断ち切れぬ絆
「片岡様がいらっしゃいません」
翌朝、侍女の悲壮な叫びが屋敷中に響き渡り、山背王は飛び起きた。
朝、いつもの時間に侍女が起こしに行ったら、既に姿がなかったという。
そこからは大変だった。片岡の兄である自分の処にも、入れ替わり立ち代り人がやってきて、彼女の居場所の心当たりを尋ねられ、一緒になって探し回り、気付けば、朝餉もまだ食べていない。
しかし、誰もそんなことは気にかけていない様子だった。
(こりゃ、屋敷にはいないな)
山背はあきらめたようにため息をついて、自室に戻り、板張りの床に大の字に寝転がった。
既に、片岡捜索は一刻も続いている。祖父の館は飛鳥でも一、二を争う広い屋敷だが、使用人全員で探しているのに、見つからぬわけがない。
神隠しだ、賊だと、皆慌てているが、絶対そんなはずはない。片岡は自ら姿を消したに決まっている。
宮を移る、当日の朝に姿をくらませるなんて、無言のそして、何よりの抵抗だ。
ただ、消えた先は何処なのか、見当がつかない。
(あいつなら、知ってるかもしれないな)
片岡と仲良しの従兄弟の顔を思い浮かべた瞬間だった。
「何かあったの? 屋敷中、バタバタしてるけど」
耳慣れた声に、山背は上体を起こした。まるで自分の家のように、遠慮のない態度で立ってる男の名を呼ぶ。
「入鹿っ。ちょうど良かった。お前に聞きたいことがある。片岡がいなくなった」
「いなくなったって、何処に…?」
入鹿の表情が険しくなった。
「それがわかったら、苦労してないさ。お前、何処か心当たりないか」
そうたずねた時には、入鹿はもう一目散に廊下を駆け出していた。
「おい、何処行くんだ」
背中に受けた問いかけに、彼は振り向きもせずに答えた。
「あまかしのおか~」
「待てよ」
山背は、入鹿の勢いを削ぐように言った。
「何?」
「何故そこだと確信が持てる?お前が呼び出したのか?」
「違うけど、よく二人で遊んだ場所だから。それに、あの丘からは、飛鳥が一望に出来る。ここを離れる片岡なら、きっとあの景色をもう一度見たいはず」
アマカシノオカ
山背は、初めて聞いた名だ。
「行って…どうする積もりだ」
「ここに連れてくればいいんでしょ?」
「片岡が、何故斑鳩に行きたくない、と言ってるかわかるか? お前と離れたくないからだろ?」
言いたくなかった、こんなこと。
まだ13才。従兄弟同士の幼馴染みの恋なんて、遊び相手を欲しがっているだけ。離れれば忘れる…。
そう高を括って、見て見ぬ振りを決め込む積もりだった。父も祖父も同じだろう。
けれど。
迷惑をかけることも、混乱を招くことも承知の上で、片岡は最後に入鹿に会いたいと望んでる。
こんな子どもじみたやり方でしか、表現出来ないとしても、幼いなりの恋なんだと。片岡の覚悟と真情は汲んでやりたかった。
それが兄として、妹の気持ちを代弁する、先程の言葉になって表れたのだ。
追いついた入鹿の両肩を、強引に反転させて、自分の方に向き直らせる。綺麗な瞳に鏡写しにされた自分の姿が揺れていて、山背は自分の言動を即座に悔やんだ。
(しまった、追い詰めすぎた)
「俺だって、同じだよ! けど、…今はどうにもなんないだろ」
泣き出しそうな声で、吐き捨てると、入鹿は自分の腕を掴んだ山背の手を振り払った。
「心配しなくても、片岡を傷つけず、当たり障りのない別れの挨拶して、ちゃんと連れてくるよ」
「そういうつもりじゃ…」
すまなかった、などと謝ったりしたら、余計この少年は傷つくのだろう。
お互い想い合っているのをわかっていながら、何も出来ずに、別離を強いられることに、自分の非力さを感じて、辛かっただろう。
それでも、自分の気持ちは封印して、見送るつもりでいたのに、入鹿が必死に閉じ込めた想いを、山背は無理やりこじ開けてしまった。
「…俺も行く」
「いい、来るな」
言葉以上に拒絶している入鹿の背中を、山背は黙って見送った。
入鹿の予想は当たっていて、程なくして、入鹿と、入鹿に手をひかれた片岡が戻ってきた。
一言も言葉を交わすことなく、屋敷の門をくぐる前に、繋いだ手はどちらからともなく、そっと離れた。
片岡は家中の者たちの出迎えを受けた。無事で良かった、と安堵する者がほとんどで、祖父の馬子でさえ、そうだったから、叱責を受けない代わりに、家出までした彼女の覚悟もうやむやにされてしまいそうだった。
「助かった、礼を言うよ」
片岡を連れて、屋形の中に次々に入っていく人並みに逆らうように、外に向かってとぼとぼ歩いてきた入鹿の肩にぽんと手を置いた。
「満足した?」
入鹿は、皮肉な笑いを口元に浮かべる。
しかし、虚勢を張っていられたのは、そこまでで、彼は両肘で顔を覆うようにして、その場にしゃがみこんだ。
「…悔しい」
誰に向けるでもなく、呟いた言葉が、山背の耳を捉えた。
淡々と飄々として、滅多に感情を出さない入鹿が、まるでお気に入りの玩具を奪われた子どものように、小さく見えた。
「また、逢えるさ」
山背は一緒になってしゃがみこむと、入鹿の背中をポンポンと叩いた。
「…絶対取り返す。あれは俺のだから」
子どもっぽい台詞と、裏腹な狂気じみた執着に、ぞっとなって小さな背中に置いてた手を、反射的に引っ込めていた。
◇◇◇
爾来5年。山背と入鹿と片岡が顔を合わせることなく、過ごしてきた年月――。
彼の名など、出さなくなった妹。行きずりの女との恋の噂が絶えぬ男。あの恋は終わったのだと、山背なりに見切りをつけていたのに――。
『殯に…入鹿は来ると思いますか?』
山背とて知りうるはずのない事柄を、口に出さずにはいられない程、奴に会う機会を待ちわびていたのか?
山背の知らぬ間に、またふたりだけの秘密の逢瀬の場でも作られたんじゃないか。逃げこむ先を、片岡が甘樫の丘と定めたように。入鹿だけがすぐに悟ったように。
山背の背中を冷たい戦慄が走った。