5羽
いつもの様に、携帯のアラームで目を覚ます。太陽光で充電ができる携帯ではあったが、もしそうでなくとも電池が切れる事はなかっただろう。ファンタジー世界と言えど、あちらの世界と同等以上のライフラインが通っているのだ。
携帯を手に体を起こした隼人の髪はいつにも増して、飛び跳ねていた。布団にくるまって寝てしまったことがそうさせたのだ。
寝起きの状態に相応しくその動きは鈍く、眼も半開き。目覚ましに洗面台の前まで歩いた。
水を顔にかけ、鏡を見るとまるで別人のような少年が映っていた。
顔は暗く、隈も濃い。少し膨れた目蓋が昨夜泣いていたことを如実に示す。そんな陰鬱な顔を見れば、ついついため息をついてしまうもの。
「はぁ」
隼人は数日前まで歩けるようになって、喜び燥いでいた自分を殴り飛ばしたかった。
「帰れないなら、こんな足要らないよ……」
その一言が今の状況を的確に表す。
この街、【桜花】の宰相である東郷美智子より告げられた、元の世界には帰ることは出来ないだろうという言葉。その言葉は、両親が大好きな隼人の心を抉っていた。
両手、両足が震えている。まるで、地に足が着いていないかのような浮遊感の中に囚われていた。
夢であれば、と何度思ったことだろう。
黒髪からぽたりぽたりと雫が滴り落ちた。
それに隠れるように涙が後を追う。
枯れるほど流した涙に何の感慨もわかない。
あるのは純然たる事実。現実だけが目の前に広がっている。
それでも人間の身体とはよく出来ている。
――グーキュルル。
隼人の腹が激しく主張している。それにより、自分が昨晩から何も食べていないことに気づいた。
「ご飯食べよう。そうだな――」
隼人は母親が作ってくれた手料理の数々を思い出していた。
この年頃の少年の例に洩れず隼人の好みは肉料理だ。中でも母親が作る骨付きの唐揚げがお気に入りだった。醤油に生姜、みりんを加えた何の変哲もない味付け。だが、それこそが隼人にとって家庭の味であり、最上のものであった。
「また、食べたいな」
唐揚げだけではなく、たまに父親が酒の肴に作るスクランブルエッグも恋しい。
卵に塩、マヨネーズを入れて炒っただけの簡単なものだが、たまに見せる料理姿と酔っぱらった調子で気前よく自分の分の肴を分けてくれる父親が好きだった。
「また、会える……かな。また、会いたいよ。父さん、母さん」
何度目かの嗚咽交じりの涙を流すこと数分、隼人は食事をすべく食堂へと降りてきていた。
覚束ない足取りで無意識のうちに選んだのは唐揚げに、スクランブルエッグ。空腹感が無くなるまで腹に詰め込むと、食堂を後にすべく立ち上がった。
「神木様、少々よろしいですか?」
一人の従業員が隼人を呼び止めた。未だ自分の世界の中にいる隼人はそれに気づかない。
その様子を見て見過ごすほど、この従業員は薄情ではなかった。
「失礼いたします」、と断りを入れると隼人の前を塞ぐように立った。
それでも尚、気付かない。ぶつかって、両手で抱きとめられてから従業員の存在に隼人は気づいた。
隼人が床に落とした視線を上げると、柔らかな微笑みを湛えた女性の顔があった。
その従業員の女性は抱きしめたまま口を開いた。
それはゆっくりと丁寧に、可能な限り柔らかい調子で、荒んだ隼人の心に潤いを与えた。
「私に何があったか、お話しいただけませんか?」
その優しい言葉に、そして、女性に涙を見せたくなくて、口を噤んだ。
しかし、
「私はあなたの味方です。大丈夫、怖がる必要なんてないのよ?」
堪えられなかった。人目を憚らず声を上げた。
隼人が滞在している【桜花亭】の従業員である村上智美に今までの生い立ち、そして、現状に対する素直な気持ちを涙ながらに吐き出したところで、ようやく隼人の思考が正常に働き始めた。
【桜花亭】はこの街の一番の旅館であるために、新たな【旅人】が現れると最初の仮住まいの宿として利用されることが多い。また、この東区に現れる【旅人】の半数が日本人であるため、それに対応して従業員も即した者が多く従事している。
その中で働く彼女、村上智美は礼節、それにお客をもてなす心構え、さらには見ただけで人を癒せるような優れた容姿を持ち合わせていた。
その容姿を一言で言い表すとしたら、大和撫子。長くつやのある黒髪を桜の花弁の形をした簪で結い、あでやかな紅が口元に引かれ、視線を引き付ける。目は大きいが、人に圧をかけるものではなく、緩やかに目じりが垂れ下がり、笑みとともに細められたそれが人を魅了する。そして、極めつけはその体つきに他ならない。細くくびれた腰回りに、ここに二つの山があると言わんばかりの自己主張の激しい胸。
あそこに今まで引き寄せられ、抱きしめられていたのだと思うと、正常な思考回路に戻りつつある隼人の顔は真っ赤に染まった。
そんな隼人の反応に疑問を持たずに追い打ちをかけるかのように頭を撫でた。
その容姿だけでなく、長女として身に付けた母性も兼ね備え、落ち込む隼人の姿が彼女をそのように動かした。
隼人は頭の上に乗せられた柔らかな掌に思わず慌てふためいてしまう。
咄嗟に距離を取ると、手を伸ばしたまま固まる彼女の姿が目に入った。それは思春期の弟に拒絶された姉の様だ。隼人は自分で離れておいて、罪悪感を感じずにはいられなかった。
「ええと、その、ありがとうございました」
赤くなった顔を隠すように深々と頭を下げた。
「もう、大丈夫です。あの、一度口にしたらだいぶ落ち着きましたので」
「そう、良かったわ……他に力になれることはないかしら?」
そう話す、彼女の声は涙で湿り、鼻を啜っていた。
これには隼人も驚いて、顔を上げた。
驚くことに泣いていたのは彼女だけではなかった。
彼女に乞われるがままに自分の生い立ちを話してしまったが、今は食事時で込み合う食堂内で話し合ってしまった。涙を流して話す少年と眉目秀麗な従業員が周りの視線を集めないはずもなく。結果として、多くの者が隼人の話に耳を傾けた。
そして、泣いた。同情、もちろんそれもあるだろう。彼らもまた隼人の話を聞いて故郷の事を思い出し、涙を流したのだった。
種族、性別の異なる彼らもまた故郷があった。そこでの思い出はあまり良いものではなく、そして、こちらでの生活が幸福に満ち溢れているからこそ、その思い出が日常では浮かび上がりはしなかったが、隼人の話を聞いて改めて思い出すと、苦しくて、辛くて、帰りたいとは思わなくとも、それでも恋しくなった。
ゆえに涙を流し、自分たちよりも元の世界の故郷を愛し、両親を愛する隼人に対して、今自分が出来るだけの施しを与えた。
それは金であり、物であり、こちらでの生活に不可欠なものであり、そして、目には見えない繋がりでもあった。
「あ、ええと、ありがとうございました。でも、こんなにもらっていいんですか?」
戸惑いがちに口を開くと、揃って「遠慮するな」、と答えた。
それに悲しみとは違う涙が零れそうになるが、辛うじてこらえ、震える声でまた、「ありがとうございます」、と礼を述べた。
いくらか言葉を交わし、一人、また一人と隼人と彼女を残して去って行く。
ようやく、二人になったところで彼女は手近な椅子を引き、座るように促した。
座り、喉を潤すための紅茶を互いに一口すすったところで、隼人が口を開いた。
「驚きました」
「そうですね、皆さんお優しい方々ばかりでした。あ、あと私に敬語は不要ですよ?」
その後に、冗談交じりに「お姉さんと呼んでもらっても構いませんよ?」と口に出した。
それを笑って流すと、三度頭を下げる。
彼女のおかげで心が軽くなり、今まで見えなくなかったものが見えてきたのも確かだ。
そして、隼人の考え方もまた前を向いたものへと変わり始めていた。
「これから僕は東郷さんの所に行って、もう一度話を聞いてきます」
隼人の表情は活き活きとしており、憑き物が落ちたように晴れやかだ。
「そっか、応援してる。きっとあなたなら大丈夫。もし、一人で大変だったらさっきみたいに力を貸すし、周りの人も助けてくれる。絶対に独りなんかにはさせないわ。
あと、本当にお姉さんと思って接してくれていいのよ?」
「ははは、姉さん、ありがとう。じゃあ、着替えてきます」
紅茶を一気に飲み干すと、照れを隠すように走り去った。
【桜花亭】の従業員、村上智美に打ち明けた後、多少吹っ切れた隼人は軽い足取りで東郷の元へと向かっていた。
以前と同じく、城門の前には美丈夫が立っていた。その美丈夫は隼人が来たのを遠くから見えていたようで、視認できるほどの距離まで近づくとその大きな体を折り曲げて一礼した。
城門の前までたどり着くと、美丈夫がにこやかに話しかけてきた。
「ようこそ、神木様。
お待ちしておりました。お身体の方はもうよろしいので?」
このような人にまで気をかけてもらっていたのだと、頭が下がる思いであり、実際に下げた。
「はい、まだまだですけど、少しだけ吹っ切れました。
だから、今日はあの時の続きを聞こうと思って東郷さんに会いに来ました」
大柄な美丈夫がその顔に白い歯を見せて満面の笑みを浮かべると、それは太陽が輝いたかのようにまぶしく、絵になった。
「このイワン、それを聞いて安心しました。神木様、いつ何時でもあきらめてはなりません。その歩みを止めず、考え悩み続ければきっと道は開けるでしょう。そのために必要であれば、遠慮なく周りの先達に助けを求めるのです。
先程も申しましたが、イワンと申します。以後お見知りおきを」
そう言って差し出された右手を握ると、鍛え抜かれた身体に相応しく、その掌もゴツゴツとしていた。
「はい、ありがとうございます。
僕は神木隼人です。よろしくお願いします」
手が離れると、イワンは身体をずらして、道を譲る。
「それでは、中で東郷様がお待ちです。
神木様に幸があらんことを。
今度は公務外でお会いしたいですね」
「そうですね。僕も色々と教わりたいです。
それでは」
互いに礼をすると門をくぐった。
やはり、以前と同じくそこには案内の者が立っていた。
案内に従って執務室へと入ると、東郷が両手を広げ、笑みを浮かべて待ち構えていた。
そして、何を思ったか大粒の涙を両目に溜めて、隼人に抱きついた。
「ごめんなさいぃぃっ!
アタシ、アタシ、貴方を傷つけてしまったわ」
大声を上げて泣く、彼女の姿はなかなかの圧迫感を持っていたが、それ以上にあれ程ににこやかに話していた人でもこんなに悲しみを露わにして泣くのだと驚いた。しかし、喜怒哀楽がはっきりしているからこそ、気の良い笑顔を浮かべられるのだろうと納得する。
そして、自分が口にしようとしていた言葉を先に言われ、泣いている姿を目にしたことで、それまでの緊張や不安などが抑えられ、彼女にかける言葉を淀むことなく口から出せた。
「いえ、僕のほうこそ東郷さんに心配をかけてしまいました。
まだ踏ん切りは着いてないんですけど、この世界で生きていけるように知りたいんです。だから、昨日の続き教えてくれませんか?
それに、ちょっと苦しいです」
それもそのはず、2mを超す巨体に胸の前まで持ち上げられ、太くたくましい両腕に包まれているのだ、苦しくないはずがなかった。
隼人からの言葉と指摘にハッとなって、瞳を見つめるとそこには確かな意志が見られた。
顔色はまだ青白く、万全な体調ではないのだろう。だが、それでも今の隼人は前を向いていた。
隼人をゆっくりと地面に下ろすと、シワの付いた部分を伸ばしながら、鼻をすすった。
「ありがとう。ありがとね、隼人君。
それに今の貴方を見て安心したわ。きっと大丈夫よ。アタシも陰ながらになるでしょうけど、力になるわ」
テイッシュを一枚掴み、容貌とは裏腹に可愛い音を立てながら鼻をかみ、頬に着いた雫を拭った。
「じゃあ、早速だけど説明に入ろうかしら」
少しだけ赤くなった頬を緩ませると、隼人に椅子を勧めて自分も対面の席に着いた。
隼人はその手際の良い行動が恥ずかしさを隠すものだと分かると同じく微笑んだ。
「はい、お願いします!」