P-003 ここはどこだ?
島からカヌーを漕ぎだして、昨日置いた目印のウキを探す。
ゆったりとしたうねりがあるだけだから、竹竿の上でなびく赤いリボンをすぐに見つけることができた。
とりあえずウキを目標にカヌーを進めながら、周囲を見渡す。
遠くに漁に出かける漁船が見えるだけで、風習に挑む俺と同じような連中の姿はどこにも見えない。
それほど大きな湾というわけではないんだけどなぁ……。目線が低いからだろうか。それに、やはり地球は丸いということになるんだろう。
港の方角に目を向けても、高い鉄塔が見えるだけだ。
30分も掛からずにウキの隣に来たところで、アンカーを投げ込んでカヌーを固定する。
さて、いよいよ漁の始まりだ。
装備を身に着けながら、荷物を固定しているゴムバンドを確かめた。
戻ってきたら荷物が流されてたなんてことになったら洒落にもならないからね。
最後にフィンを足に付けて、銛を握る。
本当に、これを使える相手がいるんだろうか?
どう見ても、50cm以上の大物用だと思うんだけどねぇ……。
海に入って、軽く潜る。
2、3回シュノーケルの感触を確かめるとともに、下にある溝をマスク越しに眺めてみた。
小魚はいるようだけど、大物はどうかな? やはり親父の言う通り、スマホで獲物を調達して貰ったほうが良かったかもしれない。
とりあえずは始めてみよう。
ビギナーズ・ラックという言葉もあるぐらいだ。案外大きなカサゴ辺りがいないとも限らない。
大きく深呼吸を繰り返したところで、最後に息を吐きだすと、頭から飛び込むように海底にダイブした。
水温はそれほど低くはないが、休憩を多めにとって体を温めれば半日ぐらいは漁ができそうだ。
水中の景色が、潜るにつれて蒼のモノトーンに変化していく。
やはり溝の底は、5mを超えていそうだな。
海底に達したところで、岩の隙間を丹念に探っていった。
魚はいるんだけど、それほど大きくはない。30cmに達するかどうかだから、大物とは言えないだろう。
息苦しさを感じたところで海面に向かった。
シュノーケルから海水を噴き上げて、新鮮な空気を吸い込む。
少し風が出てきたかな? でも、うねりは余り出ていないようだ。
カヌーのヘリを掴んで体を休めていると、穏やかな風に乗って海霧が近づいてきたのが見えた。
カヌーにひもで縛っておいたコンパスで港と野営した島の位置を確認する。
港は北北西で、島はほとんど真北のようだ。海霧で周囲が見えなくなったとしてもコンパスで方向を間違えなければ帰れるだろうし、海霧が1日中続くことはないだろう。
さて、今度はもう少し南に行ってみるかな?
数回ほど海中に潜って大物を探してみたが、大きなものでどうにか30cmを超えるぐらいだ。カサゴは煮つけも美味しいんだよね。鍋で煮るには丁度良いし、少し大きな奴なら刺身にもできそうだ。
この銛には小さすぎるようにも思えるけど、数を揃えれば評価してくれるんじゃないか。
大きさよりも数で勝負ということで親父達には納得して貰いたいところだ。
少し休んだら、本格的に銛で突いていくか……。
気になるのは海上の海霧だ。気のせいか、だんだんと濃くなっている感じがする。
最初は簡単にカヌーを見つけられたんだが、先ほど上がった時にはぼんやりと見えたぐらいだ。
方針が決まって、魚もいると分かった以上無理はしないほうがいい。11時を過ぎているから、食事をしながら海霧が晴れるのを待つことにした。
それにしても……。
さらに霧が濃くになってきた。
カヌーの舳先がおぼろげに見えるくらいだ。だけど、空を見ると太陽の姿はわかるんだよな。海面付近だけ濃密なのかもしれない。
だいぶ暑くなってきた感じがする。ラッシュガードを脱いだんだが、この霧ではなぁ。タオルで拭いても、海霧が粘るように体を濡らしてくる。
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「ウガッ!!」
海水を飲んでしまった!
慌てて海面に顔を出すと、カヌーを探す。
どうやらカヌーの上で眠り込んでしまったらしい。舷側さえないカヌーだから体が傾いた拍子に海に投げ出されたんだろう。
目の前にあったカヌーに、急いで這い上がってみたものの、少しおかしなことに気が付いた。
3度も潜ればカヌーで体を温めていたぐらいの海水温だったのだが、だいぶ暖かくなっている。
まるで温水プールのような水温だ。30度近くあるかもしれない。暖流が湾にでも入ってきたのかな?
どれぐらい寝ていたのだろう? 時計を見て思わず目を見開いた。昼食を取る前と同じ11時過ぎを表示している。
さっき、海の投げ出されたときに時計が故障したなら、それより後の時刻で止まってるはずだろうし、従兄の貸してくれた時計は堅牢であることが売りの代物だ。
じっと見ていても秒のデジタル表示が全く動かない。表示自体はしてるんだから、内部の電子回路の故障かもしれないな。
太陽で時刻を知ろうと頭を上げると、霧を通して白く輝く円盤が見えた。前より明るく見えるから、この海霧が晴れるのももうすぐじゃないかな。
だけど、太陽がゆっくりと動いていることに気が付いた。短時間で動くことはないだろうから、カヌーが動いているのだろうか?
潮で移動したのかな? アンカーは降ろしといたんだが……。体を伸ばしてアンカーのロープを引いてみた。
「なんだと!」
アンカーのロープが弛んでいると思っていたのだが、ロープを引くとするすると手繰り寄せることができた。
「切れたのか。岩で擦られても直ぐには切れないだろうに……」
ぼやいても仕方がない。たぶん流されてはいるんだろうけど、湾を出ていないなら問題はないはずだ。
湾を出ればうねりも出てくるし、波だって高いに違いない。
とりあえず、漁港の方向ぐらいは確認しておこう。
だいぶ海霧が薄くなってきた。一時はカヌーの舳先さえぼんやりしてたんだが、今では周囲100mほどは何とか視認できる。
「まったく嫌になるな」
コンパスの針が定まらない。おおよその方向はわかるのだが、針が左右に振れ続けている。オイルコンパスだから、こんなことはないはずなんだけど……。
これも、経験ということなんだろう。帰ったら友人達に話してあげよう。ちょっとした不思議体験は友人との話題には丁度良い。
突然、背中の古傷が疼き始めた。
痛いというのではなく、熱を帯びて脈動しているような感じだ。背中に手を伸ばして古傷に手を伸ばしたけど、別に出血しているわけではない。
ドクン、ドクンと脈動する古傷なんだが、海中に潜った時にバイ菌でも入ったということかな?
あまり酷いようなら漁を止めて直ぐに帰らなくちゃ……。
その時だ。とんでもないことに気が付いた。背中の疼くような脈動は、俺の鼓動にリンクしてないぞ。
鼓動が5回打つ間に古傷の脈動は2、3回だ。俺の肉体とは異なる動きってことじゃないか!
ゾクリと背筋が冷たくなる。
早めに病院に行かないといけないんじゃないか?
幸いなことに海霧もだんだんと薄れて、今では島影さえおぼろげに見えてきた。方向的には北になるだろうから、野営した島に違いない。距離にして300mはなさそうだ。やはり大きく流されたわけじゃないってことだな。
少し安心したところで、島に向かってパドルを漕ぐ。
日差しを避けようと、荷物を固定したバンドに挟んだ帽子を取ろうとした時だ。何気に海面に目が行ったのだが……。見えた途端、パドルを漕ぐ手が止まってしまった。
海底にサンゴが広がっている。
水面のすぐ下に見えるけど、透明度が高そうだから数mはあるのだろう。それでもサンゴが水面近くまで伸びているところは鮮やかな色を確認できた。
中学生の頃、沖縄に連れて行って貰った時に、似た光景を見たことがあるけど、ここは親父の実家のある大きな湾の中のはずだ。
まさかと思って、島に目を向ける。
海霧が晴れたから今度ははっきりと見えるんだが……、高く伸びているのはヤシの木じゃないか! それに、北の島1つだけではなく、あちこちに島が見える。
海水に手を入れると、かなりの温かさだ。
サンゴ礁の広がり、ヤシの木がある島、海水温の高さ……。どう考えても湾の中ではない。
……ここは一体どこなんだ?
親父達の話していたことが、俺にも起こったってことか?
俺はあの港町の住人じゃないんだけどなぁ。
呆然としていた頭がだんだんと冷えてくる。問題は、これからのことだ。
まだ、別の世界に来たと決まったわけではないだろうから、人里を探すことが第一になるのだろう。
幸いにも心配性の親父が携帯食料を持たせてくれたし、水も2、3日は持つはずだ。
風も少し出てきて小さな波が立っている。不思議とうねりはあまり感じられない。
東風のようだから、この風を受けて西に進んでみるか。
2日も進めば数十kmは移動できるに違いない。それまでには人の住む島が見つかるんじゃないかな?
ゆっくりとパドルを漕ぎ始めた。
風下に向かって進むから、俺の体に当たる風も推進力になるのだろう。あまり力を入れなくてもカヌーは進んでいく。
周囲の島は緑に覆われているから、良い眺めだ。
点在した小島の緑と蒼い海……。絶対に観光名所の1つなんじゃないか。
夕暮れが近づいたところで、近くの島の砂浜にカヌーを停める。
大きな石を見つけて、切れたアンカー用のロープの先に結んでおいた。
カヌーを少し砂浜に乗り上げて止めたから、流されることはないだろう。
枯枝を集めて焚火を作り、シェラカップを使って簡単なスープを作る。
早めの夕食だけど、携帯食料の量がもう少し多ければと思ってしまう。あまり腹が膨れないんだよなぁ。
食事が終わったところで、明日の準備を始めた。
長さ2mほどの棒を見つけたので、カヌーの中心軸に沿っていくつか空いている穴を使えば帆柱ができるはずだ。
帆は厚手のビニルシートを三角に折って帆柱を通して、先端を結んでおけばいい。三角に突き出た先をロープで結び、カヌーに乗った俺が握れば風を捉えることができるだろう。
穴に合わせて立木を削ったり、荷物の中からロープを探したりして時間が掛ったけど、どうにか完成したころには星空が広がっていた。
銀河がきれいに見えるし、これほど多くの星を見ることは、今までに無かったんじゃないかな?
砂浜に立って周囲を眺めてみたが、どこにも人明かりが見えなかった。




