう。本当に助かるわ。
さっきも言ったけど、貴方たちにしてほしいことは、彼に知識と戦い方を教えること、あとはこの世界と彼の架け橋、繋がりになることよ。
難しいことだとは思うけど、頼むわ。彼を守ってあげてね」
厚い胸を叩く狒々族に頼もしさを、さらに詳しい情報を引き出そうと隼人の情報を集める機人に安心感を感じた。
狒々族の大雑把な方針に茶々を入れる機人とのやり取りに目を細めながら、肩の荷が軽くなった美智子はお菓子を摘まんだ。