N-001 始まりの海
岸辺から100m程の沖合にカヌーを押していくと、カヌーからアンカーを下ろす。アンカーと言っても、渚で拾った石をロープに結んだものだ。流れのあまりないこの湾内では十分にカヌーを固定できる。
すでに友人達は岸辺で焚き火を始めているから、今夜のおかずは俺の銛の腕に掛かっているようなものだ。
もう1人が俺より先に漕ぎ出して釣りをするようだが、奴よりは大物を取らねば仲間の中で自慢することは出来ないな。
友人の1人から借り受けた水中銃を持って海に潜る。水中銃はご禁制だが、この辺りにうるさく言うものはいないはずだ。通常のゴムで撃ちだす銛に比べ遥かに獲物を狙いやすいと言ってたな。俺も銛は持ってきたんだが、今はカヌーの脇に釣竿と共に結んである。
高3の最後の夏休み。
小さな漁村で暮らしてきた、俺達悪童連中の最後の夏休みだ。
1人はこの村に残り親と一緒に漁船に乗る。2人は都会の中小企業に就職するし、俺ともう1人は、村を離れて大学に進む。と言っても、あくまで予定で合って大学の方にも都合があるだろうが、無名に近い私学だから問題は無いんじゃないかな?
1週間で帰ると親達に告げて、小さな湾を囲む島々をカヌーで巡りながら浜辺でキャンプを楽しむ。
親達がプラスチック製のカヌーを持っていたのも都合が良い。
そんな暮らしも3日目になる。
昼食を小さな島でとった時に話題になったのは、この辺りで捕れる魚の大きさだ。サメを除外したとすればいったい何が一番か?
その結論を3つの方法で試すことになった。船釣り、素潜り、岩場での釣り。全て根魚狙いなんだが、上手く行けばクエが食えそうだ。
昔は大きなクエが釣れたと、お祖父ちゃん達が話してくれたが、たまに港で見る物は小さかったな。
人の身長程の奴がたくさんいた、と話してくれたお祖父ちゃんはすでに亡くなっている。
親父達もそんな話を聞いていたが、笑ってはいなかった。やはりいたんだろうな……。
サングラスを外して水中眼鏡をかける。足にフィンを付ければ準備完了だ。水中銃を手に海に飛び込んだ。
シュノーケルを使って、岩の割れ目を探りながら水面近くを泳いでいると、ちょっとした深場を見付けた。
カヌーを固定した場所の水深は精々5m程度だった。ここは、10mを越えてるんじゃないか? まるで地球の穴に見える。直径は10m程だが、こんな場所なら大物が潜んでいてもおかしくはない。
水中銃のゴムはすでに引かれているし、スピアの銛先は鋭い1本ものだ。スピアに付けられた道糸はパラシュートの吊り紐からほぐしたものらしい。5m程の長さで銃に結んである。丈夫さは保障すると友人が言ってたな。
海上に頭を出して、深く息を数回すると、頭を海中に突き刺すようにして深場を目指して潜って行った。
俺の潜水可能時間は3分。海女さんよりも長いんじゃないか? そんなちょっとした特技があるんだけど、世の中は広いから、数分間も水中で漁が出来る人達もいるらしい。いったいどんな連中なんだろうな。
無駄な動きをせずに潜っていくと、岩の割れ目に目を向ける。体を捻りながら穴の周囲を見渡した。
何か変だ。岩に割れ目がほとんどない。こんな場所なら数十cm程の割れ目が縦横に走っているはずなんだが……。
急に恐ろしくなって海面に向かって浮上する。黒い中に明るい場所がある。相当深く俺は潜っていたようだ。
頭上の灯りは広がりを見せながら波で揺らいで見える。
スキューバダイビングで海底洞窟から頭上を眺めた時があったが、丁度こんな感じだったな。あれは去年の夏だったか……。
やっと海上に頭を出して深呼吸をする。カヌーに戻ってプラスチックボディの船体に這い上がると、水中銃を舷側に結び付け、プラスチックのカゴにフィンと水中眼鏡を投げ入れて、帽子とサングラスを掛ける。
パドルを手に、沖に出ている友人のカヌーを探したが……、どこにも見当たらない。振り返って砂浜を見ると、そこには砂浜どころか島さえなかった。
いや、島はあるのだが……、俺達がキャンプを楽しんでいた島ではなかった。
岩場が続いた饅頭のような島には見たことも無い木々が茂っている。
そういえば、少し暑い気がするな。多目的デジタル時計の気温は33℃になっているぞ。いくら夏でも湾内の気温が32℃を超える日はそれ程無い。異常気象とは無縁の土地だからな。
流された訳では無いだろう。ちゃんと俺のカヌーはあったんだから……。
奴ら、俺を置いて場所を移動したんだろうか? アンカー代わりの石を引き上げて、島の周囲を一回りすることにした。
俺達の住む村の周囲には小島がたくさんある。俺の知らない小島もあるんだろう。
最初はそんな気持ちでいたのだが、岩場の取り巻く小島を一回りしたところで、愕然とした。
たくさんの島があるのだ。それこそ、遠くにも霞んだ島が見えるし、海の様子も変わっていた。
色とりどりの魚が群れをなしているし、岩と少しばかりの海草の海から、サンゴの繁茂した海に変わっていた。
まるで、あの湾から赤道近くの海に一瞬にして移動した感じだ。
そんな話が、都市伝説サイトにたくさんあった気がするけど、あれは作り話だと友人と笑っていたのが昨日のようだ。
これが、そうなんだろうか? だとしたら、一躍時の人になりかねないな。TVや雑誌のインタビューにも答えなくちゃならないし……。
そうとなれば、人の住む島を探さねばなるまい。これだけ風光明媚なサンゴ礁の海だ。ダイバー達を連れた観光船だって通るだろう。ジッとしているよりは、こっちから探すことが大事かも知れない。幸いにも水と食料は十分にある。
時計のコンパス機能で方向を確認し、西に向かってパドルを漕ぐ。
島と島との距離があまりないせいか、潮流はそれ程でもない。コーラを飲みながら、ひたすら西に向かって漕いで行った。
半日程漕ぐと夕暮れが近付く。周囲は無人の島ばかりだ。
名も知らぬ島の小さな入り江にカヌーを入れてアンカーを投げ込んだ。カヌーの横幅は俺の両肩より少し広い位だから、腰がしっかりとシートに付いているなら寝ぼけてひっくり返ることも無いだろう。
島に上陸するのはリスクがあるから、海の上の方が安心できる。
・・・ ◇ ・・・
翌日は、朝日を顔に浴びて目が覚めた。
気の抜けたコーラの残りで、ビスケットのような携帯食料を食べる。島と島を極彩色の鳩位の鳥が飛んでいる。朝日で光る海は小波程度だ。まるで池と勘違いしそうだが、カヌーの直ぐ下にはサンゴ礁が広がっているんだよな。
昨日と同じく、西に向かってパドルを漕ぐ。手の皮が剥けそうだから、軍手を付けた。パドルが滑らないように滑り止めが付いているし、パドルには2m程の紐も付いているから、流されても直ぐに回収出来るだろう。
昼近くなって、火照った顔を洗おうとカヌーから半身を乗り出した時だ。
カヌーの真下をキラキラした魚体が一緒に泳いでいるのに気が付いた。カヌーから1m程下なんだろうが、その長さは……とんでもなく長いぞ!
ウツボの変種なんだろうか? 太さは俺の胴位だし、長さは少なくともカヌーの5倍以上はありそうだ。
あまり、関わり合いになりたくはないな。ゆっくりとカヌーを近くの島に寄せようとした時、俺の直ぐ前方の海が爆発したように水飛沫を上げた。
思わず目を閉じてしまったが、恐る恐る開けた目に映ったのは、虹色に輝く魚体を持つ蛇のような姿をした生物だった。
蛇ではないな。背びれがあるし……。そんなくだらないことを考えた時、俺の体が何かに弾かれたようにカヌーから投げ出され、海中に沈んだ。
ぶくぶくと沈んでいくのは覚えているが、この海は精々10m程の深さだ。
次の瞬間。俺の体に何かが巻き付き、どんどんと深みに運ばれていく。
ゴボゴボと肺が締め付けられて残った空気を吐き出していく。意識が遠くなり、左腕に鋭い痛みが走ったのが、俺の最後の記憶になった。
ふと、深く息をついた自分に気が付いた。
いつの間にかカヌーに乗っているのだが……。さっきの出来事は何だったんだ?
カヌーの下を覗いてみると、数m下に広がるサンゴと極彩色の魚が群れている。暑さのせいで幻をみたんだろうか?
まあ、今日は早めに休もうと、パドルに手を伸ばした時だ。
左腕の手首近くに何か付いてるぞ。確か……、そうだ。かなり痛かったことは覚えている。幻で痛みを感じるって事があるんだろうか?
不思議な気持ちで腕を良く見ると、真珠質の円盤のようなものが俺の腕に埋まっているようだ。三分の一程が表皮を破って飛び出しているんだが、腕時計程の大きさだ。痛くも痒くもないし、とりあえず命を直ぐに取られるものでは無さそうだ。
この冒険の記念品って事だろうか? 意外と高値で売れたりして……。
コーラが無くなったので、水筒の水を飲む。これが無くなると、2ℓのペットボトルが1本残ってるだけになる。
早めに住民の住む村を見付けなくちゃならないな。
携帯食料のビスケットを水で喉に流し込む。昼食はこれで終わりにしよう。水筒の水は残り2口ほどだ。先は長いのかも知れない。
ゆっくりパドルを漕いでいるから疲れはさほどない。それよりこの島はいったいどこまで続いているんだろう?
広い場所に出たかと思っても精々が数km程だ。その先には、また小島が続いている。
2つ目の広い場所に出た時だ。島と島の真ん中付近で、防水ケースに入れてあったタバコを取り出して火を点ける。
2個買い込んで来たが、まだ1個目がだいぶ残っているな。元々吸う人間ではなかったし、友人との付き合いで楽しむぐらいだ。そう言えばウイスキーもあったはずだが、ここで飲むのも問題だろう。寝る前にでも楽しむとするか。
吸い殻を携帯灰皿に入れて、防水ケースに入れておく。
さて、あの島まで頑張ろうかと思ってパドルを漕ぎだした時だ。遠くに、黒いものが動いているのが見えた。
カヌー後部席のリュックから双眼鏡を取り出して見てみると、まだ小さいが船だという事が見て取れた。その上、船尾に回転している水車が水を叩いているのが見える。
やっと見つけたか。少し安心してリュックに双眼鏡を戻すと、観光船に向かってカヌーを漕ぎだした。
これだけ風光明媚な場所だ。真っ直ぐ一方向に進んでいれば、絶対観光船に会えると思っていたが、やはり俺の勘に狂いは無かったって事だ。